| 姓名 | 邴原(Bǐng Yuán) 字:根矩(Gēnjǔ) |
|---|---|
| 生没年 | 不明 〜 213年頃(享年不明) |
| 所属 | 魏 |
| 役職 | 五官将長史 |
| 一族 | 娘(早世) |
| 関係 | 主君:曹操、盟友:管寧・華歆 |
| 参加した主な戦い | なし(文官として従軍中に病没) |
| 正史と演義の差 | – 登場なし |
| 実在性 | 実在 |
| 重要度 | ★★★☆☆ |
三国志演義では登場しないが、後漢末期を代表する清流派の名士。管寧・華歆と共に「一龍」と称され、その中でも龍の「腹」に例えられた。幼少期の貧苦を乗り越えて学問を修め、遊学中の断酒や安丘の孫崧との「登山採玉」の問答など、数多くの逸話を残した。孔融や公孫度といった群雄と関わりながらも、賄賂や不正を憎む高潔な姿勢を貫き、最終的には魏の臣下となり曹丕の師となる。
生涯
幼少期:涙の向学心
貧困と孤児の境遇
邴原は字を根矩といい、青州北海国朱虚県の人です。
彼の人生の始まりは、苦難に満ちたものでした。わずか11歳で父を亡くし、家は極貧を極め、頼るべき親族もいない孤児として育ったのです。当時の社会通念上、後ろ盾のない孤児が学問を修めることは、登竜門をくぐるよりも困難なことでした。しかし、邴原の魂には、幼い頃から消えることのない「知への渇望」が燃えていました。
書塾での涙
ある冬の日、邴原は近所の書塾(学校)の前を通りかかりました。窓からは、師と生徒たちが経書を朗読する声が聞こえてきます。邴原はその場に立ち尽くし、ボロボロと涙を流し始めました。
その姿に気づいた師が、不思議に思って声をかけ、涙の理由を尋ねました。邴原は涙を拭いながら、自身の境遇と学問への切実な想いを吐露しました。
孤児は傷つきやすく、貧しい者は感じやすいものです。学ぶことができる人々には皆、父や兄がいてその費用を出してくれます。彼らを見て、一つには自分が孤児でないことを羨み、二つには学問ができることを羨ましく思い、心が痛んで涙が出るのです。
原文:孤者易傷,貧者易感。夫書者,必皆具有父兄者,一則羨其不孤,二則羨其得學,心中惻然而為涕零也。
出典:『三国志』魏書 邴原伝 注引『邴原別伝』
この言葉は、師の心を強く打ちました。師は邴原の志を哀れみ、月謝を取らずに教えることを約束しました。
邴原は深く感謝し、その日から学問の道に入りました。彼の集中力は凄まじく、わずかひと冬の間に『孝経』や『論語』を完全に暗唱するほどでした。この驚異的な才能と努力により、彼は成人する頃には「国士」としての片鱗を見せ始めていました。
青年期の遊学と孫崧との問答
安丘への旅立ち
成人した邴原は、更なる高みを求めて遊学の旅に出ることを決意します。彼は安丘県に住む名士、孫崧(そんすう、字は賓碩)を訪ねました。
孫崧は若手の育成に熱心な人物でしたが、邴原が同郷であることを知ると、彼の意図を試すかのような質問を投げかけました。孫崧は、邴原の郷里である北海には天下の碩学である鄭玄がいるにもかかわらず、なぜ彼を捨てて遠く離れた自分の元へ来たのかと問いただしました。そして、それは「孔子の家の隣に住みながら孔子を知らなかった愚か者(東家丘)」と同じではないかと指摘したのです。
郷里の偉人である鄭玄を無視して旅に出たことを批判されたわけですが、邴原は動じることなく、見事な比喩を用いて自身の志を説明しました。
人にはそれぞれ志があり、求めるものも異なります。山に登って玉を採る者もいれば、海に入って珠を採る者もいます。山に登る者が海の深さを知らないとは言えませんし、海に入る者が山の高さを知らないとも言えません。
あなたが私を「東家丘(偉人の隣の愚か者)」となじるならば、私から見ればあなたこそ「西家の愚夫」ということになってしまいますよ。
原文:人各有志,所規不同,故乃有登山而採玉者,有入海而採珠者,豈可謂登山者不知海之深,入海者不知山之高哉!君謂僕以鄭為東家丘,君以僕為西家愚夫邪?
出典:『三国志』魏書 邴原伝 注引『邴原別伝』
「私には私の目指す道(山または海)があり、それは鄭玄先生の道とは異なるのです」というこの堂々たる回答に、孫崧は感服しました。孫崧は自身の非礼を詫び、邴原の才能を高く評価して書物を贈り、彼を送り出しました。邴原は孫崧の意を尊重して書物を受け取りましたが、師を求めて旅をする身に書物は不要と考え、家に置いて再び旅立ちました。
断酒の誓いと「一龍」の絆
学問のための禁欲
孫崧の元を離れた邴原は、本格的な遊学の旅を始めます。この時、彼は大きな決断をしていました。「酒は精神を緩ませ、学問の妨げになる」と考え、一切の飲酒を断つことを誓ったのです。
邴原はもともと酒に強く、いくら飲んでも乱れることはありませんでした。しかし、自らを律するため、それから数年間(記述によれば8〜9年間)、彼は陳留で韓子助に師事し、潁川で陳寔(陳仲弓)を敬い、汝南で范滂(范孟博)と交わり、涿郡で盧植(劉備、公孫瓚の師)に親しむなど各地を巡りながらも、一滴の酒も口にしませんでした。
管寧・華歆との交友
この遊学の中で、邴原は二人の運命的な友と出会います。同郷の管寧と、平原郡の華歆です。
三人は共に学び、乱世における士大夫のあり方を語り合いました。世の人々は彼らの卓越した才能と徳行を称え、三人を一匹の龍に例えて「一龍」と呼びました。
一般的には、高潔さで知られる管寧を「龍の頭」、実務能力に優れた華歆を「龍の尾」、そしてその中間に位置して徳と才を兼ね備えた邴原を「龍の腹」と称しました(※華歆を頭とする説もあります)。彼らの友情は、思想や立場の違いを超えて深く結ばれていました。
帰郷と一度きりの酒宴
長い遊学期間を終え、いよいよ邴原が故郷へ帰る時が来ました。師友たちは邴原のために送別の宴(餞別)を催し、酒と食事を振る舞いました。
その席上、邴原は突然杯を手に取り、周囲を驚かせました。彼は、自分は本来酒が飲めるが、学業を成就させるために長年断っていたのだと明かし、別れの席である今日だけは杯を空けると告げました。
邴原はそう言うと、一同の前で酒を飲み始めました。その飲みっぷりは凄まじく、一日中飲み続けても全く酔った様子を見せませんでした。
原はもともと大酒飲みであったが、遊学に際して酒を断ち、八、九年の間一滴も口にしなかった。別れに臨んで師友が餞別を設けると、原はこの時初めて酒を飲んだ。一飲みして酔わず、終日語り合って別れた。
原文:原舊能飲酒,自行之後,恐廢學,乃斷酒。八九年間,酒肉不入及別,師友設醄餞,原於是始飲酒,一飲不醉,終日言別。
出典:『三国志』魏書 邴原伝 注引『邴原別伝』
この「一度きりの酒宴」は、彼が単なる堅物ではなく、強靭な意志で欲望をコントロールできる人物であることを証明しました。邴原はその後、再び酒を断って帰路につき、孫崧に借りていた書物を返すことで、義理を果たしました。
孔融への出仕と慧眼
北海での登用
故郷の北海に帰還した邴原を待っていたのは、北海の相として赴任していた孔融でした。
孔融は名士を好んで登用する人物であり、邴原の名声を聞きつけて彼を「計佐」として採用し、後に「有道(徳行ある人物を推薦する科目)」で朝廷に推挙しました。
戯れを見抜く
ある時、孔融が愛用していたある人物に対し、激怒して処刑しようとする騒動が起きました。
周囲の同僚たちは皆、その男が死罪に当たるほどではないと考え、口々に頭を下げて助命を嘆願し、血を流して頼む者までいました。しかし、邴原だけは一言も発せず、静かにその場に控えていました。
孔融は邴原の沈黙を不審に思い、「皆が請願しているのに、なぜ君だけは何もしないのか?」と尋ねました。邴原は、孔融の真意を見抜いており、次のように答えました。
「明府(あなた)は彼を愛しておられ、実の子のように扱っておられました。もし憎むなら彼を危うくするでしょうが、私は愚かにも、明府がなぜ彼を愛し、またなぜ憎むのかが理解できません」
孔融は答えて言いました。「彼は貧しい家の生まれで、私が引き立ててやったのに、今は恩を忘れている。善人は進め、悪人は誅する、これが君子の道だ。昔、応仲遠(応劭)は孝廉に推挙した者をすぐに殺した。君主の厚遇など一定ではないのだ」
邴原は反論して言いました。「応仲遠が孝廉を殺したのは、義に反します。孝廉は国の優れた人材です。もし挙げるのが正しければ殺すのは間違いで、殺すのが正しければ挙げるのが間違いです。『詩経』にも『論語』にも、愛して生かそうとしながら憎んで殺そうとするのは惑いだとあります。応仲遠の惑いは甚だしい。明府はあのような真似をしてはなりません」
これを聞いて孔融は大笑いして言いました。「私はただ戯れた(冗談を言った)だけだ!」
邴原はさらに言いました。「君子の言葉は身から出て民に影響します。人を殺そうとしておきながら、戯れだなどと言うことがあってよいものでしょうか?」
原文:融乃大笑曰:「吾但戲耳!」
出典:『三国志』魏書 邴原伝 注引『邴原別伝』
孔融は邴原の正論に答えることができませんでした。このエピソードは、邴原が権力者に対しても決して媚びず、道理を説いて諌めることができる人物であったことを示しています。
隠遁と遼東への渡海
鬱洲山への隠遁
当時、漢王朝は衰退し、政治は賄賂によって左右される有様でした。清廉潔白を旨とする邴原は、このような腐敗した世に身を置くことに耐えられず、家族を連れて鬱洲山(うつしゅうざん)の中へ逃れ、隠遁しました。
孔融は書簡を送り、「賢者は危険な邦には入らず、乱世には身を潜めるものだ。根矩(邴原)よ、仁を己の任務とし、民を救うべき時に、なぜ顧みようとしないのか。帰って来なさい」と説得しましたが、邴原の決意は固く、応じませんでした。
遼東への避難
やがて黄巾の乱が激化し、鬱洲山周辺も危険になると、邴原はより安全な地を求めて遼東郡へ渡りました。当時、遼東は公孫度が支配しており、中原の混乱を避けた多くの人々が集まっていました。
遼東に到着した邴原に対し、公孫度は館を用意して厚遇しようとしました。しかし邴原は、公孫度が漢王室を軽んじ、自立の野心を抱いていることを見抜いていました。彼は仕官を拒絶し、山中に住むことを選びました。
義侠の士:劉政の救出と太史慈
遼東での邴原の義侠心を象徴する、命がけの救出劇があります。
邴原と同郷の劉政という人物がいました。彼は勇略と雄気(勇気と野心)を兼ね備えた傑物でしたが、その才を恐れた遼東太守の公孫度に命を狙われることになりました。
公孫度は劉政の一族を尽く捕らえ、さらに「劉政をかくまう者は同罪とする」という厳しい布告を出して彼を追い詰めました。
窮地に陥った劉政は、追及を逃れて邴原のもとへ駆け込みました。邴原は「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」の精神で、危険を顧みずに彼を匿い、一ヶ月以上も自宅の床下に隠し続けました。
ちょうどその頃、東萊郡の太史慈が、遼東から故郷へ帰ろうとしていました。邴原はこの好機を逃さず、太史慈に事情を打ち明けて劉政を託し、共に脱出させることに成功したのです。
公孫度への説得
二人が無事に安全圏へ逃れたのを見届けると、邴原は自ら公孫度のもとへ出向き、劉政を逃がした事実を告げた上で、捕らえられている家族を釈放するよう説得を試みました。
将軍(公孫度)が以前、劉政を殺そうとしたのは、彼が害になると考えたからです。今、劉政は去りました。あなたの害は取り除かれたのではありませんか?
公孫度は「その通りだ」と答えました。
邴原はさらに言いました。「あなたが劉政を恐れたのは、彼に知略があるからです。今、劉政は逃れ、その知略を他で使うでしょう。これ以上、彼の一族を拘束して何になりましょう? むしろ彼らを許し、重い恨みを買わないようにするべきです」
原文:將軍前日欲殺劉政,以其為己害。今政已去,君之害豈不除哉!……君之畏政者,以其有智也。今政已免,智將用矣,尚奚拘政之家?不若赦之,無重怨。
出典:『三国志』魏書 邴原伝
この理路整然とした説得に、公孫度も納得せざるを得ませんでした。こうして劉政の家族は釈放され、邴原は彼らに旅費を持たせて故郷へ送り届けました。
この一件により、邴原の智謀と信義は遼東の地で不動のものとなり、彼を慕って集まる士大夫は数百家に及んだといいます。
帰還:雲中の白鶴
孔融からの手紙
遼東で十数年を過ごし、邴原の名声は異民族の地にまで響き渡っていました。その間、中原では孔融が「賢者は危険な地を去り、平和な地へ身を寄せるものだ。しかし今は王室が危機に瀕しており、仁を以て任務とする君のような人物が必要なのだ」という切実な手紙を送り、邴原に帰還を促していました。
邴原もまた、故郷へ戻り漢王朝のために尽くすべき時が来たと感じていました。しかし、公孫度は邴原を自身の権威付けに利用するため、彼を厳重に監視し、決して去らせようとはしませんでした。
脱出と「白鶴」の嘆き
邴原は一計を案じました。彼は「家財を整理して、遼東に骨を埋める準備をする」と偽り、監視の目を緩めさせました。そして隙を見て、家族と共に密かに船に乗り込み、海路で北海へと脱出したのです。
邴原が消えたことを知った公孫度の部下たちは、すぐに追っ手を差し向けるよう進言しました。しかし、公孫度は遠く海を見つめ、寂しげに首を振ってこう言いました。
邴君(邴原)はいわば「雲の中を飛ぶ白鶴」のようなものだ。どうして我々のような、地面に網を張る鳥獲り(鶉や鷃を捕る者)が捕まえることができようか。私が彼を送り出したのだ、追ってはならん。
原文:邴君所謂雲中白鶴,非鶉鷃之網所能羅矣。又吾自遣之,勿復求也。
出典:『三国志』魏書 邴原伝 注引『邴原別伝』
この「雲中白鶴」という言葉は、邴原の高潔さが、もはや一地方軍閥の枠には収まりきらないレベルに達していたことを象徴する名言として、後世に語り継がれました。
曹操への仕官と、昌国でのサプライズ
帰還した邴原は、司空となっていた曹操によって招聘され、東閣祭酒(とうかくさいしゅ:学問顧問のような役職)に任命されました。
ある時、曹操が北方の三郡(烏桓討伐と思われる)への遠征を行い、その帰途、昌国(しょうこく)に駐屯して宴会を開きました。酒が回り、機嫌が良くなった曹操は、居並ぶ諸将に向かってこう言いました。
「私が帰還すれば、留守を預かる鄴の守備隊長や諸君は、必ず出迎えに来るだろう。今日か明日の朝には皆到着するはずだ。しかし、その中で唯一来ない者がいるとすれば、それは邴祭酒(邴原)だけだろうな!」
曹操は、邴原の気難しく高潔な性格を知っており、「彼は権力者に媚びて出迎えになど来ないだろう」と予測したのです。
ところが、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、門番が報告に来ました。「邴祭酒が到着されました!」
なんと、来るはずがないと予言された邴原が、誰よりも早く一番乗りで駆けつけたのです。
曹操の驚きと荀彧の評
報告を聞いた曹操は驚き、かつ大喜びしました。彼は慌てて履物を引っ掴んで裸足のまま飛び出し(擥履而起)、遠くまで邴原を出迎えに行きました。
曹操は邴原の手を取って言いました。
「賢者の行動というのは、本当に予測がつかないものだ! 私は君が来ないだろうと思っていたのに、君はわざわざ遠くから身を屈して来てくれた。私の飢え渇いた心(賢者を求める心)を十分に満たしてくれたよ」
その後、邴原が退出すると、軍中の士大夫数百人がこぞって邴原の宿舎へ挨拶に訪れました。あまりの人の多さに、曹操は不思議に思って荀彧に尋ねました。
「皆どこへ行くのだ?」
「ただ邴原のご機嫌伺いに行くだけですよ」
「邴原の名声はこれほど重く、士大夫たちの心を傾けさせてしまうのか?」
「彼は一代の異人(傑物)であり、士大夫の精神的支柱(精藻)です。公も礼を尽くして待遇すべきです」
曹操は深く頷き、「それはもとより私の願いだ」と答え、以後ますます邴原を敬うようになりました。
愛子・曹沖との冥婚拒否
しかし、邴原はただ曹操に媚びるような人物ではありませんでした。
ある時、邴原の愛娘が早世しました。奇しくも同時期に、曹操が最も愛した息子である曹沖(倉舒)もまた、若くして亡くなっていました。
曹操は、せめて死後の世界で二人が寂しくないようにと、邴原に対し「私の息子と君の娘を合葬(冥婚)させよう」と持ちかけました。これは最高権力者からの破格の申し出であり、通常であれば涙して感謝するような栄誉でした。
ところが、邴原はこの申し出を丁重に、しかし断固として拒絶しました。
合葬(死者同士の結婚)は、儒教の礼に反する行為です。私が明公(曹操)に受け入れられ、また明公が私を待遇してくださっているのは、私が古の教えを守り、それを変えないからだと存じます。もし私が明公の命令だからといって礼を曲げてしまえば、それはただの凡庸な人間に過ぎません。そのような者を、明公はお用いになるでしょうか。
原文:合葬,非禮也。原之所以自容於明公,公之所以待原者,以能守訓典而不易也。若聽明公之命,則是凡庸也,明公焉以為哉?
出典:『三国志』魏書 邴原伝
「私があなたに仕えているのは、私が正しい道を守る人間だからです。もしご命令に従って礼を破れば、私はその価値を失います」。この痛烈な正論に、曹操は自らの不明を恥じ、計画を取り止めました。そして、邴原を疎んじるどころか、その節義に感服してさらに重用し、丞相徴事(丞相府の顧問)に任命しました。
曹丕の師として:君か父か
五官将長史への就任
その後、邴原は涼茂の後任として、五官将長史に任命されました。当時、五官中郎将を務めていたのは、曹操の嫡子である曹丕でした。つまり、邴原は次期後継者の筆頭補佐官兼教育係を任されたのです。
曹操からは浮つき欲に溺れてしまいがちな若年層である曹丕に、今まで通り厳しく接してくれるように望まれていたそうです。
曹丕は天下の賓客を招いて盛んに宴会を催しましたが、邴原は「公務以外では外出しない」という厳格な態度を崩さず、浮ついた交流には加わりませんでした。曹丕もまた、この厳格な師に対しては畏敬の念を抱き、決して軽んじることはありませんでした。
究極の問い:父を救うか、君主を救うか
ある日の宴席でのことです。曹丕は座を盛り上げようと、集まった賓客たちに意地悪な難問を投げかけました。
「ここに万病に効く薬が一丸だけあるとする。もし、君主と父親が同時に重病にかかった場合、この薬でどちらを救うべきか?」
儒教の道徳において「忠(君主への忠誠)」と「孝(父への孝行)」は共に最重要の徳目であり、これは究極のジレンマでした。賓客たちは「父です」「いや君主です」と議論を戦わせ、座は騒然となりました。
その時、曹丕は邴原に意見を求めました。邴原は顔色を変えず(あるいは憤然として)、即座に答えました。
父です。
原文:父也。
出典:『三国志』魏書 邴原伝 注引『邴原別伝』
邴原は迷うことなく「父」を選びました。これは「孝」こそが道徳の根本であり、君主への忠誠もまた、家における孝行の延長線上にあるという、彼の確固たる信念の表れでした。
また、当時の曹丕にとっての「君主」は漢の皇帝であると同時に、実質的には父である曹操を指すとも解釈できます。しかし、邴原があえて「父」と言い切ったことで、その場にいた人々は彼のぶれない道徳心に圧倒され、曹丕もそれ以上反論することはできませんでした。
死去と評価
213年、曹操が孫権を討伐するため濡須口へ遠征している間に息を引き取りました。享年は不明ですが、もとより彼は病気がちで家にこもることが多かったと伝えられています。
清廉潔白を貫き、権力におもねらず、常に正道を歩んだ邴原の死は、魏の朝廷にとって大きな損失でした。名士の崔琰はかつて「邴原は徳行・忠義において国にとっての宝(重宝)である」と絶賛しており、その言葉通り、彼は最後まで国の良心であり続けました。
三国志演義との差異
物語から消された賢者
邴原は、正史『三国志』においては管寧・華歆と並ぶ「一龍」として称賛され、曹操・曹丕父子から絶大な信頼を得た重要人物です。しかし、小説『三国志演義』においては、その存在は完全に抹消されています。
『演義』では、太史慈が孔融を助ける場面は描かれますが、そこに邴原が関わったことや、劉政を救ったエピソードは一切登場しません。また、華歆が悪役として、管寧が隠者として描かれる一方で、その中間に位置して「出仕しながらも節義を貫く」という邴原の複雑な立ち位置は、物語のキャラクターとして扱いづらかったのかもしれません。
史実の魏には、邴原のように骨のある儒学者が多数存在し、彼らが政権の正統性を支えていました。彼を知ることは、単なる悪役ではない、多面的な魏の姿を知ることにつながります。
評価
崔琰(魏の高官)
評価:邴原と張範は、共に徳を秉(と)り純粋で美しく、志と行いは忠実で正しい。その清廉で静かな態度は風俗を正すに足り、その貞節で固い意志は政務を幹(と)るに足りる。彼らはまさに「龍の翼、鳳凰の羽」であり、国家の重宝である。
原文:徵事邴原、議郎張範,皆秉德純懿,志行忠方,清靜足以厲俗,貞固足以幹事,所謂龍翰鳳翼,國之重寶。
出典:『三国志』魏書 邴原伝
公孫度(遼東太守)
評価:邴君は、いわゆる雲の中を飛ぶ白鶴である。鶉や鷃(うずら)を捕らえる網で捕まえられるような存在ではない。
原文:邴君所謂雲中白鶴,非鶉鷃之網所能羅矣。
出典:『三国志』魏書 邴原伝 注引『邴原別伝』
張子台への人物評(杜恕の家戒より)
邴原と並び称された張範の弟・張承(張子台)という人物がいました。杜恕(杜畿の子)は彼を評して、「張子台は一見すると素朴な人のようだが、心の中には俗世の価値観(何が美で何が良いか)が存在せず、ただ自然の道と一体化しているようだ」と述べています。
邴原もまた、これに近い「口に選ぶ言葉なく、身に選ぶ行いなし(自然体で過ちがない)」と評される境地に達しており、当時の人々が彼らのような人物をいかに理想視していたかが分かります。
