【三国志ガイド】孫権 (Sun Quan) – 江東の碧眼児、守成の名君か晩節を汚した老害か
生涯
突然の継承と「江東」の重圧
孫権の人生は、19歳という若さでの突然の家督継承から始まりました。200年、父に続いて兄・孫策が暗殺されるという悲劇に見舞われます。
当時、呉(江東)の基盤はまだ脆弱で、内部には不穏分子が、外部には曹操の脅威が迫っていました。孫策は死の間際、「軍勢を率いて天下を争うならお前は私に及ばないが、賢者を任用して江東を守るなら私はお前に及ばない」と言い残しました。
この言葉通り、孫権は張昭を師とし、周瑜・程普・魯粛といった兄の代からの古参たちを巧みに束ね上げ、動揺する国内を鎮撫することに成功します。若くして「守成(国を守り抜く)」の才能を開花させたのです。
赤壁の決断と「天下三分」への道
208年、華北を統一した曹操が数十万の大軍を率いて南下を開始しました。朝廷内では張昭ら文官を中心に「降伏論」が圧倒的でしたが、孫権の内心は揺れ動いていました。
彼は魯粛の「降伏すれば我々は生き残れますが、殿下はどうなりますか?」という言葉と、戦線から戻った周瑜の勝算を聞き、ついに机を刀で切りつけて「これ以上降伏を口にする者は斬る」と開戦を決断します。
結果として赤壁の戦いで歴史的勝利を収め、魏の天下統一を阻止。その後、劉備に荊州の一部を貸し与えて同盟を強化し、三国鼎立の形を作り上げました。
同盟の破綻と荊州奪還の野望
しかし、孫権にとって劉備は頼もしい味方であると同時に、長江上流を扼する危険な隣人でもありました。「劉備が蜀(益州)を得たら荊州を返す」という約束が反故にされると、両者の関係は冷え込みます。
219年、関羽が北伐のために荊州の守りを薄くした隙を突き、孫権は呂蒙・陸遜を用いて背後を急襲。関羽を討ち取り、悲願であった荊州全土の奪還に成功しました。
これにより蜀との同盟は決裂しましたが、続く222年の夷陵の戦いでも陸遜を抜擢して劉備の大軍を撃破。魏に対しても、合肥の戦いなどで一進一退の攻防を続けながら、独立を保ちました。
皇帝即位と晩節の汚点「二宮の変」
229年、孫権はついに皇帝に即位し、建業を都としました。その治世は半世紀に及びましたが、晩年は悲惨なものでした。
最愛の皇太子・孫登が早世すると、三男の孫和と四男の孫覇の間で後継者争いが勃発します(二宮の変)。老いて判断力を失った孫権は、この争いを調停するどころか、讒言を信じて陸遜ら多くの忠臣を処刑・追放し、国力を著しく疲弊させました。
最終的に幼い末子の孫亮を後継者にしましたが、252年、混乱の種を残したまま崩御。その死は、呉の滅亡への序曲となりました。
人物評
孫権は「人を用いる才能」においては三国随一と評されます。
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜といった全くタイプの異なる司令官を次々と抜擢し、彼らに全権を委ねて才能を開花させました。曹操でさえも「息子を持つなら孫仲謀(孫権)のような人物が良い」と羨んだほどです。
一方で、軍事指揮官としての能力は凡庸で、特に攻城戦が大の苦手でした。合肥の戦いでは張遼に惨敗して命からがら逃げ出し、「孫十万(十万の兵を率いて数百人に負けた)」という不名誉なあだ名で後世まで嘲笑されることになります。
三国志演義との差異
碧眼紫髯(へきがんしぜん)
『三国志演義』では、孫権は「碧い(青い)目と紫の髭」を持つ、エキゾチックな容貌の持ち主として描かれます。
これは彼の非凡さを強調するための講談的な演出であり、正史には「方頤大口(角張った顎と大きな口)」といった記述はありますが、目の色に関する言及はありません。
合肥でのジャンプ
合肥で張遼に追いつめられた際、演義では谷を馬で飛び越えて逃げるシーン(的盧の檀渓飛躍のオマージュ)が描かれますが、これは創作です。
正史では、橋が破壊されていたため、側近の谷利が馬の後ろから鞭を入れて勢いよくジャンプさせた、という記述があります。
一族
孫氏は春秋時代の兵法家・孫武の末裔とも称されます。
- 父:孫堅
江東の虎。孫権の武勇の源流ですが、志半ばで戦死しました。 - 兄:孫策
小覇王。孫権に地盤を残しました。 - 妹:孫尚香(孫夫人)
政略結婚で劉備に嫁ぎました。演義では武芸を好む男勝りの女性として描かれます。 - 子:孫登、孫和、孫覇、孫亮、孫休など
多くの息子がいましたが、二宮の変により骨肉の争いを演じました。
評価
正史の評
解説: 孫権は身を屈して恥を忍び、才能ある者を任用して計略を尊んだ。勾践(こうせん)のような非凡さと、英雄としての傑出した資質を持っていた。それゆえに江東を支配し、三国鼎立の覇業を成し遂げることができた。
出典: 『三国志』呉書 呉主伝 評
原文: 「孫權屈身忍辱,任才尚計,有勾踐之奇,英人之傑矣。故能自擅江表,成鼎峙之業。」
晩年への批判
解説: しかし晩年、老いて耄碌(もうろく)し、志が乱れ、讒言を聞き入れて人を殺戮し、後継者を廃嫡したのは、いわゆる「平らな道を捨てて、険しい道を行く」ようなものであった。子孫が安全でいられるはずがない。
出典: 『三国志』呉書 呉主伝 評
原文: 「至于晚年,老而智昏,與之言亂,遂致讒說,殺戮立廢,所謂捨安而就危,去順而即逆者也。其後葉陵遲,遂致覆國,未必不由此也。」
エピソード・逸話
酒癖の悪さ
孫権は酒宴を好みましたが、酒癖が悪く、酔って部下に無理難題を吹っかけることが度々ありました。
虞翻が酔い潰れたふりをしたのを見て激怒し、剣を抜いて斬り殺そうとしたり、酒を飲まない張昭の家に火をかけて炙り出そうとしたり(張昭は動じなかったため、孫権が謝罪消火した)という、君主らしからぬエピソードも残っています。
合肥のトラウマ
合肥の戦いでの敗北は孫権にとって深いトラウマでした。魏では「張遼が来るぞ」と言うと泣く子も黙ると言われましたが、孫権自身も晩年まで合肥方面への進軍には慎重になり続けました。