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陸遜(陸遜)

【三国志ガイド】陸遜 (Lu Xun) – 関羽劉備を葬った「書生」の悲劇的末路

ざっくりまとめ
生没年 183年 〜 245年(享年63)
所属
伯言(はくげん)
役職 丞相大将軍、右都護
一族 妻:孫氏(孫策の娘)、子:陸抗
関係 主君:孫権、好敵手:関羽劉備
参加した主な戦い 夷陵の戦い(総指揮)、石亭の戦い荊州攻略戦
正史と演義の差 ★★★☆☆(「白面書生」や「石兵八陣」は演義の脚色。史実は40代の歴戦の将。)
実在性 実在(『正史』呉書 陸遜伝)
重要度 ★★★★★

陸遜は、の社稷を支えた稀代の名将にして政治家です。関羽を油断させて討ち取り、夷陵の戦いでは劉備の大軍を火攻めで壊滅させ、国の存亡を救いました。軍事と政治の双方で頂点を極め「出将入相(出れば将軍、入れば宰相)」を体現しましたが、晩年は後継者争い(二宮の変)に巻き込まれ、主君・孫権に追い詰められて憤死するという悲劇的な最期を遂げました。

目次

生涯

1. 苦難の少年期と「孫家」への複雑な出仕

陸遜(本名は陸議)は、江東四姓(陸・顧・朱・張)の筆頭格である名門・陸氏の出身です。しかし、その少年時代は血塗られたものでした。
彼の祖父・陸康は後漢の盧江太守として忠義を貫いていましたが、当時勢力を拡大していた袁術と対立。袁術の配下であった孫策孫権の兄)の猛攻を受け、2年に及ぶ凄惨な包囲戦の末に城は陥落し、陸康は病没しました。この戦乱により、陸氏一族の半数以上が飢えと戦火で命を落としたといいます。
生き残った一族を率いて呉郡へと逃げ延びた陸遜は、わずか10代後半で家長としての重責を背負うことになりました。彼にとって孫家とは、本来「祖父を殺し、一族を離散させた仇敵」に近い存在だったのです。

しかし、乱世を生き抜くためには感情よりも現実的な判断が必要でした。203年、江東の支配者となった孫権が人材を募ると、21歳の陸遜はこれに応じて出仕します。私怨を飲み込み、一族の再興と江東の平和のために孫家に仕える道を選んだこの決断こそが、彼の非凡な器量を示しています。
当初は屯田の管理や書記といった地味な役職でしたが、陸遜はここで非凡な才を見せます。長年の悩みの種であった山越(不服従民)の討伐において、単に武力で制圧するだけでなく、降伏した者を兵士として組み込むことで数万の精兵を組織しました。この実績を高く評価した孫権は、陸遜に自らの姪(孫策の娘)を嫁がせ、陸家との和解と連携を決定的なものにしました。

2. 飛躍:関羽討伐と荊州奪還の深謀

219年、荊州を守る関羽が北伐を敢行し、の要衝・樊城を包囲しました。関羽の勢いは凄まじく、曹操が遷都を検討するほどでしたが、これこそがにとって千載一遇の好機でした。
当時、対関羽の前線指揮官であった呂蒙が病気と称して帰国すると、陸遜はその後任として陸口に赴任します。陸遜は呂蒙に対し、「関羽は武勇を誇って他人を侮る癖があります。私が名もなき若輩者であることを利用し、下手に出て油断させれば、容易に背後を突けます」と献策していました。

陸遜は関羽に対し、極端にへりくだった手紙を送ります。「将軍の武勇は古今の英雄をも凌ぎます。私は若輩者で任に堪えませんが、隣国として将軍の威光を頼りにしております」。
この「ファンレター」を読んだ関羽は、陸遜を「無能な書生」と侮り、後方のに対する備えを解いて兵力を北の樊城攻略へ向けてしまいました。
関羽が完全に油断した隙を突き、陸遜は呂蒙と共に電撃作戦を開始します。呂蒙長江沿いの烽火台を無力化して南郡を制圧する一方、陸遜は別働隊を率いて関羽の退路となる要衝(宜都・秭帰)を次々と攻略し、関羽を袋のネズミにしました。
前と後ろを塞がれ、孤立無援となった関羽麦城へ追い詰められ、ついに捕らえられて処刑されました。天下無双の軍神・関羽を葬ったのは、青龍偃月刀ではなく、陸遜の「筆」と「心理戦」だったのです。

3. 頂点:夷陵の戦いと火攻めの真実

221年、関羽の死に激怒した劉備が、の全軍を率いてへ侵攻してきました(夷陵の戦い)。
孫権は、対戦線に主力を割く必要があったため、対戦線の全権を陸遜に委ね大都督に任命しました。しかし、韓当周泰といった古参の猛将たちは、「あんな若造に何ができる」「一族のコネで出世しただけだ」と公然と反発しました。

戦場においても、陸遜は消極的でした。劉備軍の鋭鋒を避けて防塁を閉ざし、半年以上も防御に徹したのです。部下たちは「陸遜は臆病風に吹かれた」と不満を募らせますが、陸遜は動じませんでした。彼は、劉備軍が険しい山間部に長大な陣営(連営)を敷き、夏の暑さと補給難で疲弊する決定的瞬間を待っていたのです。
「今は耐える時だ。必ず勝機は来る」。陸遜は孫権から預かった剣を示し、命令違反者は皇族の孫桓であっても軍法に照らして処罰すると宣言し、緩みかけた軍を引き締めました。

そして222年6月、風向きが変わりました。陸遜は一気に反撃に転じ、大規模な火攻めを敢行します。乾燥した茅(かや)を持った兵士たちが軍の陣営に火を放つと、炎は瞬く間に広がり、四十以上の陣営が灰燼に帰しました。
劉備は命からがら永安(白帝城)へ逃げ込み、軍は壊滅。この一戦で陸遜の名声は天下に轟き、の独立は決定的なものとなりました。彼は勝利に酔うことなく、曹丕が背後を突く気配を見せると即座に軍を反転させ、国の守りを固める冷静さも失いませんでした。

4. 支柱:石亭の戦いと出将入相

夷陵の戦いの後も、陸遜はの支柱であり続けました。228年の石亭の戦いでは、鄱陽太守・周魴の「断髪の偽降計」と連携し、の大司馬・曹休を誘い込んで大破。軍1万余を斬首するという大戦果を挙げました。
229年に孫権皇帝に即位すると、陸遜は上大将軍に任じられ、武官の最高位に上り詰めます。さらに244年には丞相に就任。「出れば将軍として敵を破り、入れば丞相として国を治める(出将入相)」という、臣下として最高の名誉を手にしました。彼は武昌に駐屯しながら、国政全般を取り仕切り、孫権からの信頼も絶大なものがありました。

5. 晩節:二宮の変と憤死

しかし、栄光の絶頂にあった陸遜の晩年は、暗く悲惨なものでした。の宮廷で発生した泥沼の後継者争い、いわゆる「二宮の変」が彼の運命を狂わせます。
孫権の晩年、皇太子・孫和と、その弟・孫覇(魯王)の間で派閥争いが勃発します。儒教的道徳を重んじる陸遜は、「嫡子(孫和)と庶子(孫覇)の区別は明確にすべきです。さもなくば乱の元になります」と、孫和擁護の立場から直言を繰り返しました。

老いて猜疑心の塊となっていた孫権は、これを「陸遜が権力を背景に派閥を作り、皇位継承に介入しようとしている」と邪推しました。孫権は陸遜の甥や部下(顧譚、吾粲など)を次々と流刑・処刑し、陸遜本人に対しても何度も詰問の使者を送り、その忠誠心を否定するような叱責を繰り返しました。
誇り高い陸遜は、生涯を捧げて守り抜いた主君からの理不尽な疑いに耐えられませんでした。245年、憤り(憤恚)のあまり病を発し、失意のうちに憤死しました。享年63。
その死後、家に残された財産は極めて少なく、彼がいかに清廉潔白であったかが証明されました。息子の陸抗孫権に弁明し、孫権が自らの過ちを認めて涙を流すのは、さらに数年後のこととなります。

人物評

陸遜の本質は、常人離れした「忍耐力」と「深謀遠慮」にあります。
祖父を殺した孫策ら孫家に仕える忍耐、関羽に対して媚びへつらう忍耐、夷陵の戦いで味方の嘲笑に耐えて好機を待つ忍耐。彼の勝利は常に、長い我慢の後に訪れる計算し尽くされた爆発的なカウンターでした。

正史』の記述によれば、彼は物静かで、一見すると書生(学者)のような風貌だったといいます。しかし、その内面は極めて剛毅でした。戦場では厳格な規律で軍を統率し、政治の場では皇帝相手でも譲らない信念を持っていました。その剛直さが、皮肉にも晩年の悲劇を招くことになったのです。

三国志演義との差異

夷陵の戦いの「石兵八陣」

三国志演義』第84回では、夷陵の戦いで勝利した陸遜がさらに軍を追撃する際、永安(白帝城)の近くで不思議な殺気に満ちた石積み(魚腹浦)に迷い込みます。
これが諸葛亮が予め設置していた石兵八陣です。突風と波濤の幻術に閉じ込められ、死を覚悟した陸遜ですが、諸葛亮の舅である黄承彦に「好生(生き物を殺生しないこと)」の徳によって導き出されます。
陸遜は「孔明の神機妙算には及ばない」と嘆息し、の来襲を警戒して撤退します。

【史実との違い】
正史には石兵八陣に迷い込む記述はありません。陸遜が撤退したのは、曹丕の背後を狙って軍を動かした気配を察知したためであり、純粋に戦略的な判断でした。演義の演出は、「陸遜は凄いが、死せる孔明はもっと凄い」ということを読者に印象づけるためのフィクションです。

年齢と容姿(白面書生)

演義では、夷陵の戦いの時点で陸遜は「白面書生(色白の若者)」として描かれ、劉備も「乳臭い子供(黄口孺子)」と侮ります。
しかし史実では、この時すでに40歳。孫家に出仕してから20年近くが経過しており、歴戦の将軍としてのキャリアも十分に積んでいました。劉備が彼を軽視したのは「若さ」ゆえではなく、単に「無名(中央での知名度が低い)」だったためと考えられます。

一族

陸氏は江東を代表する四姓(陸・顧・朱・張)の筆頭格であり、の政界に深い根を張っていました。

  • 祖父:陸康
    後漢の盧江太守。忠義に厚い人物でしたが、袁術孫策軍に攻められ憤死。陸遜の人生に暗い影を落としました。
  • 妻:孫氏(孫策の娘)
    孫策の娘であり、孫権の姪。陸遜が孫家の一員として認められた証ですが、同時に「仇の娘」でもあります。二人の夫婦仲についての具体的な記録はありません。
  • 子:陸抗
    陸遜の次男。父の死後、一時的に地位を落としますが、後に才能を発揮して大司馬(軍事トップ)となります。の名将・羊祜との国境を越えた友情(羊陸之交)は有名。父と共に「陸遜・陸抗」と並び称され、衰退するを最後まで支え続けました。

評価

正史の評

評価: 劉備は天下の英雄で誰もが恐れていたが、陸遜は若く(※壮年)無名でありながらこれを撃ち破り、思い通りにならなかったことはなかった。私は陸遜の謀略の奇才ぶりに驚き、また彼の才能を見抜いた孫権にも感嘆する。
出典: 『三国志』呉書 陸遜伝 評
原文: 「劉備天下稱雄,一世所憚,陸遜春秋方壯,威名未著,摧而克之,罔不如志。予既奇遜之謀略,又歎權之識才。」

後世の評価

唐代や宋代においても、陸遜は「古今の名将」の一人として祀られました。しかし、『三国志集解』などの注釈では、晩年の彼を死に追いやった孫権の老害化に対する批判とセットで語られることが多く、その最期は「忠臣の悲劇」の代名詞となっています。

エピソード・逸話

関羽への手紙(謙下自託)

関羽討伐の際、陸遜が送った手紙は、相手のプライドをくすぐる心理戦の傑作として知られています。

評価: 関羽は陸遜の手紙を見て、そこに(陸遜が自分を)謙虚にへりくだって頼ってくる意志を感じ取り、大いに安心し、もはや疑うことをしなかった。
出典: 『三国志』呉書 陸遜伝
原文: 「羽覽遜書,有謙下自託之意,意大安,無復所嫌。」

関羽は「老将(黄忠など)」には敬意を払いましたが、「士大夫(インテリ層)」を軽蔑する傾向がありました。陸遜はそこを逆手に取り、名門出身でありながらあえて「無知な若輩者」を演じることで、軍神の目を欺いたのです。

質素倹約

一国の宰相でありながら、陸遜の生活は驚くほど質素でした。彼が亡くなった時、家には余分な財産がほとんどなく、家族のために残されたものもわずかだったといいます。
これは、彼が私腹を肥やすことに興味がなく、すべてを国家に捧げていたことの証明であり、同時に、清廉潔白すぎて孫権や取り巻きたちに疎まれた一因(賄賂が通じない)かもしれません。

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