| 生没年 | ? 〜 195年(享年不明) |
|---|---|
| 所属 | 後漢 |
| 字 | 義真(ぎしん) |
| 役職 | 左車騎将軍・太尉 |
| 一族 | 叔父:皇甫規(涼州の三明) |
| 関係 | 盟友:朱儁、盧植、部下:曹操、孫堅 |
| 参加した主な戦い | 黄巾の乱、広宗の戦い、曲陽の戦い、涼州の乱 |
| 正史と演義の差 | ★★★★☆ |
| 実在性 | 実在(正史 皇甫嵩伝) |
| 重要度 | ★★★★☆ |
演義では目立たないが、史実においては黄巾の乱をほぼ独力で鎮圧し、瀕死の後漢王朝を救った「救国の英雄」。その功績は曹操や孫堅を遥かに凌ぐ。軍事的な天才でありながら、私欲を持たず、部下や民を愛した人格者。もし彼に野心があれば、三国時代は到来せず「皇甫王朝」が生まれていたかもしれないと言われるほどの隠れた名将である。
生涯
名門の血統と、乱世への胎動
皇甫嵩、字を義真。彼は涼州安定郡朝那県(現在の寧夏回族自治区固原市)の出身です。
涼州といえば、羌族などの異民族と接する最前線であり、精強な兵と騎馬を産出する土地柄です。皇甫家はこの地で代々武門として名を馳せた名家でした。
特に彼の叔父である皇甫規は、「涼州の三明」の一人と謳われた伝説的な将軍でした。若き日の皇甫嵩は、この偉大な叔父の武勇と知略を受け継ぎ、文武両道を志す青年として成長しました。彼は『詩経』や『書経』を愛読する教養人でありながら、弓馬の道にも通じた、まさに「将帥の器」を持っていたのです。
当初、彼は孝廉や茂才(官僚への登用試験)に推挙されましたが、父が亡くなったため辞退しました。その後、太尉の陳蕃や大将軍の竇武(とうぶ)といった清流派の巨頭たちから招かれましたが、当時の朝廷は宦官が権力を握る腐敗の極みにありました。皇甫嵩は「時至らず」と判断したのか、これらには応じませんでした。
しかし、時代は彼を放っておきませんでした。霊帝の時代、彼はついに仕官し、議郎(顧問官)となります。そして184年、中華全土を揺るがす未曾有の反乱、黄巾の乱が勃発するのです。
黄巾の乱:帝国の救世主
党錮の禁を解き、人材を解放する
張角率いる黄巾党の勢いは凄まじく、州郡の役所は焼かれ、長官たちは逃げ惑いました。洛陽の朝廷はパニックに陥ります。
この時、皇甫嵩は皇帝に対し、歴史的な進言を行いました。
現代語訳:「党錮の禁を解き、清流派の人材を登用すべきです。そして宮廷の蔵を開いて金銭を放出し、兵士たちの士気を高めるのです」
出典:『正史』皇甫嵩伝
原文:「宜解党禁,益出中蔵銭…」
宦官たちは反対しましたが、皇甫嵩は「さもなくば国家が滅びます」と強く主張し、これを認めさせました。
これにより、政治的に干されていた多くの有能な士大夫たちが野に放たれ、官軍に協力することになりました。曹操や孫堅らが活躍できたのも、元を正せば皇甫嵩のこの進言があったからこそなのです。
皇甫嵩は左中郎将に任命され、盟友である右中郎将・朱儁と共に、豫州の黄巾討伐へと向かいました。
長社の火攻め:曹操・孫堅を従えて
最初の激突は苦しいものでした。朱儁が黄巾の将・波才に敗れ、皇甫嵩も長社という城に包囲されてしまったのです。敵は数万、味方はわずか数千。城内は恐怖に包まれました。
しかし、皇甫嵩だけは冷静でした。彼は敵の陣営が草むらに密集しているのを見て、季節外れの強風が吹く夜を待ちました。
「今だ!」
皇甫嵩は精鋭部隊に松明を持たせて城壁を越えさせ、風上に火を放ちました。火は瞬く間に燃え広がり、黄巾党の大軍はパニックに陥りました。そこへ皇甫嵩が城門を開いて突撃し、さらに援軍として駆けつけた騎都尉・曹操が横合いから猛攻を加えました。
数万の敵兵が炎の中で絶叫し、あるいは斬り殺されました。
この「長社の戦い」こそが、黄巾の乱における反撃の狼煙(のろし)でした。皇甫嵩はその後も朱儁、曹操、そして合流した孫堅らを指揮し、豫州・兗州の黄巾軍を次々と壊滅させていきました。
北方の平定:張角兄弟の殲滅
南方を平定した皇甫嵩に、新たな命令が下ります。
北方の冀州で苦戦していた董卓(更迭された盧植の後任)が敗北したため、代わって総司令官として赴任せよというものです。
皇甫嵩は休む間もなく北上し、広宗城に籠もる黄巾党の主力と対峙しました。
この時すでに教祖・張角は病死していましたが、弟の張梁が精鋭を率いて頑強に抵抗していました。皇甫嵩は正面からの力攻めを避け、兵を休ませて油断を誘いました。
そしてある日の未明、敵の警戒が緩んだ一瞬を突き、全軍で奇襲を仕掛けました(広宗の戦い)。
結果は圧勝でした。張梁を斬り、三万の首級を挙げ、五万人を河に追い落としました。
さらに皇甫嵩は下曲陽へ進撃し、最後の指導者・張宝をも討ち取りました(曲陽の戦い)。十万以上の死体で京観(死体の山)を築き、ここに黄巾の乱は事実上の終結を迎えました。
皇甫嵩の功績は絶大でした。彼は左車騎将軍に昇進し、冀州牧を兼任。まさに「帝国の救世主」として天下にその名を轟かせたのです。
英雄の苦悩:忠義か、野心か
閻忠のささやき
絶頂期にあった皇甫嵩に対し、元冀州刺史の閻忠(えんちゅう)という男が、恐ろしい提案を持ちかけました。
「今、将軍の功績は震主(主君を震え上がらせるほど)であり、賞賛され尽くしてこれ以上の恩賞はありません。漢の命運は尽きています。今こそ兵を率いて自立し、新しい王朝を開くべきです」
これは謀反の勧めです。しかし、当時の皇甫嵩の実力と人望、そして漢室の衰退ぶりを考えれば、決して不可能な話ではありませんでした。彼がその気になれば、曹操より早く、そしてより正当な形で天下を取れていたかもしれません。
しかし、皇甫嵩は首を横に振りました。
現代語訳:「功績があっても驕らないのが義であり、時を見ても乱さないのが忠である。私は漢室に忠義を尽くして守り抜く。二心など抱くものか」
出典:『後漢書』皇甫嵩伝
彼はあくまで「漢の忠臣」としての道を選びました。閻忠は失望して去り、皇甫嵩は軍を解散して中央へ戻りました。このあまりに潔白な決断が、後の彼の運命を暗転させることになります。
董卓との確執
乱世はまだ終わりません。西方で涼州の乱(辺章・韓遂の乱)が勃発すると、皇甫嵩は再び鎮圧に向かいました。この時、副将としてつけられたのが、かつて更迭されたはずの董卓でした。
皇甫嵩と董卓。二人の相性は最悪でした。
董卓は自分の兵力を温存しようとしましたが、皇甫嵩は軍略に従って果敢に攻め、見事に反乱軍を撃破しました。
「あの儒者風情が…」
董卓は自分の無能さを棚に上げ、手柄を独り占めされたと逆恨みし、皇甫嵩を深く憎むようになりました。
さらに董卓が朝廷の命令を無視して兵権を返そうとしなかった時、皇甫嵩は従弟の皇甫緗(こうほしょう)を通じてこれを厳しく諌めました。
正論を吐く「正義の人」皇甫嵩と、暴力と野心の塊である董卓。両者の対立は決定的となります。
黄昏の忠臣
魔王の天下と屈辱
189年、洛陽で政変が起き、董卓が入京して権力を掌握しました。
最高権力者となった董卓は、長年の恨みを晴らすため、皇甫嵩を洛陽に召喚しました。周囲は「行けば殺されます」と止めましたが、皇甫嵩は「勅命に背くことはできない」と応じました。
案の定、皇甫嵩は捕らえられ、投獄されました。董卓は彼を処刑するつもりでした。
しかし、ここで意外な救い手が現れます。皇甫嵩の息子・皇甫堅寿です。彼は董卓と個人的な親交がありました。堅寿は洛陽に駆けつけ、宴席で董卓の前に額を叩きつけて涙ながらに父の助命を嘆願しました。
残虐な董卓もこれには心を動かされ、皇甫嵩を釈放しました。
かつての上官であった皇甫嵩は、いまや逆賊・董卓の足元にひざまずき、御史中丞という低い身分で仕えることになりました。
「あの皇甫嵩が…」
天下の人々は涙しましたが、彼は屈辱に耐え、沈黙を守り続けました。それは命惜しさからではなく、漢王朝の最後の一線を見届けるためだったのかもしれません。
最期まで漢と共に
192年、王允と呂布によって董卓暗殺が成功すると、皇甫嵩はようやく名誉を回復し、征西将軍・太尉(軍事の最高職)に任じられました。
董卓の残党である李傕・郭汜が長安に攻め寄せてきた際、王允は皇甫嵩に防衛を命じました。
しかし、もはや手遅れでした。皇甫嵩の手元には十分な兵力もなく、老いた英雄に奇跡を起こす力は残されていませんでした。長安は陥落し、王允は殺され、皇甫嵩もまた捕らえられました。
李傕らは皇甫嵩の威名を恐れて殺害はしませんでしたが、彼は病を得て、195年にひっそりと息を引き取りました。
漢王朝が実質的に滅亡するのと時を同じくして、その守護神もまた、静かに歴史から姿を消したのです。
三国志演義との差異
『演義』において、皇甫嵩は「良識ある老将」として登場しますが、その活躍は大幅にカットされています。
特に黄巾の乱では、劉備・関羽・張飛や曹操の引き立て役に甘んじており、彼が総司令官として全体を指揮した事実は薄められています。
しかし史実では、曹操の初陣を勝利に導き、孫堅の武勇を引き出し、張角兄弟を殲滅したのは、すべて皇甫嵩の手腕によるものです。
彼がいなければ、黄巾の乱は鎮圧されず、漢王朝はもっと早くに滅び、三国時代の英雄たちが世に出る前に歴史が変わっていた可能性すらあります。
一族
- 皇甫規:叔父。「涼州の三明」と称された名将。皇甫嵩の軍事・学問の師でもある。
- 皇甫堅寿:息子。董卓と親交があり、父の命を救った孝子。その弁舌と度胸は父譲りであった。
- 皇甫酈(こうほれき):甥。李傕への使者を務めた際、その暴政を堂々と批判して激怒させた剛直な人物。
評価
清廉潔白なる人格
皇甫嵩の最大の魅力は、その軍事的才能以上に、高潔な人格にあります。
黄巾の乱の功績で封戸(領地)を与えられた際、彼は「これは部下たちの功績です」と言って辞退しようとしました。また、重税に苦しむ民のために、皇帝に直訴して税を免除させました。
部下を深く愛し、戦場では兵士たちのテントができるまで自分は休まず、兵士たちが食事を終えるまで自分は食べなかったといいます。
そのため、兵士たちは彼のためなら死も厭わずに戦いました。曹操のような恐怖による統率ではなく、徳による統率を行った稀有な将軍でした。
隠れた名将
なぜ彼は、曹操や劉備のように天下を争わなかったのでしょうか。
それは彼が、あくまで「漢の枠組み」の中で生きることを選んだからです。
乱世において「忠義」はしばしば「弱さ」となります。しかし、己の野心を殺してまで秩序を守ろうとした彼の生き様は、裏切りと策謀が渦巻く三国志の中で、一際美しく、そして切なく輝いています。
皇甫嵩。彼はまさに、漢帝国が最後に放った一閃の光であり、真の意味での「隠れた名将」なのです。
