【三国志ガイド】諸葛亮 (Zhuge Liang) – 忠義を貫いた「臥龍」、天才軍師の真実
| 生没年 | 181年 〜 234年(享年54) |
|---|---|
| 所属 | 蜀(蜀漢) |
| 字 | 孔明(こうめい) |
| 役職 | 丞相、武郷侯、益州牧、司隷校尉 |
| 一族 | 兄:諸葛謹、弟:諸葛均、妻:黄月英、子:諸葛瞻 |
| 関係 | 主君:劉備、劉禅、好敵手:司馬懿、弟子:馬謖、姜維 |
| 参加した主な戦い | 赤壁の戦い(外交)、益州攻略戦、南蛮征伐(総指揮)、街亭の戦い、五丈原の戦い |
| 正史と演義の差 | ★★★☆☆(演義の「魔術師的軍師」に対し、史実は「政治・法律・補給・発明の天才」。軍事面では奇策より王道を好んだ。) |
| 実在性 | 実在(『正史』蜀書 諸葛亮伝) |
| 重要度 | ★★★★★ |
諸葛亮は、劉備に「隆中対(天下三分の計)」を授け、蜀の建国を導いた丞相です。劉備の死後は幼帝・劉禅を補佐し、法治と公正な政治で国を治めました。悲願である漢室復興のため、圧倒的な国力差のある魏に対して5度に及ぶ北伐を敢行しましたが、志半ばにして五丈原の陣中で病没しました。その忠義と才知は、中国史における賢相の代名詞となっています。
生涯
1. 孤児からの出発と流浪の青春 (181-207)
名門の没落と徐州からの脱出
諸葛亮は181年、徐州琅邪国陽都県(現在の山東省臨沂市)に生まれました。諸葛氏は前漢の司隷校尉・諸葛豊を先祖に持つ名門であり、父の諸葛珪も泰山郡の丞(副長官)を務める役人でした。
しかし、諸葛亮の少年時代は幸福なものではありませんでした。幼くして母を亡くし、8歳の時に父も失い、弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に引き取られました。さらに追い打ちをかけたのが、193年から194年にかけて発生した曹操による「徐州大虐殺」です。父の仇討ちを掲げた曹操軍は、徐州の数十万の民を虐殺し、泗水の川が死体で堰き止められるほどの惨状となりました。
この地獄から逃れるため、叔父の諸葛玄は諸葛亮らを連れて南下し、旧知の仲であった荊州の劉表を頼りました。この幼少期の「曹操軍による殺戮と逃亡」の原体験が、後の諸葛亮の「漢賊(曹操)とは両立せず」という徹底した抗戦思想の根底にあった可能性は否定できません。
隆中での「晴耕雨読」と「管鮑の交わり」
197年頃、頼りにしていた叔父・諸葛玄が亡くなると、17歳の諸葛亮は襄陽の西、隆中(りゅうちゅう)という山間の村に草庵を結び、晴耕雨読の生活に入りました。
彼は日中は畑を耕して汗を流し、夜は書物を読み耽りましたが、ただの隠者ではありませんでした。彼は膝を抱えて「梁甫吟(りょうほぎん)」という詩を吟じ、常々、自らを春秋戦国時代の名宰相・**管仲**(斉の桓公を覇者に導いた政治家)や**楽毅**(弱小の燕を率いて強国・斉を破った将軍)に比していました。
当時の人々は、無名の若者のこの大言壮語を笑いましたが、親友であった徐庶、崔州平、孟建、石韜らだけは「確かにそれだけの才能がある」と信じて疑いませんでした。彼らは議論を交わし、石韜らが「君なら地方長官クラスにはなれるだろう」と言うと、諸葛亮はただ笑って答えなかったといいます。彼の視線は、地方の栄達ではなく、天下全体を見据えていたのです。
荊州名士層との婚姻と人脈形成
この時期、諸葛亮は荊州の有力名士である黄承彦に認められ、その娘・黄月英を妻に迎えました。彼女は「髪は赤く肌は黒いが、才能は諸葛亮に匹敵する」と噂される才女でした。
この婚姻は、諸葛亮に強力な人脈をもたらしました。黄承彦の妻は荊州の最大実力者・蔡瑁の姉であり、劉表の後妻(蔡氏)とも姉妹でした。つまり、諸葛亮は荊州支配層(劉表・蔡瑁)と親戚関係になったのです。
さらに、人物鑑定の大家である司馬徽(水鏡先生)や、龐徳公といった大物たちとも交流を深め、彼らから「臥龍(諸葛亮)」、「鳳雛(龐統)」と称されるようになります。彼は静かに蟄居しながらも、荊州の上流社会に深く根を張り、情報の中心に身を置いていました。
2. 天下三分の計と赤壁の奇跡 (207-208)
三顧の礼と「隆中対」の真髄
207年、荊州の新野に駐屯していた劉備は、曹操に対抗するための軍師を求めて司馬徽を訪ね、「伏龍・鳳雛」の存在を知らされます。
劉備は諸葛亮の草庵を三度訪ねました(三顧の礼)。最初の二回は不在や昼寝中でしたが、47歳の劉備は27歳の諸葛亮に対して礼を尽くして待ち続けました。その熱意に打たれた諸葛亮は、ついに重い口を開き、天下の情勢を分析します。
「曹操は百万の兵を擁し、天子を挟んで諸侯に号令しており、正面から争うことはできません。孫権は江東を三代にわたって支配し、国は険しく民は付いており、味方にできても図ることはできません」。
そして、劉備が取るべき道として**「隆中対(天下三分の計)」**を提示しました。
- まず荊州と益州(蜀)を押さえて基盤とする。
- 西の異民族(戎)や南の異民族(夷)と結んで守りを固める。
- 外には呉の孫権と結んで曹操を孤立させる。
- 内には政治を修め、天下の変(曹操軍の動揺など)を待つ。
- 時が来れば、上将に荊州の軍を率いさせ、将軍(劉備)は益州の軍を率いて秦川(長安方面)へ出れば、民衆は歓迎し、漢室復興は成るでしょう。
この壮大かつ具体的なグランドデザインに劉備は衝撃を受け、「孔明を得たことは、魚が水を得たようなものだ(水魚の交わり)」と喜び、彼を全軍の師として迎え入れました。
長坂の敗走と単身の外交戦
しかし、構想を実現する時間は残されていませんでした。208年、劉表が病死し、後を継いだ劉琮が曹操に無血開城すると、劉備は新野を追われ、長坂で追いつかれて壊滅的な打撃を受けました(長坂の戦い)。
敗走して夏口へ逃げ込んだ劉備軍は、関羽の水軍を合わせてもわずか2万弱。対する曹操軍は数十万。絶体絶命の危機において、諸葛亮は起死回生の一手に打って出ます。「呉の孫権と同盟を結ぶ」という策です。
諸葛亮は魯粛と共に単身で呉の柴桑へ乗り込みました。当時の呉では、張昭ら重臣のほとんどが「曹操に降伏すべき」と主張しており、孫権自身も迷っていました。
諸葛亮は孫権に対し、挑発と説得を巧みに使い分けました。「曹操に勝てないと思うなら、さっさと降伏して仕えればよいではありませんか」と煽りつつ、「曹操軍は遠征で疲弊しており、北方の兵は水戦に不慣れです。疫病も発生しています。殿下が劉備と協力すれば必ず勝てます」と勝算を説きました。
この言葉が、主戦派である周瑜や魯粛の意見と合致し、孫権は開戦を決断。孫劉同盟が成立しました。
赤壁の戦いと荊州南部の平定
同年冬、赤壁の戦いにおいて、周瑜率いる連合軍は火攻めで曹操の大船団を焼き尽くしました。諸葛亮自身が戦場で指揮を執ったわけではありませんが、この同盟締結こそが勝利の最大の要因でした。
曹操が北へ撤退すると、劉備軍はその空白地帯となった荊州南部(長沙・零陵・桂陽・武陵)を電撃的に平定します。諸葛亮は「軍師中郎将」に任命され、これら四郡の統治を任されました。彼はここで税収を確保し、兵糧を調達して、急拡大する劉備軍の屋台骨を支えました。ついに「隆中対」の第一段階である「荊州の領有」が実現したのです。
3. 荊州統治と入蜀の兵站 (209-219)
益州攻略と「足るを知る」統治
211年、劉備が劉璋の招きに応じて益州(蜀)へ向かう際、諸葛亮は関羽・張飛・趙雲と共に荊州の留守を任されました。これは、劉備の本拠地である荊州を絶対に失わないための最強の布陣でした。
しかし212年、劉備と劉璋の関係が決裂し、戦争が始まります(益州攻略戦)。戦況が膠着し、軍師の龐統が戦死すると、劉備は諸葛亮に救援を要請しました。
諸葛亮は関羽だけを荊州に残し、張飛・趙雲らを率いて長江を遡上。沿岸の郡県を次々と平定しながら成都へ進軍し、劉備と合流して成都を包囲、劉璋を降伏させました。
益州平定後、諸葛亮は政治の最高責任者として、疲弊した蜀の経済と法制度の再建に着手します。
彼は法正らと共に法律書『蜀科』を制定し、厳格な法治主義を敷きました。当初、地元の豪族たちは「劉邦(漢の高祖)のように法を緩めるべきだ」と反発しましたが、諸葛亮は「劉璋の時代は法が緩すぎて秩序が乱れた。今は恩愛と威厳を同時に示す必要がある」と説き、身分に関わらず公平に賞罰を行いました。
その結果、蜀の治安は劇的に改善し、「道に落ちている物を拾う者がいない」ほどの秩序が実現しました。人々は彼を畏れながらも、その公正さに心服し、敬愛するようになったのです。
漢中争奪と兵站の奇跡
219年、劉備は宿敵・曹操と漢中の支配権を巡って激突します(漢中の戦い)。
前線で法正が作戦を指揮する一方、諸葛亮は後方の成都で内政を取り仕切り、「足兵足食(兵員と食糧を十分に供給する)」という任務を完璧に遂行しました。戦いが長期化し、蜀の国力が限界に近づく中でも、前線に物資が途切れることはありませんでした。
楊洪の「漢中を失えば蜀は守れません。男子はすべて戦場へ送り、女子はすべて物資を運ぶべきです」という進言を採用し、総力戦体制を敷いた諸葛亮の手腕により、劉備軍はついに曹操を撤退させ、漢中を奪取することに成功しました。
4. 夷陵の敗戦と白帝城の託孤 (220-223)
関羽の死と戦略の崩壊
しかし、漢中勝利の喜びも束の間、同年冬に荊州を守っていた関羽が呉の孫権(実行部隊は呂蒙・陸遜)に背後を襲われ、殺害されるという悲劇が起きました。これにより、隆中対の要である「荊州」と、呉との同盟を一挙に失いました。
220年に曹操が死に、子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて魏の皇帝となると、221年、劉備も対抗して皇帝に即位し、蜀漢を建国。諸葛亮は**丞相**に任命されました。
夷陵の敗戦と劉備の崩御
皇帝となった劉備は、関羽の仇討ちと荊州奪還のため、呉への東征を決意します。諸葛亮は、趙雲らと共にこれを諌めようとしましたが、劉備の怒りを止めることはできませんでした。
結果は、夷陵の戦いにおける壊滅的な大敗でした。陸遜の火攻めにより蜀軍の主力は全滅。敗報を聞いた諸葛亮は、「法正が生きていれば、主上(劉備)を止められただろうに。仮に止められなくても、これほどの大敗にはならなかったはずだ」と嘆きました。
223年、劉備は失意のうちに永安(白帝城)で病に倒れます。死の床に諸葛亮を呼び寄せた劉備は、歴史に残る遺言を残しました。
「君の才能は曹丕の十倍ある。必ずや国を安んじ、大事を成し遂げるだろう。もし我が子・劉禅が皇帝として補佐するに足りる人物なら、助けてやってくれ。**しかし、もし才能がなければ、君が自ら国を治めよ(君が皇帝になれ)**」。
これは、臣下に対する最大級の信頼であると同時に、「絶対に蜀を滅ぼすな」という強烈な呪縛でもありました。諸葛亮は涙を流してひれ伏し、「股肱の力を尽くし、忠貞の節を守り、死ぬまでやり抜きます」と誓いました。
5. 南征と北伐への再建 (223-227)
呉との同盟回復と内政再建
劉備の死後、即位した劉禅はわずか17歳。蜀は夷陵の敗戦で人材を失い、南方の異民族は反乱を起こし、北の魏は大軍をちらつかせているという、まさに亡国の危機にありました。
諸葛亮はまず、呉に使者(鄧芝)を送って同盟を修復し、二方面作戦のリスクを解消しました。その上で、「務農殖穀(農業に務め穀物を増やす)」政策を推し進め、都江堰の整備や蜀錦(特産品の絹織物)の生産奨励を行い、国力の回復に努めました。
南蛮征伐と「心を攻める」戦い
225年、内政が安定すると、諸葛亮は自ら軍を率いて南中(南蛮)の平定に向かいます(南蛮征伐)。
参軍の馬謖が「南方の民は遠く険しい土地に住んでおり、力で服従させてもすぐに反乱します。心を攻めるのが上策です」と進言すると、諸葛亮はこれを採用しました。
彼は南蛮王・孟獲を七回捕らえて七回逃がす(七縦七擒)という粘り強い対応を見せ、ついに孟獲に「公の威光は天のようです。南人は二度と背きません」と心服させました。
これにより後顧の憂いが断たれただけでなく、南方の豊富な物資や、勇猛な兵士(無當飛軍など)を蜀軍に組み込むことができ、北伐への準備が整いました。
6. 北伐の死闘と五丈原 (228-234)
出師の表と第一次北伐の誤算
227年、諸葛亮は北伐の軍を起こして漢中に進駐します。出陣に際して劉禅に奉った『出師の表』は、憂国の情と忠義に溢れた名文として知られています。
「漢と賊(魏)は両立せず」。蜀の国力は魏の数分の一(益州一州対、九州)しかありませんでしたが、座して滅亡を待つよりも、攻勢に出て魏を揺さぶり、漢室復興の望みを繋ぐという決断でした。
228年春、第一次北伐が開始されます。諸葛亮は魏の意表を突いて祁山に進出し、天水・南安・安定の三郡を寝返らせることに成功しました。関中(長安方面)への足掛かりを得たのです。
しかし、補給路の要衝である街亭の守備を任せた愛弟子の馬謖が、諸葛亮の「街道を塞げ」という指示に背いて山上に布陣し、魏の名将・張郃に包囲されて水を絶たれ、惨敗しました(街亭の戦い)。
拠点を失った諸葛亮は全軍撤退を余儀なくされ、三郡も奪い返されました。帰還後、諸葛亮は軍律を正すために涙を流して馬謖を処刑し(泣いて馬謖を斬る)、自らも三階級降格して責任を取りました。
司馬懿との宿命の対決
その後も諸葛亮は休むことなく第二次(陳倉の戦い)、第三次(武都・陰平平定)と北伐を繰り返しますが、常に「険しい山道による兵糧輸送の困難」という壁に阻まれ、撤退を余儀なくされました。
これを解決するため、諸葛亮は木牛流馬という輸送機器を開発し、234年の第五次北伐では、五丈原で魏の総司令官・司馬懿と対峙します。
司馬懿は諸葛亮の才を恐れ、「蜀軍は遠征で疲弊している。戦わずに守っていれば自滅する」と看破し、徹底した持久戦をとりました。諸葛亮は女性の衣服を送りつけて「男なら出てきて戦え」と挑発しましたが、司馬懿は動じず、逆に使者に諸葛亮の生活ぶりを尋ね、「食事は少なく、仕事は多い。孔明は長くはないだろう」と予言しました。
巨星、堕つ
その言葉通り、過労と心労が重なった諸葛亮は陣中で病に倒れました。
8月、自身の死期を悟った諸葛亮は、姜維・楊儀・費禕らに撤退の指揮と後事を託し、五丈原の秋風の中で息を引き取りました。享年54。
死後、蜀軍は整然と撤退を開始します。追撃しようとした司馬懿は、蜀軍が旗を返して反撃の構えを見せると、「孔明はまだ生きているのではないか」と疑って慌てて逃げ帰りました。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事となり、彼の神算鬼謀は死してなお敵を畏怖させ続けました。
人物評
諸葛亮は、政治家としては「管仲・蕭何(漢の建国の功臣)に匹敵する」と評されます。行政処理能力は極めて高く、公平無私な政治で民衆や異民族からも慕われました。彼が死んだ時、蜀の各地で民衆が自発的に廟を建てて祀ったことが、その徳の高さを証明しています。
軍事面では、奇策を用いるよりも、規律の取れた軍隊運用と王道の陣形を好みました。『正史』の著者・陳寿は「軍隊を統率する才能は優れていたが、臨機応変な将略は得意ではなかったのではないか(奇謀は長所に非ず)」と評していますが、これは圧倒的な国力差のある魏を相手に、一度も大敗せずに撤退を成功させ、魏軍を自国領内に釘付けにし続けた統率力を、結果論だけで過小評価しているとも言えます。
また、発明家としての一面もあり、連射式の石弓(元戎)や輸送用具(木牛流馬)、八陣図といった軍事技術を開発・改良しました。
三国志演義との差異
魔術師的軍師としての孔明
『三国志演義』では、諸葛亮は気象を操り未来を予知する「魔術師的な軍師」として描かれます。
赤壁の戦いでは七星壇で祈祷して東南の風を呼び(借東風)、空城の計では琴を弾いて司馬懿の大軍を退け、南蛮征伐では猛獣や藤甲軍を焼き払います。これらは物語を盛り上げるためのフィクションであり、史実の彼はあくまで「合理的な政治家・戦略家」でした。
空城の計の真実
第一次北伐の撤退時、諸葛亮が城門を開け放って琴を弾き、司馬懿を疑心暗鬼にさせて退却させたという「空城の計」は演義のハイライトの一つですが、史実ではこの時、司馬懿は別の場所(宛城)に駐屯しており、街亭に来ていたのは張郃だけでした。この逸話は、別人のエピソード(趙雲の空営の計など)や、『三国志平話』などの民間伝承を取り入れたものと考えられています。
一族
諸葛氏は一族が魏・呉・蜀の三か国に分かれて仕えたため、「龍(孔明)・虎(子瑜)・狗(公休)」と評されました。
- 兄:諸葛謹(子瑜)
呉に仕え、大将軍となりました。諸葛亮とは公私を混同せず、戦場で対峙しても手紙を送り合うだけの淡白な関係を保ちましたが、信頼関係は厚く、呉蜀同盟の架け橋となりました。 - 従弟:諸葛誕(公休)
魏に仕えました。一族の中では「狗(功績ある犬)」と評されましたが、後に魏の実権を握った司馬氏に対して反乱を起こし(諸葛誕の乱)、司馬昭に討たれました。 - 妻:黄月英
名士・黄承彦の娘。器量が悪い(赤毛で色黒)が才能は並外れていると言われ、諸葛亮は外見を気にせず妻にしました。木牛流馬の発想は彼女の知恵だという伝説もあります。 - 子:諸葛瞻
諸葛亮が晩年になって授かった子。父の威光もあり若くして重職に就きましたが、魏の鄧艾が蜀に侵攻してきた際、綿竹の戦いで戦死し、父に殉じました。
評価
陳寿からの評価
評価: 諸葛亮が丞相として政治を執ると、民を慰撫し、規律を示し、官職を適材適所にし、誠意ある態度をとった。刑罰は厳格だったが恨む者はおらず、政治は公平だった。その統治は、管仲や蕭何に匹敵する。
出典: 『三国志』蜀書 諸葛亮伝 評
原文: 「諸葛亮之為相國也,撫百姓,示儀軌,約官職,從權制,開誠心,布公道… 刑政雖峻而無怨者,以其用心平而勸戒明也。可謂識治之良才,管、蕭之亞匹矣。」
司馬懿からの評価
評価: (諸葛亮の死後、彼が布陣した跡を見て)天下の奇才である。
出典: 『三国志』蜀書 諸葛亮伝
原文: 「天下奇才也。」
生涯の好敵手であった司馬懿も、その死後に諸葛亮の軍事能力の高さを認めざるを得ませんでした。
エピソード・逸話
饅頭(マントウ)の発明
南蛮征伐からの帰途、川が氾濫して渡れなくなった際、現地の風習では「人の首を川に沈めて神を鎮める」必要がありました。
諸葛亮は「ただでさえ多くの命を奪ったのに、これ以上殺生はできない」とし、小麦粉を練って中に肉を詰め、人の頭の形に似せたものを作って川に沈めました。これが「饅頭(蛮頭)」の始まりとされています(『事物紀原』)。
死せる孔明、生ける仲達を走らす
五丈原で諸葛亮が死んだと聞いた司馬懿は、すぐに蜀軍を追撃しました。しかし、蜀軍が反撃の構えを見せると、司馬懿は「孔明が死んだというのは罠ではないか」と疑って慌てて逃げ帰りました。
実際には、諸葛亮の遺体の姿を模した木像(演義)や、彼の計略通りに動いた姜維・楊儀らの采配によるものでした。人々はこれを笑い、「死んだ孔明が生きた仲達(司馬懿)を走らせた」と噂しました。