| 生没年 | 175年 〜 200年(享年26) |
|---|---|
| 所属 | 呉(前身の孫氏軍閥) |
| 字 | 伯符(はくふ) |
| 役職 | 討逆将軍、呉侯、会稽太守 |
| 一族 | 父:孫堅、弟:孫権、妻:大喬、義弟:周瑜 |
| 関係 | 元主君:袁術、好敵手:太史慈、仇敵:黄祖、許貢 |
| 参加した主な戦い | 呉郡平定戦(総指揮)、神亭山の戦い、廬江攻略戦 |
| 正史と演義の差 | ★★★☆☆(于吉仙人の呪いで死ぬのは演義の創作。史実は暗殺による負傷死。) |
| 実在性 | 実在(『正史』呉書 孫策伝) |
| 重要度 | ★★★★★ |
孫策は、呉の基盤を一代で築き上げた不世出の英雄です。父・孫堅の死後、袁術の下で不遇の時を過ごしましたが、兵を借りて江東へ進出すると、瞬く間に諸勢力を平定。「小覇王(項羽の再来)」と恐れられました。その武勇とカリスマ性は曹操をも脅かしましたが、天下を争う直前に刺客に襲われ、26歳の若さでこの世を去りました。
生涯
1. 父の戦死と屈辱の「袁術配下」時代
孫策の英雄伝説は、父の死という悲劇から始まります。191年、父・孫堅が襄陽の戦いで戦死すると、17歳だった孫策は一家の大黒柱となりました。
彼は父の遺体を曲阿に葬り、江都に移り住みますが、孫家の軍勢は離散し、父の主君であった袁術に吸収されていました。孫策は袁術を頼って寿春に赴き、父の旧臣を返還してもらうよう求めます。
袁術は孫策の才能を愛しながらも警戒し、「九江太守にする」と約束しては反故にするなど、彼を都合よく利用しました。孫策は廬江攻略戦などで功績を挙げながらも冷遇され続け、内心では袁術に見切りをつけて独立の機会を窺っていました。
2. 決意の独立と「江東平定」の快進撃
194年、孫策は袁術に対し「江東(揚州南部)にいる叔父を助けたい」という名目で兵を借ります。袁術は孫策が戻ってこないとは考えず、わずかな兵と馬を与えて送り出しました。
しかし、これが虎を野に放つ結果となりました。孫策が進軍を始めると、そのカリスマ性に惹かれて周瑜をはじめとする多くの若者や旧臣が集まり、長江を渡る頃には数千の大軍となっていました。
江東の地には、劉繇、厳白虎、王朗といった群雄が割拠していましたが、孫策は彼らを疾風怒濤の勢いで撃破していきます。その戦いぶりは楚漢戦争の覇王・項羽を彷彿とさせ、人々は彼を「小覇王」と呼んで恐れ敬いました。
3. 太史慈との激闘と人材登用
この平定戦の中で、孫策の器の大きさを示すエピソードがあります。劉繇配下の猛将・太史慈との出会いです。
神亭山の戦いにおいて、孫策は太史慈と一騎打ちを演じ、互いの武勇を認め合いました。その後、太史慈を捕虜にすると、孫策は自ら縄を解き「貴殿のような英雄と共に天下を語りたい」と説得して配下に加えます。
さらに、「敗残兵を集めてくる」と言って去った太史慈を、周囲が「逃げるに決まっている」と疑う中で孫策だけは信じて待ち続け、太史慈も約束通り兵を連れて戻ってきました。
このように、孫策は張昭や張紘(二張)といった賢人や、敵であった武将たちを次々と味方に引き入れ、新興勢力である孫氏軍団を強固な組織へと変貌させていきました。
4. 曹操との対立と許都襲撃計画
197年、袁術が皇帝を自称すると、孫策は絶縁状を叩きつけて完全に独立します。曹操が支配する朝廷に接近して「討逆将軍」「呉侯」の称号を得ると、袁術討伐に協力する一方で、着々と北進の準備を進めました。
200年、官渡の戦いが勃発し、曹操が袁紹と対峙して本拠地の許昌が手薄になると、孫策は驚くべき計画を立てます。「許昌を急襲して献帝を迎え入れ、天下に号令する」。
もしこの計画が実行されていれば、三国の歴史は全く違ったものになっていたでしょう。曹操も孫策の鋭鋒を恐れ、「孫策と争うべきではない」と警戒していました。
5. 突然の暗殺と弟への継承
しかし、天は孫策に味方しませんでした。許都襲撃の準備中、狩猟に出た孫策は、かつて殺害した呉郡太守・許貢の食客(暗殺者)3人に襲撃されます。
不意を突かれた孫策は、頬に毒矢を受ける重傷を負いました。当時の医学では治療困難な傷であり、自らの死を悟った孫策は、枕元に張昭ら重臣と、弟の孫権を呼び寄せます。
そして、歴史に残る遺言を託しました。「江東の衆を率いて、天下を争うなら私に及ばないが、賢者を任用して江東を保つならお前の方が優れている」。
天下統一の夢を19歳の弟に託し、小覇王・孫策は26歳という若さでその生涯を閉じました。
人物評
孫策は、類まれな武勇と、人を惹きつける強烈な磁力を持っていました。『正史』には「美姿顔(美しい容姿)」であり、「談笑を好み、性格は闊達で、人の意見をよく聞き入れた」と記されています。
彼が兵を率いると、民衆は「孫郎(孫策様)が来た!」と喜んで迎え入れ、敵対する者もその威光に触れると戦わずして降伏したといいます。軍事的な天才であると同時に、人心掌握の天才でもありました。
一方で、自分に逆らう者や高潔すぎる名士(許貢や高岱など)を容赦なく処刑する苛烈な一面もあり、それが多くの敵を作り、最終的に自身の命を縮める原因となりました。
三国志演義との差異
太史慈との一騎打ち
『三国志演義』では、神亭山で太史慈と一騎打ちをする際、孫策が太史慈の手戟を奪い、太史慈が孫策の兜を奪うという、互角の死闘がドラマチックに描かれます。これは史実の記述をベースに脚色された名シーンです。
于吉仙人の呪い
孫策の死因について、演義ではオカルト的な演出がなされています。
孫策は、民衆を惑わす道士・于吉(干吉)を処刑しますが、その後、于吉の亡霊に悩まされるようになります。鏡を見るたびに于吉の姿が映り、それに激昂して鏡を割り、傷口が開いて死ぬという「呪殺」のような最期が描かれます。
史実では、前述の通り許貢の食客による襲撃が死因ですが、裴松之の注には『志林』などの異説として「于吉を殺して祟られた」という話も紹介されており、演義はこれを採用して膨らませたものです。
一族
孫氏は兵法家・孫武の末裔を称する武門の家柄です。
- 父:孫堅
江東の虎。孫策の武勇とカリスマ性は父譲りでした。 - 弟:孫権
後の呉帝。孫策は弟の「守成」の才を見抜き、後継者に指名しました。 - 妻:大喬
絶世の美女姉妹「二喬」の姉。周瑜の妻となった小喬とともに、孫策・周瑜の義兄弟ペアに嫁ぎました。 - 義弟:周瑜
「断金の交わり」を結んだ親友。孫策の挙兵を助け、その死後も孫権を支えました。
評価
曹操の評
評価: 曹操は孫策の勢いが盛んであることを聞き、嘆息して言った。「狂犬のようなあの子(孫策)とは、正面から争うことはできない(争うべきではない)」と。
出典: 『三国志』呉書 孫策伝 裴松之注『呉歴』
原文: 「曹公聞策平定江南,意甚難之,常呼『猘兒難與爭鋒也』。」
陳寿の評
評価: 孫策は傑出した気迫と才能を持ち、その勇気と知略は同時代の人々を凌駕していた。もし彼が天寿を全うしていれば、天下をどう動かしていたか計り知れない。
出典: 『三国志』呉書 孫討逆伝 評
原文: 「策英氣傑濟,猛銳冠世,覽奇取異,志陵中夏。割據江東,策之基兆也。」
エピソード・逸話
伝国玉璽と袁術
演義では、孫策は父が井戸から拾った「伝国玉璽」を袁術に質入れして兵を借りたとされています。
史実でも孫堅が玉璽を拾ったという説や、袁術がそれを奪って皇帝を自称した事実はありますが、孫策がそれを「担保」として取引に使ったという明確な記述はありません。しかし、袁術が孫策の兵力を恐れながらも利用しようとした関係性を象徴する有名なエピソードです。
顔の傷と鏡
襲撃によって顔に重傷を負った孫策は、鏡を見て自分の顔が醜く変わってしまったことに衝撃を受け、「こんな顔でどうして功業を建てられようか」と叫んで傷口が破裂し、死期を早めたといいます(『呉歴』)。
自分の容姿とカリスマ性に自信を持っていた彼にとって、顔の傷は死に匹敵する絶望だったのかもしれません。
