郭嘉奉孝:曹操の「孤」を理解し、神算で覇道を切り拓いた夭折の天才
生涯
若き日の洞察と隠遁
郭嘉、字は奉孝。豫州潁川郡陽翟県の出身です。潁川は、後漢末期において荀彧など数多の知識人や名士を輩出した人材の宝庫として知られていますが、郭嘉はその中でも異彩を放つ存在でした。
彼は若くして将来を見通す先見の明を持っていました。漢王朝の権威が失墜し、天下が乱れ始めると、郭嘉は弱冠20歳にして名や身元を隠し、俗世間との交わりを絶ちました。彼は多くの知人と交際することを避け、心を通わせられる少数の英傑たちとのみ交流を持ちました。そのため、当時の世間一般では彼の才能を知る者はほとんどおらず、ただ識者たちだけが、彼が非凡な才能を秘めていることを見抜いていたといいます。
郭嘉は若い頃から遠大な見識を持っていた。漢末、天下が乱れようとすると、彼は弱冠の頃から名前を隠して世俗との交わりを絶ち、ひそかに英傑たちとのみ交流した。ただ見識のある人物だけが、彼を非凡な存在だと認めていた。
原文:嘉少有遠量。漢末天下將亂。自弱冠匿名跡,密交結英俊,不與俗接,故時人多莫知,惟識達者奇之
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝に引く『傅子』
190年頃、反董卓連合軍が結成され群雄割拠の時代が幕を開けると、郭嘉は北方の最大勢力である袁紹のもとを訪れました。当時、袁紹は礼を尽くして賢人を招くという名声を持っており、多くの士大夫が彼に期待を寄せていました。しかし、郭嘉の観察眼は、袁紹という人物の本質を冷徹に見抜いていました。
郭嘉は、袁紹に仕える同郷の辛評と郭図に対し、袁紹の器量について痛烈な評価を下し、その元を去る決意を伝えます。
「袁公(袁紹)は、周の公旦が賢者を礼遇したのをただ真似ようとしているだけで、人を用いる勘所を知りません。思慮は多いが決断力に欠け、事態の好転を図ろうとしても要領を得ません。彼と共に天下の大難を救い、覇王の業を成し遂げるのは難しいでしょう」
原文:袁公徒欲效周公之下士,而未知用人之機。多端寡要,好謀無決,欲與共濟天下大難,定霸王之業,難矣。
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝 注引『傅子』
この言葉を残し、郭嘉は袁紹を見限って去りました。当時、袁紹は冀州を掌握し、日の出の勢いにある大大名でした。その強大な勢力に惑わされず、組織のトップが持つ「決断力の欠如」という致命的な欠陥を見抜き、早々に見切りをつけた郭嘉の慧眼は、後の歴史の展開を予見していたかのようです。その後、郭嘉は再び隠遁生活に入り、その沈黙は6年もの長きに及びました。
運命の邂逅:戯志才の後継者として
196年(建安元年)、歴史の歯車が動きます。当時、曹操は非常に信頼していた策謀の士、戯志才を亡くしました。曹操にとって戯志才の死は痛恨であり、彼は参謀役の荀彧に手紙を送り、その喪失感を吐露するとともに、後任の推挙を依頼します。
「戯志才が亡くなり、もはや共に計略を語り合える者がいない。汝(荀彧)はかつて、南陽の何顒や潁川の郭嘉には奇才があると評していたが、どうだろうか?」
原文:自志才亡後,莫可與計事者。汝、昔稱南陽何顒、潁川郭嘉、有奇才、何如?
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝(一部省略および意訳を含む)
※注:正史の本文では、曹操が「誰か代わりになる者はいないか」と問い、荀彧が郭嘉を推薦したとありますが、上記の手紙の文面は裴松之の注には見えません。一般には荀彧が「郭嘉を推薦した」という事実が重要です。荀彧と郭嘉は同郷(潁川)であり、荀彧は郭嘉の埋もれた才能を誰よりも理解していました。
曹操の招きに応じ、郭嘉は許都(あるいは陣営)を訪れて曹操と面会しました。天下の情勢、覇業を成すための戦略について語り合った二人は、瞬く間に意気投合しました。その会見を終えた直後、曹操は興奮冷めやらぬ様子で周囲に語りました。
「私に大業を成し遂げさせるのは、必ずやこの男だ!」
原文:使孤成大業者,必此人也。
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝
一方、退出した郭嘉もまた、喜びに満ちた様子でこう呟いたといいます。
「真に我が主君だ」
原文:真吾主也。
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝
この瞬間、三国時代を決定づける最強の君臣コンビが誕生しました。曹操は郭嘉を「司空軍祭酒」という役職に任命しました。「祭酒」とは、軍師や参謀の長を意味する重要なポストです。曹操はこの時42歳、郭嘉はこの時27歳。郭嘉は長い沈黙を破り、ついに歴史の表舞台へと躍り出たのです。
曹操は郭嘉を司空軍祭酒(軍事参謀の長官に相当)に任命し、以後、行軍の際には常に同じ馬車に乗り、着座するときは席を並べるほどの寵愛を注ぐことになりました。
劉備への処遇:殺すべきか、生かすべきか
建安2年(197年)、郭嘉が曹操に仕え始めて間もなく、重要な政治判断を迫られる場面が訪れます。徐州を呂布に奪われた劉備が、助けを求めて曹操のもとへ逃げ込んできたのです。
曹操は劉備を賓客として厚遇し、豫州牧に任命しましたが、陣営内では劉備の扱いについて意見が割れました。程昱らは「劉備は英雄の資質があり、人心を得ている。今のうちに殺さなければ、必ず後患となる」と強硬に処断を主張しました。
この時、郭嘉は異なる視点から曹操に進言しました。
「確かに程昱の言う通りです。しかし、公(曹操)は今、義兵を起こして天下の暴乱を除き、信義によって英傑を招こうとしておられます。今、窮して帰服してきた劉備を殺せば、賢人を殺害したという悪名を被ることになります。そうなれば、天下の智者や勇士たちは疑念を抱き、それぞれの主を選んで去ってしまうでしょう。公は誰と共に天下を平定するおつもりですか? 一人の危険を除くために、四海の望みを絶ってはなりません」
原文:有是。然公提劍起義兵,為百姓除暴,推誠仗信以招俊傑,猶懼其未至也。今備有英雄名,以窮歸己而害之,是以害賢為名也。則智士將自疑,回心擇主,公誰與定天下乎?夫除一人之患,以沮四海之望,安危之機,不可不察!
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝 注引『傅子』
曹操は郭嘉の進言を採用し、「その通りだ」と笑って劉備を殺すことはしませんでした。このエピソードは、郭嘉が単なる戦術家ではなく、人材登用や対外的な評判(プロパガンダ)を含めた大局的な戦略眼を持っていたことを示しています。
ただし、史料には異説も存在します。『三国志』魏書・武帝紀の注に引く『魏書』では、逆に郭嘉が「劉備には人心があり、関羽・張飛という猛将がいる。早めに図らなければならぬ」と進言し、曹操がそれを却下したという記述もあります。しかし、後の歴史家(裴松之や孫盛)は、「郭嘉の智略をもってして、劉備の危険性を見抜けないはずがない」としつつも、『傅子』の記述(殺してはならないという論理)の方が、当時の曹操の「英雄を集める」という大方針と合致しており、合理的であると考察しています。
おそらく郭嘉の本心は、「殺すことによる政治的リスク」と「生かしておくことによる軍事的リスク」の両方を天秤にかけ、その時点では前者を回避しつつ、劉備を飼い殺しにしてコントロール下に置くことを最善策と考えたのでしょう。後に劉備が曹操を裏切った際、郭嘉がそれを予見していなかったとは考えにくく、むしろ軟禁策が徹底されなかったことへの悔いが残ったかもしれません。
いずれにせよこのタイミングで殺されなかった劉備は曹操が朝廷に上奏し、宜城亭侯に封じられ、豫州の牧に任命、軍を援助し、劉備は小沛を取り戻しました。
敗北の連鎖と袁紹からの侮辱
建安2年(197年)という年は、曹操にとって試練の年でした。
宛城(えんじょう)において張繍を受け入れたものの、その後の油断から反乱を招き、後継者と目されていた長男の曹昂(そうこう)、甥の曹安民、そして無二の猛将・典韋(てんい)を一度に失うという壊滅的な敗北を喫したのです。
命からがら舞陰(ぶいん)まで撤退した曹操のもとに、追い打ちをかけるような知らせが届きます。北方の覇者・袁紹からの書状でした。
当時、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を北平(ほくへい)へと追い詰め、河北四州(冀州・青州・幽州・并州)の覇権をほぼ手中に収めつつありました。その兵力は十万を超え、漢帝国最強の軍閥として君臨していたのです。
届いた書状の文面は、曹操の敗戦をあからさまに嘲笑し、言葉の端々に傲慢さが滲み出る無礼極まりないものでした。
曹操はこの書状を読み、屈辱に震えました。しかし、それ以上に重くのしかかったのは「無力感」です。
「衆寡(しゅうか)敵せず」。
客観的な戦力差を見れば、今の曹操が袁紹に勝てる見込みは万に一つもないように思えました。自分は井の中の蛙に過ぎないのか……。稀代の英雄である曹操でさえ、この時ばかりは自信を喪失しかけていたと伝えられています。
十勝十敗の論:勝機はどこにあるか
この閉塞感を打破したのが、軍師の郭嘉、および荀彧でした。
郭嘉は、単に「頑張りましょう」と精神論を説いたのではありません。歴史の理(ことわり)と、リーダーシップの本質を分析し、なぜ曹操が勝ち、なぜ袁紹が負けるのかを、論理的に証明してみせたのです。
郭嘉はまず、漢の高祖・劉邦と、楚の覇王・項羽の故事を引きました。
かつて、力と兵数においては項羽が圧倒的でしたが、最終的に天下を統一したのは、知恵と徳を用いた劉邦でした。
「勝敗の行方は兵の多寡(数)ではなく、指導者の『智』と『勇』の質にある」
そう前置きした上で、郭嘉は袁紹には十の敗因があり、曹操には十の勝因があると断言しました。これが世に名高い「十勝十敗」の論です。
- 第一「道」:袁紹は礼儀作法や形式にこだわりすぎますが、殿は自然体で、あるがままに振る舞われます。これが「道(リーダーとしてのあり方)」の勝利です
- 第二「義」:袁紹は朝廷に逆らって動くことがありますが、殿は天子を奉じて、正しい順序で天下を率いています。これが「義(正当性)」の勝利です。
- 第三「治」:今の世は政治が緩んで乱れましたが、袁紹はさらに緩い政治をするため規律がありません。殿は法で厳しく引き締め、上下の秩序を正しています。これが「治(統治手法)」の勝利です。
- 第四「度」:袁紹は表面は寛大に見えますが内実は疑い深く、身内ばかりを使います。殿は内面が明晰で、才能さえあれば遠くの者でも疑わずに使いこなします。これが「度(器量と人事)」の勝利です。
- 第五「謀」:袁紹はあれこれ考えるばかりで決断できず、チャンスを逃します。殿は策が決まれば即座に実行し、臨機応変に対応します。これが「謀(決断力)」の勝利です
- 第六「徳」:袁紹は評判を気取っておべっか使いを集めますが、殿は誠実な心で人に接し、実務能力のある本当の賢者を集めています。これが「徳(人材の質)」の勝利です。)
- 第七「仁」:袁紹は目の前の可哀想な人を見て悲しむだけですが、殿は天下全体を見て、目の届かない場所にまで恩恵を行き渡らせています。これが「仁(慈愛の深さ)」の勝利です。
- 第八「明」:袁紹の部下は権力争いをして悪口を言い合いますが、殿は道理で統率しており、悪口が入り込む隙がありません。これが「明(洞察力)」の勝利です。
- 第九「文」:袁紹は何が正しくて何が悪いのか基準が曖昧ですが、殿は法が明確で、賞罰が徹底されています。これが「文(法と基準)」の勝利です
- 第十「武」:袁紹は兵の数の多さを誇張して脅すだけですが、殿は少ない兵で大軍に勝ち、その用兵術は神業のようです。これが「武(軍事能力)」の勝利です。
(注釈『傅子』)
「これほどの差があるのです。将軍(曹操)が袁紹を倒すことは、決して不可能なことではありません」
郭嘉のこの力強い言葉は、曹操の迷いを完全に払拭しました。曹操は大いに笑い、「私にそこまでの徳があるだろうか」と言いつつも、対袁紹戦への覚悟を固めたのです。
戦略の転換:まず背後を断つ
「勝てる」というマインドセットが整ったところで、次は「どう勝つか」という具体的な戦略フェーズに入ります。
建安3年(198年)、曹操陣営は現実的な地図を広げました。最大の敵は北の袁紹ですが、東の徐州には呂布が居座っており、西には張繍らが割拠しています。
もし袁紹との決戦中に背後を突かれれば、万事休すです。
多くの臣下は「下手に軍を動かして、その隙に袁紹に攻められたらどうするのか」と、二正面作戦のリスクを恐れていました。
しかし郭嘉は、ここで再び冷静な情勢分析(インテリジェンス)を提示します。
「袁紹は北の公孫瓚を攻めており、遠く離れた我々の背後を襲うことはできません。今のうちに東の呂布を討つべきです」
『三国志』魏書 郭嘉伝
郭嘉の分析によれば、
- 袁紹の事情:公孫瓚との戦い(易京の戦い)に手一杯であり、性格的にも背後の敵を残したまま南下するような冒険はしない。
- 呂布の現状:勇猛だが無謀であり、戦うたびに敗れて気力が衰えている。今なら倒せる。
- 放置のリスク:もし呂布を生かしたまま袁紹と対峙すれば、呂布は必ず背後を襲う。それは「心腹の患い(内臓の病気)」のように致命的になる。
つまり、「袁紹と戦うためにこそ、今すぐ袁紹を無視して呂布を叩くべきだ」という逆転の発想です。
この進言は、先ほどの「十勝十敗」で裏付けられた「我々の指導者(曹操)の決断力は袁紹に勝る」という確信があったからこそ、実行に移せるものでした。
曹操はこの策を採用しました。
建安3年(198年)春、以前援助して小沛に入らせた劉備を再び呂布が攻め、曹操は夏侯惇を救援のために派遣しましたが、呂布の配下である高順、張遼(この時はまだ呂布傘下)に撃破され、半年の包囲の後同年9月に陥落しました。
同月、曹操は自ら軍を率いて東征を開始。劉備の軍と合流します。
目的は一つ、三国志屈指の猛将である呂布の息の根を止め、後顧の憂いを完全に断つことです。
ここに、呂布の最期となる「下邳(かひ)の戦い」の幕が上がります。
下邳の戦い:窮地と決断
建安3年(198年)冬、曹操軍は呂布の本拠地である下邳(かひ)を包囲しました。
当初、野戦においては曹操軍が優勢に立ち、呂布軍を城内へと押し込めることに成功しました。しかし、下邳の城は堅固であり、呂布もまた籠城して頑強に抵抗を続けました。
攻防は長期化し、季節は冬を迎えました。連日の攻撃による将兵の疲労は極に達し、寒さと飢えが軍の士気を蝕み始めます。
事態を打開できない曹操の脳裏に、ついに「撤退」の二文字がよぎりました。
「一度軍を引き、態勢を立て直すべきではないか」
曹操が弱気な姿勢を見せ始めたその時、待ったをかけたのが郭嘉と荀攸でした。
郭嘉たちは、撤退論に対して断固反対の立場をとりました。彼らの論拠は、「戦争には『気(士気・勢い)』の勝負という側面がある」という点にありました。
郭嘉は次のように戦況を分析し、曹操を説得しました。
「かつて項羽は七十回余りの戦いに勝ちましたが、一度の失敗で滅びました。それは勇気があっても知略がなかったからです。今、呂布は戦うたびに敗れ、気力は衰え切っています。将軍の力は内外に尽き、その勢いは必ずや敗北へと向かうでしょう。『その鋭気があるうちに攻め、その怠惰に乗じて撃つ』のです。今、呂布の気力はまだ回復していません。急いで攻めれば必ず勝てます」
『三国志』魏書 郭嘉伝
さらに、荀攸と共に具体的な攻略策として「水攻め」を献策しました。
下邳の地形は低湿地であり、付近を流れる沂水(きすい)と泗水(しすい)の流れを堰き止め、城内に流し込めば、堅固な城壁も水に浸かり、敵の戦意をくじくことができると考えたのです。
曹操はこの策を採用し、即座に堤防を築いて川の水を下邳城へと注ぎ込みました。
水攻めにより城内は水浸しとなり、呂布軍は完全に孤立しました。頼みの綱であった袁術からの援軍も来ず、部下の裏切り(侯成・宋憲・魏続らによる)も相次ぎ、ついに呂布は降伏。
郭嘉の読み通り、曹操は呂布を生け捕りにし、参謀の陳宮らと共に処断しました。
こうして郭嘉の進言により、曹操は最大の懸念であった「背後の憂い」を完全に取り除くことに成功したのです。
劉備という火種
呂布滅亡後、曹操は劉備を許都へと伴い、左将軍に任命するなどして厚遇しました。
劉備は当時、領土こそ持っていませんでしたが、その仁徳による名声は高く、関羽・張飛という万人に匹敵する豪傑を従えていました。
この劉備という人物をどう扱うかについて、曹操陣営内部では意見が割れていました。
劉備を生かしておくべきか、それとも排除すべきか。
郭嘉自身がその点についてどう考えていたのかは歴史書により記述が異なるため確実なことはわかりませんが、少なくとも劉備に対しては非常に複雑かつ警戒した態度を取っていたことが、史書の記述から読み取れます。
しかし建安4年(199年)、曹操はこの郭嘉の懸念を見落としてしまいます。
袁術が北上して袁紹と合流しようとした際、曹操はあろうことか劉備に兵を与え、その阻止に向かわせてしまったのです。
当時、郭嘉と程昱は別の任務等で不在か、あるいは即座に進言できる状況になかったと思われますが、この決定を知るや否や、二人は急いで曹操のもとへ駆けつけ、激しく抗議しました。
「劉備を放ってはなりません! 彼は必ず変心します!」
郭嘉たちの予測は的中しました。劉備は袁術を撃退した後、そのまま徐州で刺史の車冑(しゃちゅう)を殺害して独立し、公然と曹操に反旗を翻したのです。
この「劉備の離反」は、後の対袁紹戦(官渡の戦い)において、曹操を再び二正面作戦の危機に陥れることになります。郭嘉にとって、そして曹操にとっても、痛恨の判断ミスであったと言えるでしょう。
怒り狂った曹操は劉備を討つために軍を起こそうと考えましたが、袁紹にその隙を突かれることを懸念して幕臣は反対しました。しかし袁紹と会ったことのある郭嘉は「袁紹は優柔不断で決断力が無いため、迅速に行動できません。今劉備を討つべきです。」と意見し、曹操は郭嘉の意見を採用します。
この分析は、かつて郭嘉が袁紹の下を去る際に指摘した欠点と一致しており、彼の一貫した袁紹観が伺えます。
そして曹操自らが指揮を取る曹操軍は劉備はとても敵わず、徐州を捨て袁紹のもとに逃亡します。
官渡前夜:十勝十敗の説と孫策の急死
建安5年(200年)、曹操はいよいよ袁紹との決戦に向けて軍を北上させ、黄河のほとり(白馬・延津)で対峙しました。これが世にいう官渡の戦いです。
この緊迫した状況下で、再び南から不穏な情報が飛び込んできます。江東の小覇王・孫策が、曹操の本拠地である許都を急襲しようとしている、という噂が流れたのです。
当時、孫策の勢いは凄まじく、江東の諸郡を瞬く間に平定していました。もし曹操軍が北の袁紹に釘付けになっている間に、精強な孫策軍が南から許都を衝けば、漢の朝廷は奪われ、曹操の覇権は崩壊します。
陣営の誰もが動揺し、恐怖しました。「軍の一部を割いて南の守りに回すべきではないか」という議論も持ち上がりました。
しかし、郭嘉だけは全く動じることなく、驚くべき予測を口にします。
「孫策は確かに勇猛ですが、思慮が浅く、備えがありません。軽率に一人で行動することを好みます。私の見立てでは、彼は大軍と戦って敗れるのではなく、きっと匹夫(身分の低い名もなき男)の手にかかって死ぬでしょう」
『三国志』魏書 郭嘉伝
これは、孫策がかつて呉郡太守の許貢を殺害し、その食客たちから恨みを買っているという情報を踏まえた上での、冷徹なプロファイリングでした。
「英雄気取りで警戒心の薄い孫策は、刺客の格好の標的である。わざわざ軍を動かして備える必要はない」と断じたのです。
結果は、まさに郭嘉の言葉通りとなりました。
孫策は長江を渡って北上する直前、狩猟の最中に単独行動をとっていたところを、許貢の食客たちに襲撃されました。その傷がもとで、26歳という若さであっけなくこの世を去ったのです。
神がかり的とも言えるこの予言の的中により、曹操軍は南方の脅威を気にすることなく、全兵力を北の袁紹に向けることができました。
郭嘉のインテリジェンス能力の高さと、敵将の性格を見抜く洞察力が、曹操の危機を救った瞬間でした。
官渡の戦いに郭嘉は従軍しましたが、官渡の戦いでのこれといった活躍は文献には記載されていません。
袁家滅亡:争わせるための「撤退」
202年(建安7年)、官渡の戦いでの敗北から立ち直れぬまま、失意のうちに袁紹が病没しました。巨大なカリスマを失った袁紹軍では、後継者を巡る争いが勃発します。長男の袁譚と、末子で袁紹に溺愛されていた袁尚による骨肉の争いです。
曹操はこの好機に乗じて北進し、黎陽で袁兄弟の軍を破りました。諸将の多くは「この勢いで一気に攻め滅ぼすべきだ」と主張しましたが、郭嘉の意見は正反対でした。彼は、あえて軍を撤退させ、南方の劉表を征伐する姿勢を見せるべきだと進言しました。
「袁紹は二人の息子を深く愛していましたが、後継者を定めていませんでした。今、強力な我々が圧力をかければ、彼らは手を取り合って対抗するでしょう。しかし、我々が退けば、必ずや骨肉の争いを始めます。その変事を待ち、後にこれを討つのが上策です。『南へ向かうと見せかけて、彼らの変化を待つ』のです」
原文:袁紹愛此二子,莫適立也。有郭圖、逢紀為之謀臣,必交鬥其間,還相離也。急之則相持,緩之則爭心生。不如南向荊州若征劉表者,以待其變;變成而後擊之,可一舉定也。
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝
曹操はこの策を採用し、軍を返しました。すると郭嘉の予測通り、外部の脅威が去ったことで袁譚と袁尚は互いに争い始め、冀州は内戦状態に陥りました。袁譚は戦いに敗れ、なんと敵であるはずの曹操に降伏して救援を求めてきました。
曹操は袁譚を支援して袁尚を北へ追いやり、その後に反乱を起こした袁譚も滅ぼしました。郭嘉の「急がば待て」の戦略により、曹操は最小限の労力で、難攻不落と思われた河北の地を平定することに成功したのです。205年までに、冀州・青州・幽州・並州の四州は概ね魏の版図となりました。
烏桓征伐:兵は神速を貴ぶ
河北を追われた袁尚と次男の袁煕は、北方の異民族である烏桓族を頼って逃げ込みました。当時の烏桓の指導者・蹋頓(とうとん)は強力な騎馬軍団を有しており、袁氏に味方して度々辺境を侵していました。
207年(建安12年)、曹操は将来の禍根を断つため、烏桓への遠征を決意します。しかし、陣営の諸将のほとんどがこの遠征に反対しました。彼らが恐れたのは、南方にいる劉表と、その客将となっている劉備の動向でした。
「大軍で北へ遠征し、本拠地の許都が空になれば、劉備は必ず劉表を説得して許都を襲撃するでしょう」というのが諸将の懸念でした。しかし、ここでも郭嘉だけは、劉表の性格と内部事情を深く洞察し、遠征は可能であると断言しました。
「公(曹操)の威信は北方に轟いていますが、烏桓は『遠いから来ないだろう』と油断しています。不意を衝けば必ず勝てます。また、劉表は座談の客(議論ばかりして実行力のない人物)に過ぎません。彼は自分が劉備を御しきれないことを知っています。劉備に重任を与えれば、劉備が主導権を握ることを恐れ、軽んじれば劉備は働きません。たとえ国を空にしても、憂うことはありません」
原文:表,坐談客耳。自知才不足以御備,重任之則恐不能制,輕任之則備不為用,雖虛國遠征,公無憂矣。
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝
この郭嘉の言葉に背中を押され、曹操は北征に踏み切りました。軍が易州に達した時、郭嘉はさらに重要な戦術的アドバイスを行います。
「兵は神速を貴びます。今、千里の遠方から敵を襲おうとしていますが、輜重(食料や物資を積んだ荷車)が多ければ行軍は遅れ、敵に気づかれて備えを固められてしまいます。輜重を捨て、軽騎兵だけで急行し、敵の不意を衝くべきです」
原文:兵貴神速。今千里襲人,輜重多,難以趣利,且彼聞之,必為備;不如留輜重,輕兵兼道以出,掩其不意。
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝
曹操はこの策に従い、全軍の荷物を捨てさせ、軽装の精鋭騎兵だけで昼夜兼行の強行軍を行いました。そして、烏桓の本拠地である柳城(現在の遼寧省朝陽市付近)近くの白狼山で、まだ戦闘態勢を整えていなかった烏桓軍を捕捉しました。
不意を衝かれた烏桓軍は大混乱に陥り、魏軍の名将・張遼らが先陣を切って突撃し、蹋頓を斬り殺しました。こうして、北方の脅威は一掃されました。郭嘉の「兵貴神速(兵は神速を貴ぶ)」という言葉は、後の軍事史においても名言として語り継がれることになります。
天才の早すぎる死
しかし、この過酷な北征は、郭嘉自身の命をも削り取ることになりました。柳城から戻ったあと持病を悪化させ、危篤状態に陥りました。曹操は彼の身を深く案じ、何度も見舞いの使者を送りましたが、その甲斐なく、郭嘉はそのまま息を引き取りました。
時に207年、享年38歳。天下統一を目前にした、あまりにも早すぎる死でした。
曹操の悲しみようは尋常ではありませんでした。彼は葬儀の場で、荀彧らに対して涙ながらに語りました。
「諸君らは私と同年代だが、ただ奉孝(郭嘉)だけが最も若かった。天下が平定された後、彼に後事を託そうと考えていたのに、中道で夭折してしまうとは、これも運命なのか!」
原文:諸君年皆孤輩也,唯奉孝最少。天下事竟,欲以後事屬之,而中年夭折,命也夫!
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝
さらに朝廷に上奏した文面でも、その死を「哀しいかな、痛ましいかな、惜しいかな(哀哉、痛哉、惜哉)」と繰り返し嘆きました。曹操にとって郭嘉は、単なる部下ではなく、自らの思考を完全に理解し、未来を共有できる唯一無二の「知己」だったのです。
赤壁の敗戦と追慕
郭嘉の死から翌年の208年(建安13年)、曹操は天下統一の総仕上げとして、大軍を率いて荊州へ南下しました。しかし、長江の赤壁において、劉備・孫権の連合軍による火攻めに遭い、歴史的な大敗を喫しました(赤壁の戦い)。
命からがら北へ逃げ帰った曹操は、ある時、深く嘆息してこう言いました。
「もし奉孝が生きていたなら、私をこのような目には遭わせなかっただろう」
原文:郭奉孝在,不使孤至此。
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝
また、『傅子』には、曹操が「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」と嘆き、周囲の謀臣たちを沈黙させたという記述もあります。これは、荀彧や程昱といった優れた参謀たちが健在であったにもかかわらず、彼らでさえこの敗戦を防げなかった、郭嘉の不在だけが悔やまれる、という痛烈な比較でもありました。
三国志演義との差異
「遺計」の有無
小説『三国志演義』では、郭嘉は死の間際に曹操へ遺書(遺計)を残したとされています。その内容は、「公孫康は袁兄弟を恐れているので、急いで攻めれば彼らは結託しますが、放置すれば必ず公孫康が袁兄弟を殺して首を送ってくるでしょう」というものです。演義では、曹操がこの遺言通りに軍を留めた結果、実際に首が送られてくるという展開になり、郭嘉の神算が死後も機能した演出がなされています。
しかし、史実(正史)において、公孫康が袁兄弟を斬ったのは事実ですが、郭嘉がそれを具体的に「遺計」として残したという記述はありません。ただし、前述の「二袁を争わせるために撤退する」という策と論理構成が似ているため、演義の作者が郭嘉の智謀を強調するために創作、あるいは脚色したエピソードと考えられます。
素行の悪さと曹操の擁護
正史において特筆すべき点として、郭嘉の「素行の悪さ」があります。彼は品行方正な儒教的道徳に縛られず、世間の常識を無視した振る舞いが多かったようです。そのため、規律に厳しい陳羣(ちんぐん)という人物から度々弾劾されました。
陳羣は、郭嘉が朝廷の場でも不品行であるとして、曹操に対して強く処罰を求めました。しかし、曹操は「郭嘉には才能がある」として彼を重用し続け、逆に陳羣の公正さも評価しました。
「陳羣が郭嘉を責めたのは、公正な人物として当然のことである(が、私は郭嘉の才能を愛する)」
出典:『三国志』魏書 郭嘉伝(要約)
このエピソードは、曹操が「唯才(才能さえあれば、道徳的欠点には目をつぶる)」という人材登用方針を貫いていたことを示す好例であり、同時に郭嘉という人物が、聖人君子ではなく、人間味溢れる奔放な天才であったことを伝えています。
評価
陳寿は『三国志』の評において、郭嘉を次のように称えています。
「程昱・郭嘉・董昭・劉曄・蒋済の才略は、いずれも並外れており、荀攸に次ぐものであった。(中略)郭嘉は深く通じており、先見の明があった」
原文:程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蔣濟才策謀略,世之奇士,雖清治德業,殊於荀攸,而籌畫所料,是其倫也。(中略)郭嘉見野。
出典:『三国志』魏書 程郭董劉蔣劉傳 評
陳寿は、郭嘉を荀彧や荀攸といった王佐の才を持つ人物とは区別し、「奇士(並外れた策謀家)」として分類しました。これは、国家のグランドデザインを描く政治家タイプではなく、戦局の急所を一撃で突く戦術・戦略アドバイザーとしての評価でしょう。その短い生涯の中で、彼の策が外れたことは一度もなく、その才気は1800年経った今もなお、鮮烈な輝きを放っています。