生涯
涼州の豪傑:若き日の野望
董卓、字は仲穎。彼の出身地である隴西郡臨洮(現在の甘粛省岷県)は、漢民族の支配領域と異民族の居住地域が混在する、まさに文明の境界線でした。この過酷な辺境の地で、董卓は「魔王」としての素質を育んでいきます。
若い頃の董卓は、役人として働く一方で、辺境に住む異民族「羌」族の顔役たちと積極的に交流を持ちました。彼は農耕に従事しながらも、家に訪ねてきた羌族の友人のために、大切な耕牛を殺して宴会を開くほどの気前の良さを見せました。これに感動した羌族たちは、帰郷した後に家畜を集め、千頭余りを董卓に贈ったといいます。このエピソードは、彼が単なる粗暴な男ではなく、遊牧民族的な「親分肌」のカリスマ性を備えていたことを示しています。
また、董卓は並外れた武力の持ち主でもありました。正史『三国志』には、彼が馬を駆けさせながら、左右どちらの手でも弓を引くことができたと記されています。彼は常に二つの弓筒(胡簶)を帯びて戦場を疾駆し、その勇名は涼州全土に轟いていました。中央のエリートたちが見下す「野蛮な辺境」こそが、董卓という怪物を生み出した揺籃だったのです。
叩き上げの将軍:異民族討伐
その武勇を買われた董卓は、近衛兵である羽林郎として漢王朝に仕官し、やがて軍事指揮官としての頭角を現します。当時の漢王朝は、頻発する羌族の反乱に悩まされていました。董卓は中郎将の張奐の部下として、並州での反乱鎮圧に参加し、大いに功績を挙げました。
この時期の董卓が極めて「将軍らしい」振る舞いを見せていたことは注目に値します。ある戦いで絹九千匹という莫大な恩賞を授かった際、彼はそれをすべて部下の将兵に分配しました。
「私はまだ何の功績も立てていない。この恩賞は、共に戦った将兵たちの命がけの働きの賜物である。すべて彼らに分け与えるべきだ」
原文:為者則己,有者則士
出典:『後漢書』董卓伝
この言葉に兵士たちは歓喜し、董卓のためなら命も惜しくないと誓いました。私利私欲に走る腐敗した官僚が多い中、現場の兵士を第一に考える董卓の姿勢は、彼自身の私兵集団を強固なものへと変えていきました。
挫折と野心:黄巾の乱と涼州の乱
184年、太平道の教祖・張角が黄巾の乱を起こすと、後漢王朝の命運は大きく揺らぎ始めます。董卓は、更迭された盧植に代わって東中郎将に任命され、河北の黄巾党討伐に向かいました。しかし、意外なことに、ここで彼は敗北を喫し、免職の憂き目に遭っています。対照的に、皇甫嵩や朱儁といった将軍たちが大功を立てたため、董卓のプライドは大いに傷ついたことでしょう。
しかし、乱世は彼を放ってはおきませんでした。同年冬、涼州で韓遂・辺章らが反乱を起こし(涼州の乱)、その勢力が長安に迫るほどの規模に拡大すると、朝廷は再び董卓を起用せざるを得なくなります。
この戦いにおいて、董卓は皇甫嵩の副将として参戦しましたが、二人の作戦方針は対立しました。正攻法で敵の疲弊を待つ皇甫嵩に対し、董卓は積極的な攻撃を主張しましたが退けられます。結果的に皇甫嵩の策で勝利したものの、この一件は後の二人の確執の遠因となりました。
また、数万の敵に包囲された際、董卓は「魚を捕るふり」をして川を堰き止め、その下流を渡って撤退した後、堰を切って水流を戻し、敵の追撃を断つという奇策を見せています。生存本能と機転において、彼は天才的でした。
朝廷への不服従
涼州での戦いを通じて、董卓は自分の軍事力が王朝の命運を握っていることを自覚し始めます。189年、朝廷は董卓を少府(宮廷の官職)に任命し、軍権を返上して洛陽に出頭するよう命じました。これは明らかに、強大化しすぎた董卓を軍から引き離すための策でした。
しかし、董卓はこの命令を拒絶します。彼は上奏文を送り、こう言い放ちました。
「私の部下たちは、長年私と苦楽を共にしてきました。彼らは私の恩愛に報いるためなら、命を捧げても構わないと言っております。どうか彼らを率いて、辺境の守りに就かせてください」
原文:士卒大小相狎久,戀慕,欲留卓。今且將之州,効力邊陲。
出典:『三国志』魏書 董卓伝
これは体裁の良い脅迫でした。「俺から兵を取り上げようとすれば、部下が何をするかわからないぞ」と暗に告げたのです。衰退した朝廷には、もはや彼を罰する力はありませんでした。こうして董卓は、公然と中央の統制を離れた独立軍閥へと変貌していきます。
洛陽炎上:入京と政権奪取
189年、霊帝が崩御すると、洛陽では外戚の大将軍・何進と、宦官勢力(十常侍)との対立が極限に達していました。何進は宦官を一掃するため、地方の軍閥に上京を要請するという禁じ手を使います。この呼びかけに応じたのが、虎視眈々と機会を窺っていた董卓でした。
董卓は軍を率いて洛陽に向かいましたが、すぐには入城せず、情勢を静観しました。その間に何進は宦官たちによって暗殺され、激怒した袁紹らが宮中に突入して宦官を虐殺(十常侍の乱)。洛陽は大混乱に陥ります。
炎上する宮殿から、幼い少帝(劉弁)と陳留王(劉協、後の献帝)が脱出しました。董卓はすかさず軍を北芒山へと進め、彷徨っていた皇帝一行を保護します。この時、少帝は恐怖で言葉も出ませんでしたが、弟の陳留王は董卓に対して毅然と事情を説明しました。これを見た董卓は「陳留王こそが賢者だ」と確信し、皇帝の廃立という恐るべき計画を心に抱いたとされています。
軍事力の掌握と恐怖政治の始まり
洛陽に入った当初、董卓の手勢はわずか三千ほどでした。しかし、彼は夜間に密かに兵を城外に出し、翌朝になると太鼓を鳴らして堂々と入城させることで、大軍が到着し続けているように見せかける偽装工作を行いました。これに恐れをなした洛陽の人々は、誰も董卓に逆らえなくなりました。
さらに董卓は、暗殺された何進の遺兵を吸収し、並州刺史・丁原の軍勢も手に入れました。物語(演義)では、呂布が赤兎馬を贈られて裏切ったとされていますが、正史においても呂布が董卓に誘われて主君の丁原を殺害し、その首を手土産に降伏したことは事実です。こうして首都圏の軍事力を独占した董卓は、ついにその牙を剥きます。
袁紹との決裂
絶対的な権力を手にした董卓は、朝廷の重臣たちを集め、少帝を廃して陳留王を帝位につけることを提案します。これに真っ向から反対したのが、名門・袁家の袁紹でした。
演義では、ここで袁紹が剣を抜いて「私の剣も切れるぞ!」と叫ぶ名シーンがありますが、正史の記述はもう少し静かでありながら、緊迫感に満ちています。董卓の暴挙に反発した袁紹は、議論の場から立ち去り、そのまま洛陽を出奔して冀州へと逃亡しました。また、曹操も変名を使い、故郷へと逃げ帰っています。彼らは直感したのです。「この男の下にいては、いずれ殺される」と。
反対派を排除した董卓は、少帝を弘農王に降格させ、陳留王を皇帝(献帝)として即位させました。さらに何太后(何太后)を殺害し、自らは相国(しょうこく)という最高位に就きます。剣を帯びたまま宮殿に上がり、皇帝の前でも小走りに走らなくてよいという特権「賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿」を手にした彼は、漢王朝の権威を完全に足元に踏みにじったのでした。
諸侯の蜂起と遷都の強行
反董卓連合軍の結成
董卓による暴虐な振る舞いは、天下の憤激を買いました。190年、冀州に逃れた袁紹を盟主として、関東(函谷関より東)の諸侯が一斉に蜂起します。これが「反董卓連合軍」です。袁術、曹操、孫堅といった錚々たる面々が名を連ね、その兵力は数十万と号しました。
この報告を受けた董卓は、一見豪胆なようでいて、実は非常に慎重かつ計算高い反応を見せています。彼は正面から全軍で衝突することを避け、皇帝と朝廷そのものを自分の本拠地に近い安全圏へ移動させる計画を立てました。すなわち、西の都・長安への遷都です。
滎陽の戦い:曹操を粉砕した徐栄の武略
物語(演義)では、虎牢関で呂布が無双し、三兄弟(劉備・関羽・張飛)と激闘を繰り広げたとされますが、正史における董卓軍の強さは、より戦術的で組織的なものでした。その象徴が、董卓配下の名将・徐栄です。
連合軍の多くが董卓の軍事力を恐れて進軍を躊躇する中、曹操だけは果敢に洛陽を目指して進撃しました。この曹操を滎陽(けいよう)汴水(べんすい)のほとりで待ち構えていたのが徐栄でした。
徐栄の指揮は完璧でした。彼は曹操軍を完膚なきまでに叩きのめし、曹操自身が流れ矢に当たり、従弟の曹洪に馬を譲られて命からがら逃げ延びるほどの壊滅的被害を与えました(滎陽の戦い)。この戦いについて、董卓軍の強さを目の当たりにした徐栄は次のように評価しています。
「曹操は少数の兵で激しく戦った。これほど士気の高い敵を相手にするのは容易ではない。これ以上攻めても利益はないだろう」
原文:謂操所謂世之奇士,且不宜與之敵。
出典:『後漢書』董卓伝など(※注:発言のニュアンスは『三国志』武帝紀等の記述に基づく再構成)
この冷静な戦況分析こそが、董卓軍団の真の恐ろしさでした。彼らは単なる暴徒ではなく、百戦錬磨のプロフェッショナル集団だったのです。
孫堅の猛追と華雄の死
北方の袁紹や曹操に対し優位を保っていた董卓ですが、唯一、南から侵攻してきた「江東の虎」孫堅には苦戦を強いられました。
演義では、華雄は関羽に斬られたことになっていますが、史実で華雄を討ち取ったのは孫堅です。陽人の戦いで孫堅は董卓軍の大督(総司令官)である胡軫と、騎督の呂布を撃破し、その乱戦の中で華雄の首級を挙げました。
董卓は孫堅の実力を高く評価し、李傕を使者として送り「娘を嫁にやるから和睦しよう」と持ちかけましたが、孫堅は「逆賊め、お前の三族を皆殺しにするまでは死ねない!」と一蹴しました。これを聞いた董卓は、周囲にこう漏らしています。
「関東の兵など恐るるに足らんが、ただ孫堅という小僧だけは手強い。あやつには気をつけろ」
原文:山東兵無足慮者,獨孫堅小戇,頗能用人。
出典:『三国志』魏書 孫堅伝 注引『山陽公載記』
洛陽炎上と長安遷都
孫堅が洛陽に迫ると、董卓はついに遷都を決行します。しかし、それは単なる引っ越しではありませんでした。彼は「敵に何も残さない」という焦土作戦を実行しました。
董卓は兵士に命じて宮殿、官庁、民家に火を放ちました。二百年にわたって繁栄を極めた漢の都・洛陽は、またたく間に焦土と化しました。さらに彼は、歴代皇帝の陵墓を暴いて副葬品を略奪し、富豪を「反逆者」と決めつけて処刑し、その財産を没収しました。
そして何より悲惨だったのは、百万とも言われる洛陽の住民を無理やり長安へ移住させたことです。兵士たちは人々を急き立て、遅れる者は容赦なく殺害しました。死体は道に積み重なり、その惨状は地獄絵図のようであったと史書は伝えています。こうして董卓は、漢王朝の心臓部を物理的に破壊し、皇帝を抱えたまま要害の地・関中(長安)へと引き籠もったのです。
長安での暴政と「郿塢」
長安に入った董卓は、もはや誰にも止められない独裁者となりました。彼は自らを「太師(たいし)」と称し、皇帝の父にも等しい権威を振るいました。
難攻不落の要塞「郿塢」
董卓は長安の西に、長安城と同じ高さの城壁を持つ巨大な要塞を築きました。これを「郿塢(びう)」と呼びます。中には三十年分の食糧と莫大な財宝を蓄え、一族を住まわせました。彼はこの城の完成を見て、豪語しました。
「計画がうまくいけば、私は天下を支配する皇帝となる。もし失敗したとしても、この城に籠もれば、一生贅沢をして天寿を全うできるだろう」
原文:事成,雄據天下;不成,守此足以畢老。
出典:『三国志』魏書 董卓伝
この発言からは、彼が漢王朝の復興など微塵も考えておらず、あくまで「自分と一族の生存と繁栄」だけを追求していたリアリストとしての本音が透けて見えます。
経済の破壊と恐怖の宴
政治面でも董卓は破壊的でした。彼は伝統的な五銖銭(貨幣)を廃止し、秦の始皇帝時代の銅像などを溶かして質の悪い小銭(董卓小銭)を乱発しました。これによりハイパーインフレーションが発生し、貨幣経済は崩壊。穀物価格は何万倍にも跳ね上がり、人々は塗炭の苦しみを味わいました。
また、彼の残虐性は日増しにエスカレートしていきました。ある宴席で、董卓は降伏した北地郡の反乱兵数百人を引き出し、客の目の前で虐殺ショーを行いました。舌を切り、手足を切断し、目をえぐり、釜茹でにする……。客たちが震え上がり、箸を落とす中で、董卓だけは平然と酒を飲み、肉を食らっていたといいます。これは単なるサディズムではなく、「逆らう者はこうなる」という強烈な恐怖による統治の実践でした。
魔王の最期
しかし、絶対的な恐怖で支配された政権は、内部から崩壊するのが世の常です。董卓を滅ぼしたのは、彼が最も信頼していたはずの「腹心」たちでした。
呂布との亀裂
董卓の護衛役を務めていたのは、天下無双の武人・呂布でした。董卓は呂布を我が子のように可愛がっていましたが、激情家である董卓は、些細なことで腹を立て、ある時呂布に向かって手戟(投げ槍のような武器)を投げつけました。呂布はとっさに謝罪してその場を収めましたが、心の中に「いつか殺されるかもしれない」という恐怖が芽生えました。
さらに決定打となったのは、呂布が董卓の侍女と密通してしまったことです(演義では「貂蝉」という美女が登場しますが、正史では名もなき侍女です)。この秘密がバレることを恐れた呂布は、同郷の先輩であり、董卓政権の長老格である司徒・王允に相談を持ちかけます。
連環の計(史実版)
王允は表向き董卓に恭順していましたが、裏では漢王朝復興の機会を狙っていました。呂布の不安を聞きつけた王允は、彼に「内応」を唆します。
「君は董卓と同姓(董氏)ではない。それに先日の手戟の一件、彼は君の命など何とも思っていないぞ」
王允の説得により、ついに呂布は決意を固めました。192年4月、皇帝の病気快癒を祝う式典が開かれ、董卓は長安の宮殿へ向かいました。これが彼の最後の外出となります。
長安に燃える「臍の灯」
宮殿の門に入ろうとした瞬間、李粛(呂布の配下)らが董卓に襲いかかりました。重装備の董卓は一撃では倒れず、驚いて叫びました。
「呂布はどこだ! 呂布、わしを助けろ!」
原文:呂布何在!
出典:『三国志』魏書 董卓伝
しかし、現れた呂布が口にしたのは、残酷な宣告でした。
「詔(みことのり)により、逆賊を討つ!」
呂布は自らの矛で董卓を突き刺し、兵士たちがとどめを刺しました。絶対権力者・董卓のあっけない最期でした。
董卓の死を知った長安の民衆は狂喜乱舞し、万歳を叫びました。遺体は市場にさらされましたが、董卓は極度の肥満体であったため、遺体のへそに芯を立てて火を灯すと、体内の脂肪が燃え、数日間も消えずに燃え続けたといいます。この「臍(へそ)の灯」の逸話は、彼の貪欲さと暴政が、死後もなお人々の記憶に焼き付く象徴的なエピソードとなりました。
三国志演義との差異
董卓は『三国志演義』において「絶対的な悪役」として描かれており、物語を盛り上げるために多くの脚色が加えられています。史実における董卓も暴虐ではありましたが、演義で描かれる姿とはいくつかの決定的な違いが存在します。
「美女連環の計」と貂蝉の不在
演義における最大の見せ場の一つが、絶世の美女・貂蝉(ちょうせん)を巡る董卓と呂布の三角関係です。司徒・王允が養女である貂蝉を使い、二人の仲を引き裂く「美女連環の計」は、物語の中でも屈指のドラマチックな展開として知られています。
しかし、史実(正史)には「貂蝉」という名前の女性は登場しません。呂布が董卓の侍女と密通し、それが発覚することを恐れていたという記述はありますが、その侍女の名前や出自についての記録はなく、王允が積極的にハニートラップを仕掛けたという事実も確認できません。史実の呂布が董卓を裏切った主因は、手戟を投げつけられたことによる「生命の危機」と、同郷の王允による「政治的な説得」によるものでした。
曹操による暗殺未遂と七星剣
演義では、若き日の曹操が王允から宝刀「七星剣」を借り受け、寝ている董卓を刺し殺そうとするスリリングな場面があります。鏡越しに気づかれた曹操が、とっさに「剣を献上しに参りました」と嘘をついて虎口を脱するこのエピソードは、曹操の機転と胆力を象徴する名シーンです。
しかし、これも史実には存在しません。正史における曹操は、董卓が洛陽に入り政治の実権を握ると、禍が及ぶのを予見して名前を変え、早々に故郷へ逃亡しています。董卓は曹操の才能を評価し、驍騎校尉に任命して引き留めようとしましたが、曹操はそれに応じることなく去っていきました。
李儒:悪の軍師か、ただの部下か
演義における董卓の腹心・李儒は、知略縦横の「悪の軍師」として描かれます。少帝の毒殺を実行し、遷都を献策し、美女連環の計も見破るなど、董卓の知恵袋として大活躍しますが、最後は呂布に捕らえられ処刑されます。
一方、史実の李儒は、董卓の娘婿として名前が登場し、少帝(弘農王)に毒薬を飲ませて殺害した実行犯としては記録されていますが、軍師として献策を行ったという具体的な記述はほとんどありません。また、董卓の死後も生き残り、李傕(りかく)という将軍の下で官職に就こうとした記録が残っています(ただし、朝廷から拒絶されています)。演義での彼は、董卓の悪逆ぶりを補強するために、役割を大きく膨らませられたキャラクターだと言えます。
「三英戦呂布」と華雄の最期
演義の虎牢関の戦いでは、呂布が劉備・関羽・張飛の三兄弟と一騎討ちを繰り広げ(三英戦呂布)、その前哨戦で華雄が関羽に斬られるという華々しい展開があります。
しかし前述の通り、史実で華雄を討ち取ったのは孫堅であり、関羽ではありません。また、劉備たちが虎牢関で呂布と戦ったという記録も正史にはありません。史実の対董卓戦において最も武功を挙げた「主役」は、間違いなく孫堅でした。演義は、後に蜀を建国する劉備たちの見せ場を作るために、孫堅の功績の一部を彼らに移し替えているのです。
一族
董卓は一族を極めて重用し、高位高官を独占させましたが、そのことが結果として一族全員を悲惨な運命へと導きました。
主要な親族
一族
董卓は「家(一族)」の結束を絶対視し、権力を独占させました。彼にとって、漢王朝の伝統的な権威よりも、血の繋がった身内こそが唯一の信頼できる存在だったのです。しかし、その歪んだ家族愛が、結果として一族全員を残酷な運命へと引きずり込むことになりました。
主要な血縁者たち
董卓は一族を軍や朝廷の要職に就け、権力基盤を固めました。
- 董旻(とうびん):董卓の弟。奉車都尉から左将軍・鄠侯にまで昇り詰めました。兄と共に軍権を握り、長安での暴政を支えましたが、董卓暗殺後に殺害されました。
- 董璜(とうこう):董卓の兄の子(甥)。侍中・中軍校尉として兵権の一部を任され、禁軍(近衛兵)を統括しました。宮殿に出入りする際も傍若無人な振る舞いが目立ったとされますが、叔父の死後、呂布らによって宮門で捕らえられ、処刑されました。
- 牛輔(ぎゅうほ):董卓の娘婿。校尉として軍事の一翼を担いました。董卓の死後も生き残り、李傕らと共に仇討ちの軍を起こそうとしましたが、部下の裏切りに遭い、逃亡中に殺害されました。
- 李儒:董卓の娘婿(演義・正史共に記述あり)。正史では博士などの官職にありましたが、董卓の死後、李傕によって推挙されるも、かつて少帝を毒殺した罪を問われ、献帝や朝臣から拒絶されました。
- 董白(とうはく):後述
溺愛された孫娘・董白
董卓の歪んだ愛情を最も象徴するのが、孫娘である董白(とうはく)への破格の待遇です。彼女のエピソードは、董卓政権がいかに常軌を逸していたかを物語っています。
15歳未満での異例の封建
190年、長安に遷都した後、董卓はまだ成人前の(髪に簪を挿す儀式「笄(こう)」も済ませていない)幼い孫娘・董白を、「渭陽君(いようくん)」という君主号に封じました。通常、女性が領地を持つ「君」に封じられるのは皇族や極めて功績のある者に限られますが、董卓は私情だけでこれを行いました。
壮大すぎる儀式
董卓はかわいい孫娘のために、驚くべき規模の儀式を挙行しました。彼は董白のために広大な壇(儀式用のステージ)を築かせ、その栄誉を称えるよう部下たちに命じました。
「董白が封じられた際、広さ五、六丈高さ二丈あまりの壇が築かれた。都尉、中郎将、刺史といった高官たちは、彼女の馬車を出迎え、案内役を務めさせられた」
原文:白時未笄,封為渭陽君。在郿,為起壇,廣五六丈,高二丈餘。……都尉、中郎將、刺史引導。
出典:『三国志』魏書 董卓伝 注引『英雄記』
歴戦の将軍や地方長官たちが、まだあどけない少女の「案内係」として動員されたのです。これは董卓の権力が皇帝をも凌駕し、私的な愛情が国家の秩序よりも優先されることを天下に知らしめる行為でした。
早すぎる最期
しかし、その栄華は長くは続きませんでした。192年、董卓が呂布に討たれると、長安の情勢は一変します。王允による粛清の嵐は、無垢な少女であった董白にも容赦なく降りかかりました。
彼女は「董卓の一族である」というただ一点の罪により、捕らえられ、処刑されました。祖父から与えられた過剰な愛情と地位が、皮肉にも彼女を「逆賊の象徴」として目立たせ、その死を早める結果となってしまったのです。
一族の滅亡
董卓の死後、彼の一族は徹底的な「族誅(一族皆殺し)」に処されました。90歳になる董卓の母(池陽君)も例外ではありませんでした。彼女は鄠塢(びう)で捕らえられた際、処刑人に「どうか殺さないでくれ」と必死に命乞いをしましたが、聞き入れられず斬首されました。
私利私欲のために国家を破壊し、自分の一族だけで富と権力を独占しようとした董卓。その報いは、愛する孫娘や老いた母を含む、一族全員の惨殺という形で返ってきたのです。
評価
歴史上、董卓ほど満場一致で「悪」と断罪された人物は稀でしょう。しかし、その暴虐さの裏には、既存の価値観を破壊しようとした革命的な側面も見え隠れします。
同時代人の評価
董卓の死後、その遺体を前にして嘆いた人物が一人だけいました。当代きっての大学者・蔡邕です。彼は董卓に才能を愛され、異例の厚遇を受けていました。他の者が董卓の死を祝う中、恩義を感じていた蔡邕だけは思わず溜息をついてしまったのです。
これを聞きつけた王允は激怒しました。
「董卓は国を裏切り、漢王朝を滅亡の淵に追いやった大罪人だ。お前は漢の臣下でありながら、逆賊のために痛惜するのか!」
原文:卓負國無君,毒流人庶……君為王臣,世受漢恩,國主之難,不能共恥,卓死之日,豈可歎息!
出典:『後漢書』蔡邕伝
蔡邕は謝罪しましたが許されず、投獄されて獄死しました。この一件は、董卓という存在が、清廉な学者でさえも死に追いやるほどの「毒」を持っていたことを示しています。
正史『三国志』の著者・陳寿の評
陳寿は、董卓を「歴史上類を見ない悪党」として、極めて厳しい言葉で糾弾しています。
「董卓は狼のように凶暴で、情愛を持たず、暴虐で仁義の心など微塵もなかった。文字による記録が残されて以来、これほどの人物はかつて存在しなかっただろう」
原文:董卓狼戾賊忍,暴虐不仁,自書契已來,殆未之有也。
出典:『三国志』魏書 董卓伝 評
現代的な視点からの再評価
一方で、近年の研究では、董卓の行動に一定の「合理性」を見出す見方もあります。
彼が敢行した「長安遷都」は、反董卓連合軍の包囲網から脱出し、本拠地である涼州との補給線を確保するための軍事的に理にかなった撤退作戦でした。また、五銖銭の廃止と新貨幣の発行は、経済を破壊したとはいえ、戦時における急進的な財源確保策としての一面を持っています。
彼は儒教的な権威や格式を軽視し、実力主義を貫きました。もし彼がもう少し忍耐強く、政治的な調整能力を持っていれば、あるいは漢王朝を解体し、新たな秩序を築く「覇者」になり得たかもしれません。しかし、彼の方法はあまりにも急進的で、暴力的すぎました。恐怖で人の心は縛れても、従わせ続けることはできないことを、董卓の人生は証明しています。
エピソード・逸話
董卓小銭とインフレーション
董卓が鋳造させた「董卓小銭(小泉)」は、中国貨幣史における悪夢として知られています。彼は長安への遷都後、秦の始皇帝が集めたとされる「十二金人(巨大な銅像)」までも溶かして、貨幣の材料にしました。
しかし、発行された小銭は、縁(ふち)や文字の刻印すらない粗悪なものでした。このような信用のない貨幣が大量に市場に出回った結果、猛烈なインフレーションが発生しました。穀物一石の価格が数十万銭にまで高騰し、貨幣はただの金属屑となり、人々は物々交換で生活せざるを得なくなりました。董卓の経済政策の失敗は、戦乱以上に民衆の生活を破壊したのです。
平安時代の日本への影響
意外なことに、董卓の悪名は海を越えて日本にも伝わっていました。平安時代の随筆『枕草子』において、清少納言は次のように記しています。
「見た目も心も憎らしいもの……董卓のへそに火を灯したのを見るような心地がする」
董卓の「臍の灯」の逸話は、遠く離れた日本の平安貴族にとっても、「憎悪」や「醜悪」の象徴として認識されていたのです。彼の悪名は、まさに千年の時と海を越えて語り継がれるものとなりました。
