生涯
没落した名家の子
零陵の風土と黄氏のルーツ
黄蓋、字は公覆。荊州の南部に位置する零陵郡泉陵県の出身です。
零陵郡は、長江の南、湘水の流域に広がる地域であり、古くから独自の文化圏を形成していました。後漢末期において、この地は中央政界の混乱からは比較的距離を置いていましたが、同時に異民族である「五渓蛮」や「山越」といった勢力と接する辺境の地でもあったのです。このような土地柄は、そこに住む人々に、荒々しい自然環境や異文化との衝突に耐えうる逞しさを育ませたことでしょう。
『三国志』呉書・黄蓋伝によれば、黄蓋の祖先は南陽太守を務めた黄子廉という人物であったとされます。南陽郡は後漢の都・洛陽に近く、皇族や高官を多く輩出した「帝郷」とも呼ばれる最重要地域です。そのような地で太守(長官)を務めるほどの家柄ですから、黄蓋のルーツは紛れもない名門士大夫の家系にあったと言えます。
しかし、歴史の荒波は名家をも容赦なく飲み込みます。黄蓋が生まれた頃には、かつての栄華は見る影もなく失われていました。一族は零落し、南方の零陵へと移り住んでいたのです。さらに不幸なことに、黄蓋は幼くして父親を失います。孤児となった彼は、頼るべき強力な後ろ盾もなく、幼少期から過酷な運命と向き合わねばなりませんでした。
薪を背負い、書を懐に
若き日の黄蓋の生活は、貧困そのものでした。
史書には、彼が「険阻な山道を越え、薪(たきぎ)を背負って労働し、合間に文字を学んだ」という趣旨の記述があります。当時の社会において、名門の血を引く者が肉体労働に従事することは、身分の低下を意味し、屈辱的なことと捉えられる場合もありました。しかし、黄蓋の心の中には、環境に屈しない強靭な意志が宿っていたのです。
彼は日々の糧を得るための過酷な労働に追われながらも、決して自棄になることはありませんでした。それどころか、その胸中には常に「壮志(壮大な志)」を抱き続けていたのです。
黄蓋は、凡百の徒が貧しさに負けて志を捨てる中で、逆にその逆境をバネにしました。彼は労働の合間を縫っては書物を読み、兵法を学びました。
郡吏への登用と孝廉への推挙
腐ることなく研鑽を積んだ黄蓋の才能は、やがて周囲の認めるところとなります。
彼は成長すると郡の役所に出仕し、官吏としてのキャリアをスタートさせました。具体的な職務内容は詳らかではありませんが、当時の郡吏の仕事は、文書行政から治安維持、徴税まで多岐にわたります。黄蓋のような実直かつ胆力のある人物は、現場の実務において欠かせない存在として重宝されたことでしょう。
そして、彼の誠実な働きぶりと学問的素養は、郡の上層部の目に留まりました。彼は「孝廉(こうれん)」に推挙されたのです。
孝廉とは、漢代における官吏登用制度(郷挙里選)の一つであり、「親孝行で清廉潔白な人物」を地方から中央へ推薦する制度です。これは10万人に1人という当時のエリートコースへの登竜門であり、没落した家の孤児であった黄蓋にとって、それは自らの力で家名を再興し、世に出るための最大のチャンスでした。
孝廉に挙げられた黄蓋は、さらに「公府(三公と呼ばれる最高位の大臣の役所)」から招聘を受けました。これは彼が単なる地方の優等生にとどまらず、中央政府レベルでも通用する人材として評価されたことを意味します。
孫堅挙兵:乱世への飛翔
江東の虎・孫堅との邂逅
184年、黄巾の乱が勃発し、後漢王朝の支配体制は音を立てて崩れ始めました。各地で群雄が割拠し、力こそが正義となる時代の到来です。
この動乱の中、後に「江東の虎」と恐れられる英雄・孫堅が歴史の表舞台に登場します。孫堅は揚州の出身でしたが、各地の反乱鎮圧に奔走し、その勇名は天下に轟きつつありました。
長沙太守であった孫堅が義兵を挙げた際、黄蓋はこの英傑に従うことを決意します。『三国志』には「孫堅が義兵を挙げると、黄蓋はこれに従った」と簡潔に記されていますが、この決断こそが黄蓋の運命を決定づけました。
当時、孫堅のもとには程普、韓当、朱治といった、後に呉の建国を支えることになる将軍たちが集結していました。黄蓋もまた、彼らと共に孫堅の覇業を支える「初期メンバー(古参武将)」の一員として加わったのです。
黄蓋が孫堅に惹かれた理由は定かではありませんが、孫堅の持つ圧倒的なカリスマ性と、既存の権威に媚びない野性味あふれる武勇に、自身の抱く「壮志」を重ね合わせたのかもしれません。また、黄蓋自身が零陵という辺境の出身であり、孫堅の軍団が持つ土着的な強さと波長が合った可能性もあります。
董卓討伐戦:死線を越えて
190年、都を掌握し暴政を極める董卓に対し、諸侯が連合して立ち上がりました(反董卓連合軍)。孫堅もまた、袁術の配下としてこの連合に参加し、北上して董卓軍と激突することとなります。
この一連の戦いにおいて、黄蓋の働きは凄まじいものでした。正史の記述(原文)には、彼の勇戦ぶりが鮮烈に描かれています。
甲冑を身にまとい戦場を駆け回り、敵の刃(やいば)を踏み越えて城を攻め落とした。
原文:擐甲周旋,蹈刃屠城。
出典:『三国志』吳書 黃蓋傳
「擐甲周旋(かんこうしゅうせん)」とは、重い鎧兜を身につけて戦場の最前線を駆け巡ること、「蹈刃屠城(とうじんとじょう)」とは、文字通り敵の白刃の上を踏み越えるような危険を冒して城郭を攻略することを意味します。
このわずか8文字の記述から、黄蓋が決して後方で指揮を執るだけの将ではなく、自ら武器を振るい、血飛沫を浴びながら先陣を切る猛将であったことがわかります。
孫堅軍は陽人の戦いで董卓軍の都督・華雄を討ち取るなど、連合軍の中で唯一とも言える華々しい戦果を挙げましたが、その勝利の陰には、黄蓋ら古参将軍たちの、命を惜しまぬ突撃があったのです。この功績により、黄蓋は「別部司馬(べつぶしば)」に任命されました。これは独立した部隊を率いる指揮官クラスの職であり、彼の実力が軍事面でも高く評価されたことを示しています。
孫堅の死と苦難の時代
しかし、破竹の勢いで進撃していた孫堅軍に悲劇が訪れます。
191年(あるいは192年)、孫堅は劉表配下の黄祖を攻めた際、敵の伏兵による攻撃を受け、戦死してしまったのです。
カリスマ的な指導者を失った孫氏の軍団は、一転して存亡の危機に立たされました。孫堅の遺児である孫策はまだ若く、軍団は孫堅の甥である孫賁が引き継ぎ、一時的に袁術の傘下に入らざるを得なくなりました。
この不遇の時期、黄蓋ら古参の将軍たちがどのような思い過ごしたのかを、史料は多くを語りません。黄蓋にとって、孫堅への忠義は、その息子たちへと継承されるべき絶対的なものでした。彼は、若き虎が牙を研ぎ、再び江東の空へ飛躍するその時を、じっと待ち続けたのです。
江東平定と統治の手腕
小覇王・孫策の進撃
194年頃、20歳の若者に成長した孫策は、袁術に父の軍団の返還を求め、1000人以上の兵を手に入れます。その中には黄蓋を始めとした、程普、韓当、朱治といった古参の武将が含まれていました。
孫策は袁術を離れ、江東(長江下流南岸地域)への進出を開始します。いわゆる「江東平定戦」の始まりです。
黄蓋はこの戦いにおいても、孫策の側近として常につき従いました。孫策の進撃は神速を極め、揚州刺史の劉繇(りゅうよう)や、会稽太守の王朗らを次々と撃破していきました。
黄蓋はこの一連の戦いにおいて、単なる武力による制圧だけでなく、占領地の治安維持や行政組織の再編にも手腕を振るいました。若き孫策の覇気溢れる攻撃力と、黄蓋ら宿将の老練な実務能力が噛み合ったことで、孫氏の勢力は短期間のうちに江東全域を席巻することに成功したのです。
孫権への継承と山越の脅威
200年、江東の覇者となった孫策が急死し、弟の孫権が後を継ぎました。まだ19歳という若さの孫権に対し、内外には不安要素が山積していました。
特に深刻だったのが、領内に割拠する「不服従民(山越)」の存在です。彼らは山岳地帯や険しい地形を拠点とし、中央の支配に従わず、たびたび平地を襲撃しては略奪を行っていました。また、地方の役人たちの中にも、新体制の混乱に乗じて不正を働く者が少なくありませんでした。
孫権は、この困難な局面において、経験豊富な黄蓋を頼りとしました。黄蓋は、情勢が不安定で統治が困難な地域(県)の長官として、次々と派遣されることになります。
彼が赴任した先は、石城(せきじょう)、春穀(しゅんこく)、尋陽(じんよう)など、実に9つの県に及びました。これらはいずれも山越の活動が活発で、治安が極端に悪化している「難治の地」ばかりでした。
行政官・黄蓋の「鉄の規律」
地方官として赴任した黄蓋が最初に行ったのは、武力による鎮圧ではなく、組織内部の引き締めでした。彼は、自身の統治スタイルについて、次のような方針を掲げることにします。
まず、黄蓋は着任すると、その県の実務を担当する二人の掾(えん:役所の属官)を呼び出し、こう告げました。
「私は武官として功績を立ててきた身であり、行政の細かい事務処理(文武)は得意ではない。だから、そうした仕事はすべて君たちに任せたい。君たちが法を守り、職務に励むのであれば、私は何も口出しはしない。しかし、もし不正を行い、私を欺くようなことがあれば、容赦はしない。後で『言われなかった』などと恨まないように」
出典:『三国志』吳書 黃蓋傳(要約)
この言葉を聞いた二人の役人は、「この老将軍は軍事ばかりで事務には疎いようだ。仕事は任せると言っているし、適当にやってもバレないだろう」と高をくくりました。彼らは黄蓋の言葉を表面的に受け取り、裏で文書を改竄したり、賄賂を受け取ったりと、私利私欲を貪るようになったのです。
しかし、これこそが黄蓋の仕掛けた罠であり、彼の人心掌握術でした。
黄蓋は「任せる」と言いつつも、裏では彼らの行動を徹底的に監視し、不正の証拠を逐一集めていたのです。彼が学問を好み、文務にも通じていたことを、役人たちは見抜けていませんでした。
ある日、黄蓋は全役人を招集し、酒食を振る舞いました。宴もたけなわとなった頃、黄蓋は懐から一束の文書を取り出しました。それは、あの二人の役人が行ってきた不正の数々を詳細に記した調査報告書でした。
黄蓋は二人の役人を前に呼び出し、一つ一つの罪状を突きつけました。動かぬ証拠を前に、役人たちは顔面蒼白となり、弁解の言葉もありません。叩頭して命乞いをする彼らに対し、黄蓋は冷ややかに言い放ちました。
「私は以前、君たちに『鞭や杖で罰することはしない』と約束したわけではない。君たちが自ら誓いを破ったのだ」
出典:『三国志』吳書 黃蓋傳(要約)
黄蓋はその場で二人を処刑しました。このあまりに鮮やかで冷徹な処断に、県内の役人たちは震え上がり、二度と不正を行う者はいなくなりました。
この「殺伐とした粛清」のエピソードは、黄蓋が単なる武辺者ではなく、法家のような厳格さと、相手の油断を誘う老獪な知略を併せ持っていたことを示しています。彼の統治により、赴任した9つの県はことごとく平定され、治安は劇的に回復しました。
赤壁の戦い:歴史を変えた決断
曹操の南下と呉の動揺
208年(建安13年)、北方をほぼ平定した曹操は、天下統一の総仕上げとして大軍を率いて南下を開始しました。荊州の牧であった劉表が病死し、後を継いだ劉琮(りゅうそう)が戦わずして降伏したことで、曹操は労せずして長江北岸の要衝と、強力な水軍を手に入れました。
その兵力は公称80万(実数でも20万以上)。対する呉(孫氏)の兵力は数万に過ぎません。圧倒的な戦力差を前に、呉の陣営はパニックに陥りました。重臣の張昭をはじめとする多くの文官たちは「降伏すべき」と主張しましたが、若き君主・孫権は、魯粛や周瑜たちの主戦論を支持し、開戦を決断します。
孫権は周瑜を大都督(総司令官)に、程普を副都督に任命し、3万の精鋭を率いて長江を遡らせました。彼らは、曹操軍に追われて逃げてきた劉備軍と合流し、赤壁(現在の湖北省赤壁市)において、長江を挟んで対峙することになります。
【史実】火攻めの献策と詐降の計
長江の水上で睨み合う両軍ですが、初期の小競り合いでは、水軍の扱いに不慣れな曹操軍に対し、呉の水軍が有利に戦いを進めました。曹操は敗北を避けるため、艦船を鎖や板で連結し、揺れを抑えて「水上の要塞」を築きました(連環の船)。これにより、北方の兵士たちも船酔いすることなく戦えるようになりましたが、機動力は著しく低下しました。
この状況を鋭く観察していたのが、部将として従軍していた老将・黄蓋です。
黄蓋は、敵の布陣に致命的な弱点があることを見抜き、総司令官である周瑜に進言しました。
「敵は多く、味方は少ない今持久戦は難しい。敵軍は船と船を繋ぎ合わせており、これなら火攻めで追い払うことができます」
原文:今寇衆我寡,難與持久。然觀操軍船艦首尾相接,可燒而走也。
出典:『三国志』吳書 周瑜傳
この献策は極めて合理的でした。周瑜はこの策を即座に採用します。
さらに黄蓋は、確実に敵船に接近して火を放つための手段として、「詐降(偽りの降伏)」を提案しました。正面から火船を突っ込ませても、警戒されれば矢の雨を浴びて近づく前に沈められてしまいます。しかし、「降伏する」と偽って接近すれば、敵の警戒を解き、至近距離まで肉薄できるはずです。
ここで黄蓋は、自ら曹操への手紙をしたためました。その内容は、「私は孫氏に長く仕えてきたが、今の情勢を見れば寡兵で大軍に敵うはずがないことは明白だ。周瑜や魯粛のような若造が無謀な戦いを挑んでいるが、私は時勢をわきまえているので、船を率いて曹公(曹操)に帰順したい」というもっともらしいものでした。
曹操は当初疑いましたが、黄蓋のような古参の宿将が降伏してくるとなれば、呉の崩壊は決定的となります。曹操の慢心もあり、この偽りの申し出は受け入れられました。
正史と演義の違い:「苦肉の策」の真偽
ここで小説『三国志演義』における有名なエピソードについて触れておく必要があります。
演義では、この詐降を信じ込ませるために、黄蓋が周瑜と示し合わせて公衆の面前で口論し、棒叩きの刑(苦肉の計)を受けて背中の皮が裂けるほどの重傷を負う、というドラマチックな展開が描かれます。そして、その傷ついた体で闞沢という使者を送り、曹操を信用させるのです。
しかし、正史『三国志』には、黄蓋が棒で打たれたという記述は一切存在しません。
史実の黄蓋は、純粋に戦術眼と文章による説得力で曹操を欺いたのであり、自らの肉体を傷つけるパフォーマンスを行う必要はありませんでした。演義の作者は、黄蓋の「鉄の意志」と「忠誠心」を視覚的に強調するために、この壮絶な「苦肉の策」を創作したと考えられます。史実の黄蓋は、鞭打たれずとも十分に老獪で、知勇兼備の将であったと言えるでしょう。
決戦の夜:紅蓮の炎と老将の災難
決行の日、東南の風が強く吹き始めました。
黄蓋は、蒙衝(もうしょう)と闘艦(とうかん)と呼ばれる数十隻の船を用意しました。船内には薪と枯れ草を山積みにし、燃えやすい油を染み込ませた上で、布で覆ってカモフラージュしました。
黄蓋はこれらの「火船」を率いて、長江を渡り始めました。船団の後ろには、精鋭を乗せた軽装の船(舸)を繋いで牽引させ、突撃の準備を整えます。
長江の中程まで進むと、黄蓋は帆を上げさせました。風を受けた船団は、矢のような速さで対岸の曹操軍陣営(烏林)へと迫ります。
曹操軍の将兵は、黄蓋が約束通り降伏してきたと思い込み、指差して「黄蓋が来たぞ!」と喜び合いました。誰も防御の構えを取っていません。
敵陣まであと2里(約800m)ほどの距離に迫った瞬間、黄蓋は合図の火を放ちました。
「火を放て!」
猛烈な風に乗った数十隻の火船は、一瞬にして紅蓮の炎に包まれ、そのまま曹操軍の船団へと突っ込みました。
鎖で繋がれた曹操軍の船は逃げることができず、炎は次々と燃え広がり、あっという間に水上の要塞は火の海と化しました。さらに強風にあおられた火の粉は、岸辺にある曹操軍の陣営(営砦)にも飛び火し、人と馬が焼け死ぬ惨状となりました。
周瑜率いる本隊もこれに呼応して総攻撃を開始し、曹操軍は壊滅的な打撃を受けて敗走しました。黄蓋の「火攻め」は、三国志の歴史を決定づける大勝利をもたらしたのです。
しかし、この乱戦の最中、黄蓋自身にも大きな災難が降りかかっていました。
正史の記述によれば、黄蓋は乱戦の中で流れ矢に当たり、長江の冷たい水に転落してしまいました(あるいは負傷して自軍に救助されました)。
ずぶ濡れになり、重傷を負った黄蓋は、味方の兵士によって救い上げられましたが、誰も彼が将軍の黄蓋であることに気づきませんでした。彼は一般兵の負傷者として扱われ、あろうことか「厠(かわや:トイレ、あるいは兵士の休憩所)」の隅に放置されてしまったのです。
寒さと痛みに震えながら、黄蓋は最後の力を振り絞って大声で叫びました。
「韓当! 公覆(黄蓋)はここだ!」
幸運なことに、近くを通りかかった盟友の韓当がその声を聞きつけました。韓当が駆け寄ると、そこには変わり果てた姿の黄蓋がいました。韓当は涙を流して衣服を着せかけ、すぐに手当てを行わせました。おかげで黄蓋は一命を取り留めることができたのです。
天下を分けた大英雄が、直後にトイレに放置されるというこのエピソードは、戦争の混沌とリアリティを今に伝えています。
南征と晩年の武勲
武陵太守への就任と「城門開放の計」
赤壁の戦いの後、黄蓋は武鋒中郎将に昇進しました。しかし、彼の戦いはまだ終わりません。
荊州南部の平定戦において、武陵郡で蛮族(異民族)による反乱が発生し、城が攻め落とされるという事態が起きました。孫権は、かつて山越討伐で実績のある黄蓋を武陵太守に任命し、事態の収拾を命じました。
黄蓋が現地に着任した時、手元にはわずか500人の兵しかいませんでした。これに対し、敵対する蛮族の勢力は数千から万に及ぶと言われており、まともに戦えば勝ち目はありません。
ほどなくして、蛮族の大軍が城を包囲し始めました。城内の兵士たちは恐怖に震えましたが、黄蓋は慌てることなく、ある策を講じました。
彼は城門を固く閉ざして守りを固めるのではなく、逆に「城門を開け放った」のです。
敵軍が「守備兵が少ないから諦めたのか?」と油断し、半分ほど城内に入ってきた瞬間を見計らい、黄蓋は隠しておいた精鋭部隊に突撃を命じました。
狭い城内で不意を突かれた敵軍は大混乱に陥り、先頭の数百人が瞬く間に斬り殺されました。残りの敵はパニックになって逃げ出し、黄蓋はこれを追撃して反乱軍の首領を討ち取りました。
この鮮やかな戦術は、かつて山越討伐で見せた手腕の再現であり、黄蓋の用兵がいかに変幻自在であったかを物語っています。
長沙の平定と最期
武陵を平定した後、今度は隣接する長沙郡の益陽県でも反乱が起きました。黄蓋はここでも自ら軍を率いて討伐に向かい、首謀者を処刑して平定しました。
彼は反乱を鎮圧した後、その地方の指導者たちと会い、理を説いて従わせました。黄蓋の武勇と徳に感服した現地の人々は、彼に牛や酒を贈って感謝を示したといいます。
この功績により、黄蓋は偏将軍に昇進しました。しかし、長年の激闘と高齢が彼の体を蝕んでいたのでしょう。官職にあるまま、病によってこの世を去りました。
没年は不詳ですが、赤壁(208年)の後の南征で活躍し、その後に亡くなったことから、210年代の前半から中頃であったと推測されます。
孫権は黄蓋の死を深く惜しみ、彼の息子である黄柄に関内侯の爵位を与えて、その功績に報いました。
一族
黄蓋の血縁関係については、正史『三国志』およびその注釈においても、詳細な記述は多くありません。しかし、彼の死後にその功績が評価され、子孫が取り立てられたことが記録されています。
黄柄(こうへい)
黄蓋の息子です。黄蓋が亡くなった後、孫権はその長年の功績を追憶し、黄柄を「関内侯(かんないこう)」に封じました。関内侯は、領地を持たないものの爵位としては高く、功臣の子孫に対する名誉ある待遇です。これにより、かつて没落していた黄氏は、黄蓋の奮闘によって再び名誉を取り戻したと言えるでしょう。
その他の一族
史料には黄柄以外の家族や親族についての具体的な記述は見当たりません。しかし、黄蓋が零陵郡の出身であり、祖先が南陽太守を務めた黄子廉であることから、荊州南部には彼の一族や縁者がいた可能性があります。
黄香の子、黄瓊(後漢の三公、九卿)はある程度有名ですが、その家の傍流という説もあります。
貧しく父を失った家の子がすんなり孝廉に推挙されるというのはなかなか難しいので、かなりの上流階級の一族だったという可能性が高いのかもしれません。
評価
陳寿の評
『三国志』の著者・陳寿は、黄蓋を程普・韓当・蒋欽・周泰らと共に一つの巻(呉書十)にまとめ、次のように評しています。
「彼らはみな、江東の虎臣(勇猛な家臣)であり、孫氏の厚遇を受けて勲功を立てた」
原文:凡此諸將,皆江表之虎臣,孫氏之所厚待也。
出典:『三国志』吳書 評
黄蓋は、華々しい一騎打ちや派手な言動こそ少ないものの、その生涯を通じて「不言実行」を貫いた人物でした。貧困の中から這い上がり、三代の主君に忠義を尽くし、内政では厳格な法治を、戦場では大胆不敵な奇策を用いた「万能の宿将」。それが史実における黄蓋の姿です。
特に赤壁の戦いにおける彼の決断と行動がなければ、現在の「三国志」の歴史は存在しなかったかもしれません。長江を染めた紅蓮の炎は、彼の内に秘めた情熱そのものであったと言えるでしょう。