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曹操(そうそう)

ざっくりまとめ
生没年 155年 〜 220年(享年66)
所属 (創始者)
孟徳(もうとく)
役職 魏王・丞相・武帝(追号)
一族 父:曹嵩、子:曹丕曹植曹昂など
関係 好敵手:劉備孫権袁紹、軍師:荀彧
参加した主な戦い 黄巾の乱官渡の戦い赤壁の戦い
正史と演義の差 ★☆☆☆☆
実在性 実在(正史 魏書 武帝紀)
重要度 ★★★★★

「治世の能臣、乱世の奸雄」。政治・軍事・文学・芸術の全てにおいて頂点を極めた超人。後漢王朝の権威を利用して中華の過半を制し、後の王朝の基礎を築いた。冷徹な合理主義者でありながら、激情家で詩を愛するロマンチストな一面も併せ持つ。その圧倒的な存在感は、千年以上の時を超えて人々を魅了し、畏怖させ続けている。

目次

生涯

「贅言(ぜいげん)」と呼ばれた少年

155年、豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)にて、一人の男児が産声を上げました。名は曹操、字を孟徳。幼名は阿瞞(あまん)といいます。

彼の家系は少し特殊でした。父の曹嵩は、後漢の宮廷で権勢を振るった大宦官・曹騰の養子だったのです。つまり、曹操は「宦官の孫」という、清流派(名士層)からも濁流派(宦官勢力)からも完全には受け入れられない、微妙な立場の家に生まれました。この出自コンプレックスと、実力さえあれば家柄など関係ないという強烈な反骨心が、後の「唯才主義(才能のみを基準に登用する)」の原点となったと言えるでしょう。

少年時代の曹操は、品行方正とは程遠い子供でした。
鷹狩りや放蕩に明け暮れ、勉強など真面目にする様子はありません。叔父がこれを心配して父・曹嵩に告げ口すると、曹操は一計を案じます。
ある日、叔父に出くわした曹操は、突然地面に倒れ込み、口から泡を吹いて「中風(脳卒中)」の発作を起こしたふりをしました。驚いた叔父が慌てて曹嵩を呼びに行くと、曹操は何食わぬ顔でケロリとしています。

「お前、病気はどうした?」と父が聞くと、曹操はこう答えました。「私は元々病気などしておりません。ただ、叔父上が私を嫌っておられるので、あることないこと吹き込んだのでしょう」。
これ以来、父は叔父の告げ口を一切信じなくなりました。曹操はこうして自由奔放な生活を手に入れたのです。彼の狡知(ずる賢さ)と、人を操る心理術の片鱗が、すでに幼少期から現れていました。

月旦評:「乱世の奸雄」の予言

そんな「不良少年」の才能を見抜いた人物たちがいました。
一人は、後漢の太尉である喬玄です。彼は若き曹操に会うなり、「天下はまさに乱れようとしている。世を救うのは君だ」と断言しました。

そしてもう一人、当時最も権威ある人物評論家(月旦評の主催者)であった許劭です。
曹操は自ら許劭のもとを訪ね、「私は一体どのような人物か」と強引に問い詰めました。許劭は彼の暴力性を恐れたのか、あるいはその複雑な人物像に言葉を選んだのか、しばらく黙り込んだ末に、歴史に残る名評を下しました。

現代語訳:「君は、平和な世の中なら有能な官僚(能臣)だが、乱世になればずる賢い英雄(奸雄)になるだろう」
出典:正史書 武帝紀(裴松之注 引く『孫盛異同雑語』)
原文:「子治世之能臣,亂世之奸雄。」

これを聞いた曹操は、怒るどころか大笑いして喜んだといいます。「奸雄」。それは既存の道徳や常識に縛られず、あらゆる手段を使って世を平らげる者を意味します。彼は自分の本質を見抜かれたことに、強烈な快感を覚えたのでしょう。

棒叩きで示した「法」への執着

20歳で孝廉に推挙され、洛陽の北部尉(警備隊長のような役職)に任じられた曹操は、いきなりその苛烈さを発揮します。
彼は役所の門に「五色棒」というカラフルな処刑棒を掲げ、「夜間外出禁止令を破った者は、皇族だろうが高官だろうが、例外なく叩き殺す」と宣言しました。

ある夜、当時の最高権力者であった宦官・蹇碩(けんせき)の叔父が、禁止令を破って夜歩きをしていました。部下たちは恐れおののきましたが、曹操は躊躇なくこの叔父を引き捕らえ、宣言通り棒で叩き殺してしまったのです。

洛陽の人々は震え上がり、もはや法を犯す者はいなくなりました。
このエピソードは、曹操の政治哲学である「信賞必罰」と「法家思想」を象徴しています。彼は血筋やコネを何よりも嫌い、ルール(法)の前では万人が平等であるべきだという信念を、暴力的なまでの実行力で示したのです。

黄巾の乱と、野望の萌芽

184年、張角率いる黄巾党が蜂起し、黄巾の乱が勃発。後漢王朝を揺るがす未曾有の反乱に対し、曹操は騎都尉として参戦します。
豫州潁川での戦いにおいて、曹操は皇甫嵩朱儁といった名将たちと共に戦い、火攻めを用いて黄巾軍を壊滅させました。

この戦功により済南の相(知事)に昇進した曹操は、ここでも腐敗した役人たちを一斉に罷免し、淫祠邪教(怪しげな宗教施設)を徹底的に破壊しました。彼の統治により済南は粛清され、秩序を取り戻しましたが、あまりに厳格すぎる改革は既得権益層の反発を招きます。
「このままでは殺されるか、中央の政争に巻き込まれる」。そう察知した曹操は、病気と称して故郷に引きこもり、書物を読んで軍略を練る雌伏の時を過ごしました。彼は静かに、来るべき「乱世」を待っていたのです。

対董卓戦:理想と現実の狭間で

189年、霊帝が崩御すると、洛陽は大混乱に陥ります。何進将軍が宦官に暗殺され(十常侍の乱)、その混乱に乗じて西涼の軍閥・董卓が上洛。董卓は少帝を廃して献帝を擁立し、暴虐の限りを尽くしました。

七星剣の暗殺未遂(演義)と、真実の逃亡

演義』では、曹操が王允から七星剣を借り受け、董卓の寝所に忍び込んで暗殺を試みるスリリングな場面が描かれます。鏡越しに気づかれ、「剣を献上に参りました」ととっさに嘘をついて逃げるシーンは、曹操の機転を際立たせる名場面です。

しかし、正史における曹操の行動はもっと現実的でした。董卓は曹操の才能を高く評価し、驍騎校尉に任命して取り込もうとしました。しかし曹操は「董卓は必ず破滅する」と見切りをつけ、名前を変えて洛陽から脱出したのです。

呂伯奢一家殺害事件:魔王の誕生

逃亡の途中、曹操は父の知人である呂伯奢の家に立ち寄りました。
演義』では、呂伯奢が酒を買いに出かけている間、奥から「縛り上げろ」「殺してしまえ」という声が聞こえます。曹操は「自分が捕まる!」と勘違いし、家人を皆殺しにしてしまいます。しかし、台所を見ると縛られていたのは「豚」でした。

呆然とする曹操。そこへ酒を買った呂伯奢が帰ってきます。
「今さら生かしておけない」。曹操は非情にも呂伯奢をも斬り殺し、同行していた陳宮に向かってこう言い放ちました。

現代語訳:「俺が天下の人に背こうとも、天下の人が俺に背くことは許さん!」
出典:演義』および『魏書』(孫盛『雑記』)
原文:「寧教我負天下人,休教天下人負我。」

このセリフこそ、曹操という人物のエゴイズムと孤独、そして魔王としての覚悟を決定づけた瞬間として語り継がれています。正史の注釈にも類似の記述があり、彼が自己保身のために極端な行動に出たことは事実のようです。

滎陽の戦い:挫折と孤独

故郷に戻った曹操は私財を投げ打って挙兵し、袁紹を盟主とする「反董卓連合軍」に参加します。
しかし、諸侯たちは酒盛りをするばかりで、誰も強大な董卓軍と戦おうとしません。

「この腰抜け共が!」
業を煮やした曹操は、わずかな手勢を率いて単独で董卓軍を追撃しました。しかし、待ち受けていたのは董卓配下の名将・徐栄でした。
曹操軍は滎陽の戦いで完膚なきまでに叩きのめされました。曹操自身も流れ矢に当たり、乗馬を失って絶体絶命の危機に陥ります。

この時、従弟の曹洪が自らの馬を差し出して言いました。「天下に私がいなくても困りませんが、貴方がいなくては困るのです!」。
曹操は曹洪の助けで夜陰に乗じて逃げ延びましたが、軍は壊滅。連合軍の諸侯の無能さと、理想だけでは勝てない現実を骨の髄まで味わいました。

連合軍は解散。曹操は、他人の力を当てにせず、自分自身の力で天下を掴むことを決意します。

青州兵の獲得:覇業の基盤

192年、兗州で再び黄巾党の残党が蜂起しました。その数、なんと百万。
兗州牧の劉岱が戦死し、混乱する現地の人々は、曹操を新たな指導者として迎え入れました。

曹操は、力攻めだけでなく、巧みな交渉術を用いて彼らを降伏させました。そして、降伏した兵士の中から精鋭三十万人を選抜し、自分の直属部隊として再編成したのです。
これが、天下にその名を轟かせる最強軍団「青州兵」の誕生です。

青州兵は、曹操個人に忠誠を誓う私兵集団でした。彼らは農耕も行い、曹操の経済基盤(後の屯田制の先駆け)を支える労働力ともなりました。
金も兵も地盤もなかった曹操が、一躍、群雄の中でもトップクラスの実力者へと躍り出た瞬間です。

徐州侵攻:復讐と計算

兗州を平定した曹操は、父・曹嵩を呼び寄せようとしました。しかし、その道中、徐州牧・陶謙の部下によって曹嵩が殺害され、財産を奪われるという悲劇が起きます。

193年、曹操は「父の仇討ち」を大義名分に掲げ、怒濤の勢いで徐州へ侵攻しました。
この時の曹操の行いは、彼の生涯における最大の汚点として記録されています。

現代語訳:「曹操は数十万人の男女を虐殺し、泗水(川の名前)の流れが死体で堰き止められるほどであった。鶏や犬すら生き残らなかった」
出典:正史書 武帝紀
原文:「坑殺男女數万口於泗水,水為不流。」

徐州大虐殺です。
これは単なる感情的な復讐だったのでしょうか? 多くの歴史家は、これには冷徹な計算があったと指摘します。

  • 人口を減らすことで、将来的な敵の兵站(食糧生産能力)を奪う。
  • 恐怖(テロル)によって周辺諸国を震え上がらせ、戦意を喪失させる。
  • 略奪によって自軍の物資を補給する。

「天下」を平らげるためには、悪魔にすらなる。曹操の覇道は、鮮血によって塗り固められていきました。
しかし、その隙を突いて、背後でとんでもない裏切りが発生します。親友と信じていた張邈と、参謀の陳宮が、あの呂布を引き入れて兗州で反乱を起こしたのです。

本拠地の喪失。それは曹操にとって、生涯最大の危機の始まりでした。

兗州攻防戦:呂布との死闘

194年、徐州大虐殺を行っていた曹操の元に、衝撃的な知らせが届きました。
陳宮張邈が裏切り、呂布を引き入れて反乱を起こしました。兗州の郡県はほぼ全て彼らに呼応しました」

曹操の留守を突いた、鮮やかなクーデターでした。
かつて親友だった張邈と、信頼していた参謀の陳宮。彼らは曹操の冷酷すぎる統治(名士の処刑や虐殺)に恐怖し、反旗を翻したのです。
曹操に残されたのは、荀彧程昱が死守した、わずか三つの城(鄄城・東阿・范)だけでした。まさに絶体絶命の危機でした。

「飛将」の恐怖と、イナゴの奇跡

曹操は急ぎ軍を返しましたが、待ち受けていたのは「人中の呂布」率いる最強の騎馬軍団でした。
濮陽の戦いにおいて、曹操軍は呂布軍に散々に打ち破られます。曹操自身も乱戦の中で孤立し、火攻めに遭って左手に大火傷を負うほどの危機に陥りました。
演義』では、燃え盛る梁が落ちてきて馬を直撃し、典韋が命がけで救出するシーンが描かれます。

「もうダメか」と思われたその時、天が介入します。
大干ばつと、それに伴うイナゴ(蝗)の大発生が起きたのです。穀物は食い荒らされ、両軍ともに食糧が尽きて戦いを継続できなくなりました。
「人が互いに食い合う」ほどの飢饉となり、呂布も軍を引かざるを得ませんでした。

この休戦期間に、曹操は屯田の準備を進め、態勢を立て直します。
翌195年、定陶の戦いにおいて、曹操は伏兵を駆使して呂布軍を撃破。ついに兗州を奪還し、呂布劉備のいる徐州へと追い落としました。
地獄の淵から這い上がった曹操は、より一層、冷徹さと慎重さを増していました。

天子を奉じて諸侯に令す

覇権へのラストピース

196年、長安を脱出した献帝が、荒れ果てた洛陽に帰還していました。しかし、都は廃墟と化しており、皇帝一行は野草を食べて飢えをしのぐ惨状でした。

袁紹を含む他の群雄たちが「厄介事を抱え込みたくない」と皇帝の保護を躊躇する中、曹操の参謀・荀彧は進言しました。

現代語訳:「かつて高祖(劉邦)は義帝のために喪に服して天下の心を掴みました。今、天子を迎えれば、徳は四海を覆い、逆らう者はおりません。これぞ不世出の策です」
出典:正史書 荀彧伝
原文:「奉主上以従民望,大順也…不世之資也。」

曹操はこの策を採用し、献帝を自らの本拠地に近い許昌へと迎え入れました。
ここに、曹操は「漢の丞相」として、皇帝の権威(詔勅)を利用して天下に号令する権利を手に入れたのです。
「天子を奉じて諸侯に令す」。これこそが、曹操が他の群雄を一歩リードし、最終的な勝者となるための決定的な政治的勝利でした。

屯田制:最強の経済システム

さらに同年、曹操は部下の提案を採用し、「屯田制」を開始しました。
これは、戦乱で主を失った農地を国有化し、流民や兵士に耕作させて、収穫の5〜6割を税として徴収するシステムです。

当時、どの軍閥も食糧不足に悩んでいましたが、曹操軍だけはこれにより数百万石の兵糧を確保できるようになりました。
「腹が減っては戦ができぬ」。曹操の覇業を裏で支えたのは、青龍偃月刀でも赤兎馬でもなく、この地味ながら革命的な農業政策だったのです。

宛城の悲劇:英雄、色に迷う

降伏と油断

197年、曹操は南陽の張繍を討伐に向かいました。
張繍は名参謀・賈詡の進言に従い、戦わずしてあっさりと降伏しました。曹操は大いに喜び、無血開城された宛城に入城します。

しかし、ここで曹操の悪い癖が出ました。彼は張繍の亡き叔父(張済)の妻である鄒氏(すうし)の美貌に目を奪われ、自分の側室にして溺愛したのです。
これを知った張繍は、「叔父の妻を寝取るとは、我らを侮辱するにも程がある」と激怒しました。

典韋と曹昂の死

賈詡の策略により、張繍軍は夜襲を仕掛けました(宛城の戦い)。
曹操は鄒氏との情事に夢中で、完全に油断していました。軍営は火に包まれ、大混乱に陥ります。

この絶体絶命の窮地を救ったのは、親衛隊長・典韋でした。
典韋は門に仁王立ちになり、両手に十数キロの戟を持って敵兵を殴り殺し続けました。敵が近づけなくなるほど死体の山を築きましたが、最後は全身に傷を負って立ったまま絶命しました。

また、曹操の長男・曹昂も、馬を失った父に自分の馬を譲り、自らは囮となって戦死しました。甥の曹安民も命を落としました。

命からがら逃げ延びた曹操は、典韋の死を知って号泣しました。
「わしは長男や甥を失ったことより、典韋を失ったことが悲しい」。
この言葉は本心だったでしょうが、同時に生き残った部下たちの士気を鼓舞するためのパフォーマンスでもあったかもしれません。いずれにせよ、一時の欲望が招いた代償はあまりにも大きく、曹操は深く反省することになります。

袁術の自滅と、忍び寄る「古き友人」

同じ頃、淮南では袁術が「伝国玉璽」を手に入れたことをいいことに、勝手に皇帝を自称していました(仲王朝)。
曹操はこれを見逃さず、劉備孫策呂布らと包囲網を敷き、徹底的に叩きました。
199年、袁術は「蜂蜜水が飲みたい」と言い残して惨めに死に、群雄割拠の時代は淘汰のフェーズに入ります。

東では呂布を処刑し(下邳の戦い)、徐州を平定。
こうして中原を制した曹操の前に、ついに最大のライバルが立ちはだかります。北方の四州を支配し、圧倒的な国力を持つ幼馴染・袁紹です。

官渡の戦い:奇跡の逆転劇

開戦前夜:絶望的な戦力差

200年、袁紹は十万の精鋭と豊富な物資を擁して南下を開始しました。対する曹操軍は、主力がおよそ一万〜数万。兵力差は10倍近く、物資も不足していました。
さらに背後では、客将として受け入れていた劉備が裏切り、徐州で反乱を起こします(徐州の戦い)。

「前門の袁紹、後門の劉備」。
曹操はここで賭けに出ます。「袁紹は決断が遅い。その隙に劉備を叩く」。
彼は電撃的に劉備を急襲し、これを撃破。劉備袁紹の元へ逃げ、取り残された関羽は降伏しました。

白馬の戦いと関羽の武勇

後顧の憂いを断った曹操は、黄河沿いの白馬袁紹軍の先鋒・顔良と激突します(白馬の戦い)。
ここで曹操は、客将となった関羽を先鋒に起用しました。関羽は見事に顔良を斬り殺し、さらに続く延津の戦いでは文醜をも破りました(文醜を討ったのは徐晃らという説もあり)。
袁紹軍の二枚看板を失わせたことで、曹操は緒戦を制しましたが、本隊の圧力は依然として圧倒的でした。

官渡での膠着と、許攸の寝返り

曹操は官渡城に籠城し、持久戦に持ち込みました。
しかし、連日の猛攻と投石機(発石車)による攻撃、そして地下道を掘っての侵入など、袁紹の攻撃は熾烈を極めました。
食糧は尽きかけ、曹操自身も弱気になり、許昌の留守を守る荀彧に「撤退したい」と手紙を送るほどでした。
荀彧は「今が天下分け目です。一歩も引いてはなりません」と励まし、曹操を思いとどまらせました。

運命を変えたのは、袁紹の参謀・許攸の裏切りでした。
許攸は家族が罪を犯して投獄されたことに腹を立て、曹操の陣営へ走ってきたのです。
曹操は靴も履かずに飛び出し(跣足)、手を叩いて彼を迎えました。
「子遠(許攸の字)が来たからには、我が事は成った!」

烏巣の焼き討ち:逆転の炎

許攸は、袁紹軍の兵糧集積所である烏巣(うそう)の手薄さを教えました。
曹操は直ちに自ら五千の精鋭を率い、袁紹軍の旗を掲げて偽装し、夜道を急行しました。
「敵が来たらどうしますか?」と怯える部下に、曹操は叫びました。
「敵が背後に来るまで報告するな! 前進あるのみだ!」

烏巣に到着した曹操軍は、守将・淳于瓊を急襲し、兵糧庫に火を放ちました。
夜空を焦がす炎は、袁紹の野望を焼き尽くしました。兵糧を失った十万の大軍はパニックに陥り、総崩れとなりました(烏巣の戦い)。

袁紹はわずか八百騎と共に逃走。曹操は、誰もが不可能だと思った勝利を手にしたのです(官渡の戦い)。
戦後、曹操は袁紹軍から押収した大量の「曹操への内通の手紙(味方の裏切りの証拠)」を発見しました。しかし、曹操はこれを開封せずに全て焼き捨てました。
袁紹の強大さの前では、私自身ですら危うかったのだ。部下が保身に走るのは無理もない」。
この度量の広さが、曹操を真の天下人へと押し上げていきました。

袁家の滅亡と北方の覇者

官渡の戦いで歴史的勝利を収めたとはいえ、袁紹の勢力は未だ強大でした。
「百足の虫、死して僵(たお)れず」。
袁紹冀州に戻ると、反乱を鎮圧し、再び体制を立て直そうとしました。しかし、天命は尽きようとしていました。202年、失意の中で袁紹が病没したのです。

ここから、袁家の泥沼の後継者争いが始まります。
長男の袁譚と三男の袁尚が対立し、骨肉の争いを始めたのです。曹操はこの機を逃さず北進し、倉亭の戦いなどで彼らを追い詰めました。

天才軍師・郭嘉の遺策

袁兄弟を追い詰めた曹操に対し、軍師・郭嘉は意外な進言をしました。

現代語訳:「袁兄弟を急いで攻めれば、彼らは団結して対抗してくるでしょう。しかし、攻めるのをやめて放置すれば、必ずや内輪揉めを始めます。南の劉表を攻めるふりをして事態を静観し、変変を待つのが上策です」
出典:正史書 郭嘉伝
原文:「急之則相持,緩之則争心生。…不如南向荊州若征劉表者,以待其変。」

曹操はこの策を採用して軍を引きました。すると案の定、袁譚と袁尚は殺し合いを始め、袁譚は曹操に降伏して救援を求めてきました。
曹操は「漁夫の利」を得る形で再び北進し、204年、袁家の本拠地であるを包囲しました。

守将・審配の頑強な抵抗を崩し、を攻略した曹操は、ここを新たな本拠地と定めました。彼は袁紹の墓を訪れて大いに泣き、その妻には生活の保証を与えました。
「昨日の敵は今日の友」。敗者への礼を尽くすことで、冀州の名士たちの心を掴む政治的パフォーマンスも忘れませんでした。

白狼山の戦い:遼、来たる

207年、曹操は北へ逃れた袁尚らを追って、遥か北方の烏桓討伐を決意します。
道なき道を行く過酷な遠征でした。大雨で道は寸断され、水不足で馬の血をすすり、兵糧の代わりに馬肉を食らうほどの惨状でした。

しかし、白狼山の戦いにおいて、曹操軍の先鋒・張遼が鬼神の働きを見せました。彼は敵の大軍が陣形を整える前の一瞬の隙を見抜き、猛然と突撃して烏桓王・蹋頓(とうとん)を斬り殺したのです。

これにより北方は平定されましたが、代償も大きなものでした。
帰途、過酷な風土と疫病により、最愛の軍師・郭嘉が38歳の若さで病没してしまったのです。
曹操は「哀しいかな奉孝(郭嘉の字)、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝!」と嘆き悲しみました。この喪失が、後の大敗北への伏線となります。

南征開始:立ちはだかる「龍」と「虎」

208年、北方の憂いを断った曹操は、漢の丞相として廃止されていた「三公」制度を復活させ、自ら丞相に就任しました。権力を極限まで高めた彼は、いよいよ天下統一の総仕上げ、南方攻略へと動き出します。

劉表の死と無血開城

最初のターゲットは荊州劉表でした。
しかし、曹操軍が到着する直前に劉表は病死。後を継いだ劉琮は、抵抗することなく降伏しました(南郡争奪戦の前段階)。
兵も民も無傷で手に入れた曹操は、有頂天だったに違いありません。「天下はもはや私の掌中にある」と。

長坂の追撃

誤算だったのは、客将として新野にいた劉備の存在です。
劉備は降伏せず、民を引き連れて南へ逃走しました。曹操は精鋭騎兵「虎豹騎」を放ち、長坂の戦いでこれを捕捉します。

乱戦の中、趙雲が単騎で阿斗(劉備の子)を救い出し、張飛が橋を落として仁王立ちし、曹操軍を足止めしました。
曹操は彼らの武勇を愛し、無理な追撃を禁じました。この余裕が、劉備諸葛亮を逃し、孫権との同盟を結ばせる時間を与えてしまいました。

赤壁の戦い:燃え尽きた野望

長江を下り、江陵に入った曹操の水陸合わせ八十万(実数は十数万〜二十万程度と推測されます)の大軍。
対するは、孫権劉備の連合軍、わずか数万。

誰の目にも勝敗は明らかでした。曹操は孫権に「一緒に虎狩りをしよう(降伏せよ)」という脅迫状を送ります。しかし、の司令官・周瑜と、の軍師・諸葛亮は戦うことを選びました。

疫病と鎖

決戦の地、赤壁
曹操軍の敗因は、火攻めの前に、すでに内部にありました。「疫病」です。
北方の兵士たちは南方の湿潤な気候と水に馴染めず、次々と病に倒れていました。また、船酔いに苦しむ兵も続出しました。

そこで曹操は、船同士を鎖と板で繋ぎ合わせ、巨大な要塞のように固定しました(『演義』では龐統が提案した「連環の計」とされます)。
これにより揺れは収まり、北方の兵も馬に乗って戦えるようになりました。しかし、それは同時に「動けない」という致命的な弱点を晒すことでもありました。

東南の風と紅蓮の炎

冬の長江では、通常は北西の風が吹きます。曹操が陣取る北岸から南岸へ風が吹くため、南岸の連合軍が火を使えば自分たちが燃えてしまいます。曹操はそれを知っていたため、火攻めを警戒していませんでした。

しかし、奇跡が起きました。季節外れの「東南の風」が吹き始めたのです(『演義』では諸葛亮が祈祷で風を呼んだとされます)。
の老将・黄蓋は、降伏を偽って曹操軍に接近し、船に満載した薪と油に火を放ちました(「苦肉の策」からの火攻め)。

火は風に煽られ、鎖で繋がれた曹操軍の船団を一瞬で飲み込みました。
赤壁の戦い」。
天下統一を目前にした曹操の野望は、紅蓮の炎と共に燃え落ちました。

華容道の敗走

命からがら燃える船を脱出した曹操は、泥濘の華容道を敗走します。
演義』では、ここで関羽が待ち伏せており、曹操は昔の恩義にすがって見逃してもらうという屈辱的ながらも感動的なシーン(華容道の義釈)が描かれます。

正史には関羽との遭遇はありませんが、曹操が敗走中に大笑いしたという逸話があります。
「劉備や周瑜も詰めが甘い。ここに伏兵を置けば俺を捕まえられたものを!」
その直後に敵の伏兵が現れ、曹操は慌てて逃げ出したといいます。極限状態でもユーモア(あるいは強がり)を失わない、曹操らしいエピソードです。

無事に北へ帰り着いた曹操は、嘆いて言いました。
「もし郭奉孝(郭嘉)が生きていれば、決してこんな負け方はしなかっただろうに!」
これは生き残った参謀たちへの痛烈な皮肉であり、同時に自身の慢心への戒めでもありました。

曹操の天下統一は失敗に終わり、時代は「三国鼎立」へと向かいます。
しかし、転んでもただでは起きないのが曹操という男。彼はこの敗北を糧に、内政の充実と「魏公」即位という、新たな覇道へと進んでいくのです。

再起と西方への視線

赤壁の戦いでの敗北は、曹操の天下統一プランを白紙に戻すほどの痛手でした。しかし、彼は決して立ち止まりません。
「負けを認めることは、次の勝利への第一歩だ」。
曹操はに戻ると、内政の強化と軍の再編に着手しました。特に水軍の弱さを痛感した彼は、許昌の南に玄武池という巨大な人工池を造り、水軍の調練を徹底しました。

潼関の戦い:錦馬超との激突

211年、曹操は西方(涼州)に目を向けました。そこには、勇猛な軍閥たちが割拠していました。
曹操が張魯討伐の号令をかけると、西涼の馬超韓遂は「これは我々を攻めるための口実だ」と疑心暗鬼になり、十万の軍勢で反乱を起こしました(潼関の戦い)。

「錦馬超」と恐れられる馬超の武勇は凄まじく、曹操軍は苦戦を強いられました。
潼関での渡河作戦中、馬超の急襲を受けた曹操は、あわや命を落とす寸前まで追い詰められます。
演義』では、曹操が「赤い衣を着たのが曹操だ!」と叫ばれて衣を脱ぎ捨て、「長い髭のが曹操だ!」と言われて髭を切り落として逃げる(割須棄袍)という、屈辱的かつコミカルな逃走劇が描かれます。

しかし、曹操はただ逃げ回っていたわけではありません。彼は馬超の勇猛さを認めつつ、彼らに「知略」がないことを見抜いていました。
曹操は参謀・賈詡の「離間の計」を採用します。馬超韓遂の会談中に意味深な素振りをしたり、黒塗りで訂正だらけの手紙を韓遂に送ったりして(渭水の戦い)、二人の間に疑いの種を蒔いたのです。

疑心暗鬼になった連合軍は仲間割れを起こし、曹操はその隙を突いて総攻撃をかけ、馬超を敗走させました。
武力で劣っても知力で勝つ。これが曹操の真骨頂でした。

魏王即位と、王佐の死

213年、曹操の覇業において決定的な瞬間が訪れます。
彼は後漢王朝の臣下として最高位である「丞相」を超え、新たに「魏公」の位に就き、冀州の十郡を領国として与えられました。
これは、漢王朝の中に「魏」という独立国家を作るに等しい行為であり、実質的な禅譲(皇帝即位)への布石でした。

荀彧との決別

この動きに、長年曹操を支え続けてきた筆頭参謀・荀彧が異を唱えました。

現代語訳:「曹公は義兵を起こし、漢室をお救いするために戦ってこられました。君子は徳を通じて人を愛するものであり、そのような真似(簒奪につながる行為)はすべきではありません」
出典:正史書 荀彧伝
原文:「曹公本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實;君子愛人以德,不宜如此。」

「王佐の才」と称され、曹操の半身とも言える存在だった荀彧。しかし、彼の忠誠心はあくまで「漢王朝」にありました。漢を守るために曹操を補佐していた荀彧と、漢を超えて新たな時代を創ろうとする曹操。二人の道は、ここへ来て決定的に分かれてしまったのです。

その後、曹操はへの遠征に荀彧を同行させましたが、荀彧は病気で寿春に留まり、そこで亡くなりました。
正史』の注釈(『魏氏春秋』)にある有名な逸話では、曹操から荀彧に「空の弁当箱(器)」が送られたとされます。
「お前に食わせる飯(俸禄)はもうない=死ね」という意味を悟った荀彧は、服毒自殺したというのです。真偽は定かではありませんが、最も信頼した盟友さえも切り捨てて進まねばならない、覇者の孤独を象徴するエピソードです。

216年、曹操はさらに位を進め、「魏王」に即位しました。皇帝と同じ冠を被り、皇帝と同じ車に乗る。彼は名実ともに、漢王朝の上の存在となりました。

後継者争い:才能か、常識か

晩年の曹操を悩ませたのは、後継者問題でした。
候補は二人。質実剛健で政治力のある長男(庶長子を除く)・曹丕と、天才的な詩才を持ち曹操に愛された三男・曹植です。

七歩の才と、賢者の沈黙

曹操は当初、自分と似て文学的才能に溢れる曹植を寵愛しました。曹植のバックには、切れ者の参謀・楊修がつき、曹操の意図を先読みして次々と正解を出させました。
一方、曹丕には「狼顧の相」を持つ司馬懿や、賈詡といった老獪な策士たちがつきました。

曹操が賈詡に「後継者は誰が良いか」と尋ねた際、賈詡は黙って答えませんでした。
「なぜ答えない?」と曹操が聞くと、賈詡はこう言いました。
袁紹劉表のことを考えておりました(彼らは末子を愛して長男を廃し、国を滅ぼしました)」
曹操は大笑いし、長幼の序を守ることの重要性を悟り、曹丕を太子に定めました。

また、曹植が酒に酔って皇帝専用の道を馬車で通るという失態を犯したことや、楊修の才能が鼻につき始めたことも(後述の鶏肋事件)、曹操の心を曹丕へと傾けさせました。

漢中の戦い:鶏肋(けいろく)

219年、劉備漢中へ侵攻してきました。
曹操は自ら大軍を率いて迎撃に向かいますが、時すでに遅く、要衝である定軍山で妙才・夏侯淵黄忠に討ち取られてしまいます(定軍山の戦い)。

漢中に到着した曹操でしたが、劉備軍は山に籠もって持久戦を徹底しました。攻めるに攻められず、食糧は減っていくばかり。
ある夜、曹操は夕食の鶏のスープを見ながら、ふと「鶏肋(けいろく)」と呟きました。

「鶏肋」とは鶏のあばら骨のこと。「食べる身はないが、捨てるには惜しい(ダシが出る)」という意味です。
側近たちが意味を測りかねる中、楊修だけは「王は撤退を決意されたのだ。漢中は捨てるには惜しいが、持っていても益がない」と見抜き、帰国の準備を始めました。

自分の心中を見透かされた曹操は激怒し、軍律を乱したとして楊修を処刑しました(『演義』)。
結局、曹操は漢中を放棄して撤退(漢中の戦い)。劉備に「漢中王」即位を許すことになります。
これは、生涯勝ち続けてきた曹操が、かつて「箸を落とした」男に完全敗北した瞬間でした。

神亀は壽(いのち)ありといえども

漢中の戦いで敗北したものの、曹操の天下統一への野望はとまるわけではありませんでした。
219年、荊州関羽が猛攻を仕掛け、樊城の戦いにおいて于禁を降し、龐徳を斬るという大戦果を挙げました。
関羽の威勢は中華全土(華夏)を震わせ、曹操は一時、許昌からの遷都さえ検討したほどです。

しかし、司馬懿と蒋済がこれを諫めました。
「孫権と劉備は仲が良くありません。孫権を唆して関羽の背後を突かせれば、樊城の包囲は解けます」
曹操はこの策を採用し、長年の宿敵である孫権と極秘に同盟を結びました。結果、関羽は孤立し、軍に捕らえられて処刑されました。

孫権から送られてきた関羽の首級を見て、曹操は「雲長(関羽)、別れてからお変わりないか」と語りかけました。
すると、死んでいるはずの関羽の目がカッと見開き、髭が逆立ったといいます(『演義』)。
曹操は驚いて倒れ、これが原因で病が重くなったとされますが、正史では関羽を諸侯の礼をもって手厚く葬り、最後まで敬意を払い続けました。

建安の星、墜つ

220年1月、洛陽
天下を駆け抜けた英雄・曹操も、病魔には勝てませんでした。享年66。

彼の遺言(『遺令』)は、最後まで合理的で、彼らしいものでした。

現代語訳:「天下はまだ安定していない。古式に則って長く喪に服すようなことはするな。葬儀が終わればすぐに喪服を脱げ。兵士たちは部署を離れず、役人たちは職務を全うせよ。遺体には普段着を着せ、金銀財宝は一切入れるな」
出典:正史書 武帝紀
原文:「天下尚未安定,未得遵古也。葬畢,皆除服。…斂以時服,無藏金玉珍寶。」

死してなお、国の機能を停滞させることを許さず、無駄な浪費を嫌ったのです。
「神亀は壽ありといえども、また時あり(どんな長生きする亀にも寿命はある)」。
彼が詠んだ詩『歩出夏門行』の通り、その肉体は滅びましたが、彼が築いた「魏」という巨大なシステムは、揺らぐことなく息子・曹丕へと受け継がれました。

同年10月、曹丕献帝から禅譲を受け、皇帝に即位。ついに後漢王朝は滅び、曹操は追号されて「武帝」となりました。


三国志演義との差異

小説『三国志演義』では、曹操は「悪役」として徹底的に描かれますが、史実との間にはいくつかの興味深い差異があります。

華佗の殺害と頭痛

曹操は持病の頭痛に悩まされていました。『演義』では、名医・華佗が「脳を切り開いて病巣を取り除く(開頭手術)」を提案したところ、曹操が「わしを殺す気か!」と疑心暗鬼になり、華佗を投獄して殺害したことになっています。

史実でも曹操が華佗を処刑したのは事実ですが、理由は異なります。
華佗は曹操の専属医になることを嫌がり、「妻が病気だ」と嘘をついて故郷に帰りました。曹操が調べさせると嘘だと判明したため、欺瞞罪で処刑したのです。
後に愛息・曹沖(神童と呼ばれた子)が早世した際、曹操は「華佗を殺さなければ、息子を救えたかもしれない」と激しく後悔しました。

七十二の疑塚

伝承では、曹操は墓暴きを恐れ、七十二基もの偽の墓(疑塚)を作らせたと言われてきました。
しかし、近年の考古学的発見により、の近郊で「曹操高陵」と思われる墓が発見されました。その墓は遺言通り非常に質素で、盗掘の跡はありましたが、金銀財宝の類はほとんど埋葬されていませんでした。
彼は死後も、自身の「薄葬(質素な葬儀)」の美学を貫いていたことが証明されたのです。

一族

曹操は多くの妻妾を持ち、多くの子を成しました。その一族もまた、多才な人物ばかりです。

  • 正室:卞氏(武宣皇后)
    元は歌姫だったが、曹操に見初められた。非常に謙虚で倹約家であり、曹操が持ち帰る戦利品の宝石などを選ばせても、あえて中級品を選ぶような慎み深い女性だった。
  • 長男:曹丕(文帝)
    の初代皇帝。冷酷な面もあったが、政治手腕は一流。父と同じく文学を愛し、中国初の文学論『典論』を著した。
  • 三男:曹植
    詩聖。「才高八斗(天下の才能が一石あるなら、曹植が八斗を持つ)」と称えられるほどの天才。後継者争いに敗れた後は不遇な人生を送った。
  • 次男:曹彰
    武芸に秀で、「黄須児(黄色い髭の子)」と呼ばれて曹操に愛された。烏桓征伐などで活躍した猛将。
  • 長男(庶長子):曹昂
    宛城の戦いで父の身代わりとなって戦死。曹操は彼の死を生涯悔やんだ。
  • 娘:曹節(献穆皇后)
    献帝の皇后。曹丕が禅譲を迫った際、玉璽を投げつけて「天はあなたになど味方しません!」と兄を罵倒した気丈な女性。

評価

陳寿からの評価

正史』の著者・陳寿は、曹操を以下のように絶賛しています。

現代語訳:「漢末、天下は大いに乱れ、群雄が並び起ったが、袁紹は四州の地を虎視しながら強盛を誇っていた。太祖(曹操)は戦略を巡らせ、鞭打って天下を御し、法を用いて政治を行い、才能を見て任用した。…(中略)…ついに皇業の基礎を築いたのは、ただ天命によるだけでなく、やはり人の謀(はかりごと)によるものであった。まさに非常の人(並外れた傑物)、超世の傑(時代を超越した英雄)と言うべきである」
出典:正史書 武帝紀
原文:「可謂非常之人,超世之傑矣。」

出身の陳寿にして、ここまで書かせた曹操の功績。それは既存の価値観を破壊し、実力主義という新たな風を中華に吹き込んだ点にあります。

同時代からの評価

  • 許劭:「治世の能臣、乱世の奸雄」(平和なら有能な大臣、乱世なら悪賢い英雄)。
  • 喬玄:「天下はまさに乱れんとしている。世を救うのは君をおいて他にいない」。
  • 孫権:「あの老いぼれ(曹操)がいなくならなければ、私も安眠できない」。敵として最も恐れ、同時に敬意を払っていた言葉です。

エピソード・逸話

唯才主義(ゆいさいしゅぎ)

曹操は「求賢令」を出し、「才能さえあれば、品行が悪くても、過去に敵対していても構わない」と宣言しました。
実際、張遼徐晃張郃賈詡など、の名将・参謀の多くは、元々は敵陣営の出身です。この徹底した実力主義こそが、の人材の層の厚さを生み、三国最強の国力を築く原動力となりました。

詩人としての顔

冷徹な政治家である一方、曹操は中国文学史上でも屈指の詩人でした。
彼の詩(『短歌行』など)は、戦乱の悲惨さを嘆き、人生の短さを憂い、それでも天下を平らげようとする壮大な志に満ちています。
「酒に対しては当に歌うべし、人生幾ばくぞ(對酒當歌,人生幾何)」。
彼の文学サロンから生まれた「建安文学」は、中国文学の黄金期の一つとして燦然と輝いています。

破壊と創造、殺戮と愛民、冷徹と情熱。矛盾する要素を全て飲み込み、混沌とした乱世を実力で切り拓いた男。
曹操孟徳こそ、三国志という時代の「主役」と呼ぶにふさわしい存在でしょう。

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