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盧植(ろしょく)

ざっくりまとめ
生没年 ? 〜 192年(享年不明)
所属 後漢
子幹(しかん)
役職 北中郎将・尚書
関係 師:馬融
敵対:張角董卓
門下生:劉備公孫瓚、高誘など
参加した主な戦い 黄巾の乱、九江の反乱鎮圧
正史と演義の差 ★☆☆☆☆
実在性 実在(正史 盧植伝)
重要度 ★★★☆☆

劉備公孫瓚に兵学と儒学を授けた偉大なる師。当代随一の学者でありながら、身長は八尺二寸(約190cm)の巨漢で声は鐘のように響いたという文武両道の傑物。黄巾の乱では張角をあと一歩まで追い詰めるも、宦官への賄賂を拒否したために更迭される。その剛直な生き様は、乱世における「士大夫の良心」として輝き続けている。

目次

生涯

学問の徒から、文武両道の国士へ

女人の舞にも目もくれず

盧植、字を子幹。彼は幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の出身です。
ここは後に彼の弟子となる劉備張飛の故郷でもあり、北方の異民族と接する荒々しい気風の土地でした。
しかし、若き盧植は武力よりも学問に志を立てました。彼は当代最高の大儒学者・馬融(ばゆう)の門を叩き、その弟子となったのです。

馬融は豪奢な生活を好む奇人でした。講義をする際、自分の前には赤い紗の帳(カーテン)を垂らし、その奥で美しい女官たちに歌や舞を踊らせていました。弟子たちは帳の向こうで繰り広げられる艶めかしい光景に、どうしても気を取られてしまいます。

しかし、盧植だけは違いました。彼は数年間、ただの一度も顔を上げて帳の奥を覗こうとしませんでした。ひたすら師の言葉に耳を傾け、書物を読みふけったのです。
これに気づいた馬融は驚嘆し、盧植を高く評価しました。

「馬融は富豪であったため、講義の際には多くの歌姫を侍らせていた。 しかし、盧植は何年もの間、講義を受けている最中に一度も(歌姫の方を)脇見しなかった。馬融は、このことから彼を「ただ者ではない(非凡な人物だ)」と評価した。」
出典:融外戚豪家,多列女倡,列坐前。 植侍講積年,未嘗轉眄,融以是異之。
出典:『後漢書』盧植伝

このストイックな集中力と克己心こそが、後の彼の人生を貫く「鋼の精神」の原点でした。同門には、後に大儒となる鄭玄(じょうげん)もおり、盧植は彼らと切磋琢磨して儒学の奥義を極めました。

劉備・公孫瓚の師として

学業を修めて故郷に戻った盧植は、緱氏山(こうしざん)で私塾を開きました。
彼の名声を聞きつけ、多くの若者が集まりました。その中には、遼西の豪族の息子・公孫瓚や、貧しい筵売りの青年・劉備の姿がありました。

盧植は身長八尺二寸(約190cm)という並外れた巨躯の持ち主であり、その声は鐘が鳴り響くようだったといいます。
彼は弟子たちに、単なる経書の解釈だけでなく、乱世を生き抜くための兵法や統率術、そして「仁義」の精神を教えました。
劉備が後に掲げる「仁徳」の旗印や、公孫瓚が見せる騎馬戦術の基礎は、この時期に盧植から学んだものが大きかったことでしょう。彼らにとって盧植は、単なる先生ではなく、生涯仰ぎ見る「父」のような存在でした。

清流派の気骨

九江の反乱鎮圧

学問の世界で名を成した盧植でしたが、彼にはもう一つの顔がありました。卓越した軍事指揮官としての顔です。
175年、揚州の九江郡で九江郡による反乱が勃発し、10年以上も鎮圧できずにいました。
朝廷は盧植を九江太守に任命しました。
「学者が太守で大丈夫か?」という周囲の不安をよそに、盧植は鮮やかな手腕を見せます。

彼は力攻めをするのではなく、まず敵の首領に降伏を勧める手紙を送り、道理を説きました。その一方で、防備を固めて敵の補給を断つ兵糧攻めを行いました。
「盧太守には勝てない」
悟った反乱軍は次々と投降し、長年の患いであった反乱は、わずか一年足らずで平定されてしまったのです。
病気で辞任して帰郷した後も、異民族たちは盧植の徳を慕い続けたといいます。

朝廷への直言

その後、盧植は侍中・尚書という要職に就き、帝都・洛陽で政治の中枢に関わりました。
当時の朝廷は、霊帝の寵愛を受けた宦官たちが権力を独占し、政治は腐敗の極みにありました。多くの官僚が保身のために口をつぐむ中、盧植だけは決して沈黙しませんでした。

日食などの天変地異が起きるたびに、彼は上奏文を書き、霊帝に諫言しました。
「天が怒っているのは、佞臣(宦官)がはびこっているからです。彼らを退け、賢人を登用せねば、必ずや災いが起きます」
当然、宦官たちは盧植を憎みましたが、彼の名声と実績があまりに高かったため、容易には手を出せませんでした。盧植は腐りゆく大樹(漢王朝)を、たった一人で支えようとしていたのです。

黄巾の乱:老将の奮戦と理不尽な更迭

北中郎将、出陣

184年、張角率いる黄巾の乱が勃発。
予言していた災いが現実となり、盧植は北中郎将に任命され、北方の総司令官として出陣しました。
相手は教祖・張角率いる黄巾党の主力部隊、数十五万。
対する盧植軍は、わずか数万の精鋭。

しかし、戦況は一方的でした。
「賊徒は数こそ多いが、所詮は烏合の衆。統率された正規軍の敵ではない」
盧植は冷静に敵の動きを読み、連戦連勝を重ねました。張角軍は斬られ、あるいは逃げ惑い、ついに本拠地である冀州の広宗城へと追い詰められました。

盧植は城を包囲し、雲梯(攻城用のはしご)や衝車(城門破壊兵器)を準備して、とどめを刺す態勢を整えました。
張角の首級を挙げるのは、時間の問題だ」
誰もがそう思った矢先、都から一人の使者がやってきました。宦官の左豊(さほう)です。

賄賂の拒絶と檻車(かんしゃ)

左豊は視察にかこつけて、盧植に露骨に賄賂を要求しました。
賄賂を要求してくる左豊に対し、清廉潔白な盧植はもちろん断ります。

面目を潰された左豊は、怒り狂って洛陽に帰り、霊帝に「盧植は敵を恐れて塁を高く築き、戦おうとしません。兵士たちは皆、怠けております」と嘘の報告をしました。

暗愚な霊帝はこれを信じ、激怒しました。
即座に解任命令が出され、盧植は罪人として捕らえられました。勝利を目前にしていた広宗の陣営から、彼は「檻車(囚人護送用の檻付きの車)」に乗せられ、屈辱的な姿で連行されていったのです。

この時、義勇軍として駆けつけていた弟子の劉備張飛は、師匠のあまりに理不尽な姿を見て、怒りに震えたといいます(『演義』では張飛が護送官を殺そうとする場面がありますが、劉備が止めました)。
盧植の後任としてやってきたのが、西涼の董卓でした。しかし董卓張角に大敗し、結局は皇甫嵩が後始末をつけることになります。

董卓への抵抗と、静かなる晩年

暴君の前での仁王立ち

皇甫嵩の嘆願により、盧植はなんとか死罪を免れ、平民として許されました。
その後、董卓が政権を握ると、盧植の名声を恐れた董卓は彼を尚書として復帰させました。

しかし、盧植の気骨は衰えていませんでした。
董卓が少帝を廃して献帝を擁立しようと会議を開いた時、満座の臣下たちは恐怖で震え上がり、誰も異議を唱えませんでした。
ただ一人、盧植だけが立ち上がりました。

現代語訳:『家臣たちは董卓を恐れて誰も答えられなかった。 そこで、尚書の盧植だけがたった一人で反対した。 「昔、殷の帝は即位した後に暗愚であり、〜略〜 しかし少帝はまだお若く、その行いに何ら徳を失うような過ちはありません。前述の二人の事例とは全く状況が異なります(ので、廃立は認められません)」』
原文:群臣莫敢對。 尚書盧植獨曰:「昔太甲既立不明,昌邑罪過千餘,故有廢立之事。今上富於春秋,行無失德,非前事之比也。」
出典:『後漢書』巻七十二 董卓列伝

正論を突きつけられた董卓は激昂し、その場で盧植を殺そうとしました。
しかし、同席していた名士の蔡邕らが必死に止めました。
「盧尚書は海内(天下)の大儒です。彼を殺せば、天下の人心が離れてしまいます」
董卓もしぶしぶ剣を収め、盧植を免職にして追放しました。

上谷への隠遁

「ここにいては殺される」
盧植は老齢の身をおして、抜け道を使い、故郷ではなく幽州の上谷郡にある山奥へと逃れました。
董卓は刺客を送って追わせましたが、追いつくことはできませんでした。

隠遁した盧植は、世俗との関わりを断ち、書物を著しながら静かに過ごしていました。
袁紹に招かれ軍師となりましたが、ほどなくして192年に盧植は病により死去しました。
臨終の際、彼は息子にこう遺言しました。

「世は乱れている。葬儀は簡素にし、棺桶は使うな。体に布を巻いて土に埋めるだけでよい」

土に還るその瞬間まで、彼は質素倹約と、清廉なる士大夫としての誇りを貫き通しました。
後に曹操が北伐の際に彼の墓を通った時、墓前で涙を流してその徳を讃え、荒れ果てた墓を整備させたといいます。敵味方を超えて、盧植は誰からも尊敬される「先生」だったのです。


三国志演義との差異

三国志演義』において、盧植は序盤の重要人物として登場しますが、その活躍は史実とほぼ変わりません。
黄巾の乱劉備たちを指揮し、左豊に賄賂を断って連行される悲劇は、物語の「腐敗した朝廷」を象徴するエピソードとして描かれています。

ただし、董卓への諫言シーンなど、後半の活躍はカットされがちです。史実の盧植は、単なる「劉備の師匠」という枠に収まらない、漢王朝末期を代表する政治家であり、一級の軍事指揮官でした。

一族・門下生

  • 劉備:弟子。盧植の教え(仁義)を生涯の指針とし、蜀漢の皇帝となった。
  • 公孫瓚:弟子。北方の覇者となったが、盧植の教え(徳)よりも力を信じ、最後は滅びた。
  • 高誘(こうゆう):弟子。『呂氏春秋』や『淮南子』の注釈書を書いた大学者。
  • 盧毓(ろいく):息子。父の死後、曹操に仕えての重臣となり、人材登用の制度(九品官人法の運用など)で大きな功績を残した。

評価

曹操からの賛辞

覇王・曹操は、盧植を心から尊敬していました。彼は盧植の死後、その功績を称える布告を出しています。

現代語訳:「故の北中郎将・盧植殿は、名声は海内に轟き、学問は古今のすべてに通じ、乱世にあっては文武の才を兼ね備えていた。その高潔な風徳は、まさに士大夫の模範である」
出典:正史書 武帝紀

「文武両道」「清廉潔白」。
言葉にするのは簡単ですが、濁りきった乱世においてそれを貫き通すことがいかに困難か。
盧植の生涯は、泥の中に咲く蓮の花のように、汚れることなく最期まで気高くあり続けました。彼こそは、漢王朝が最後に生んだ「忠義の士」だったのです。

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