【三国志ガイド】孫権 (Sun Quan) – 江東の碧眼児、守成の名君か晩節を汚した老害か
| 生没年 | 182年 〜 252年(享年71) |
|---|---|
| 所属 | 呉 |
| 字 | 仲謀(ちゅうぼう) |
| 役職 | 皇帝(呉大帝)、車騎将軍、討虜将軍 |
| 一族 | 父:孫堅、兄:孫策、妹:孫尚香 |
| 関係 | 宿敵:曹操、盟友/敵:劉備 |
| 参加した主な戦い | 赤壁の戦い、合肥の戦い、夷陵の戦い(総指揮) |
| 正史と演義の差 | ★★☆☆☆(容姿の「碧眼紫髯」は演義や講談の創作。性格描写は大筋で一致。) |
| 実在性 | 実在(『正史』呉書 呉主伝) |
| 重要度 | ★★★★★ |
孫権は、魏・蜀・呉の三国鼎立時代の一角を担った、呉の初代皇帝です。父・孫堅と兄・孫策の基盤を受け継ぎ、周瑜や陸遜ら名臣を用いて長江の防衛線を死守しました。若き日は「守成の名君」と称えられましたが、晩年は老いによる猜疑心から後継者争い(二宮の変)を招き、国を大混乱に陥れました。
生涯
1. 継承:混乱の中での船出
偉大すぎる兄の死と19歳の当主
200年、江東の地に激震が走りました。「小覇王」と恐れられ、破竹の勢いで勢力を拡大していた孫策が、狩猟中に刺客に襲われ、26歳という若さで急逝したのです。
後継者に指名されたのは、弟の孫権でした。当時19歳。父や兄のように戦場で武功を挙げた経験も乏しく、家中には動揺が広がりました。
孫権は兄の遺体に取りすがって泣くばかりでしたが、それを叱り飛ばしたのが重臣の張昭でした。「今は泣いている場合ではありません。狼たちが獲物を狙っているのです」。張昭は孫権に軍服を着せ、馬に乗せて巡回させ、彼が新たな主君であることを内外に示しました。
「江東」という不安定な地盤
当時の揚州(江東)は、孫策が武力で強引に平定したばかりの土地であり、決して盤石ではありませんでした。
内陸部には不服従の山越族が割拠し、地方には孫家に反感を持つ豪族が潜伏し、さらに北からは官渡の戦いを制しつつある曹操の圧力が迫っていました。
孫権は、兄の遺言である「江東の衆を率いて天下を争うなら私に及ばないが、賢者を任用して江東を保つならお前の方が優れている」という言葉を胸に、周瑜・程普といった武断派の将軍たちに対し、謙虚に教えを請う姿勢を貫きました。この「人の意見を聞く力」こそが、孫権が若くして国をまとめ上げられた最大の要因でした。
2. 決断:赤壁の戦いと天下三分
父の仇・黄祖討伐
体制を固めた孫権は、203年から208年にかけて、父・孫堅の仇であり、荊州への玄関口である江夏太守・黄祖を執拗に攻撃しました。
これは単なる復讐ではなく、長江上流への進出路を確保するための必須戦略でした。208年、甘寧や呂蒙の活躍によりついに黄祖を討ち取り、長江中流域への橋頭堡を築きます。
降伏か、開戦か
同年冬、華北を統一した曹操が南下を開始。荊州の劉表勢力を無血で吸収し、その矛先を江東へと向けました。「水陸80万」と号する大軍に対し、呉の朝廷は恐怖に包まれます。
張昭をはじめとする文官のほとんどが「降伏して民を守るべき」と主張する中、孫権は苦悩しました。降伏すれば、自分はどうなるのか。
その迷いを断ち切ったのは、魯粛と周瑜でした。魯粛は「臣下は降伏しても昇進できますが、殿下は降伏したらどこへ行かれるのですか?」と君主としての矜持を問い、周瑜は「曹操軍は北方の兵で水戦に不慣れであり、疫病も抱えている」と勝算を説きました。
覚悟を決めた孫権は、群臣の前で机を刀で切りつけ、「これ以上降伏を口にする者は斬る!」と一喝。劉備と同盟を結び、開戦を決断しました。
結果、赤壁の戦いでの大勝により、曹操の天下統一は阻止され、孫権の名声は不動のものとなりました。
3. 葛藤:同盟の破綻と荊州奪還
「貸した荊州」を巡る冷戦
赤壁の後、孫権は同盟維持のために、占領した荊州の南郡を劉備に貸与し、妹の孫尚香を嫁がせました。しかし、劉備が益州(蜀)を得た後も荊州を返還せず、あろうことか関羽が長江上流で軍事力を増強し始めると、孫権の忍耐は限界に達します。
「荊州を抑えられれば、呉の喉元に刃を突きつけられているのと同じだ」。
孫権にとって、劉備はもはや盟友ではなく、国家存亡の脅威となっていました。
関羽を討つという決断
219年、関羽が北伐のために荊州の守備を薄くし、さらに孫権からの婚姻の申し入れを「虎の娘を犬の子にはやらん」と侮辱して拒絶すると、孫権は決意を固めます。
彼は宿敵であった曹操と極秘に同盟を結び、呂蒙と陸遜を派遣して関羽の背後を急襲させました。荊州の城を次々と無血開城させ、孤立した関羽を捕らえて処刑。
悲願であった荊州全土の奪還に成功しましたが、これは「天下三分の計」の崩壊と、蜀との全面戦争を意味していました。
4. 危機:夷陵の戦いと外交の妙技
二大国との同時対峙
222年、復讐に燃える劉備が蜀の全軍を率いて侵攻してきました(夷陵の戦い)。
この時、孫権は絶体絶命の危機にありました。西からは蜀の大軍が、北からは曹操の後を継いだ曹丕(魏)が、隙あらば攻め込もうと軍を動かしていたのです。
孫権はここで老獪な外交手腕を発揮します。曹丕に対しては「臣下」としての礼をとって「呉王」の称号を受け、北方の安全を一時的に確保。その上で、全戦力を対蜀戦線に集中させました。
陸遜の抜擢と独立
孫権は、無名に近い若手の陸遜を大都督に抜擢しました。古参将軍たちは反発しましたが、孫権は陸遜に自分の剣を持たせ、全権を委ねました。
陸遜が見事に火攻めで蜀軍を壊滅させると、孫権は即座に魏に対して態度を硬化させ、独自の年号「黄武」を制定して事実上の独立を宣言します。
激怒した曹丕が三方面から侵攻してきましたが、孫権は朱桓らを配置してこれを撃退。魏・蜀の二大国を相手に一歩も引かず、独立を保ち続けたこの時期こそ、孫権のキャリアの絶頂期と言えるでしょう。
5. 晩節:老害化と二宮の変
皇帝即位と後継者問題
229年、孫権はついに皇帝に即位し、建業を都としました。しかし、その治世の後半は、前半の輝きが嘘のような暗黒時代となります。
聡明で期待されていた皇太子・孫登が33歳で早世すると、孫権は精神のバランスを崩します。新たな後継者を巡り、三男の孫和(太子)と四男の孫覇(魯王)の間で派閥争いが勃発しました(二宮の変)。
本来であれば君主が裁定を下すべき問題ですが、老いて判断力を失った孫権は、寵愛する娘の全公主らの讒言を信じ込み、孫覇派を増長させ、孫和派を弾圧するという支離滅裂な行動に出ます。
忠臣の死と国の衰退
この内紛に対し、陸遜をはじめとする多くの忠臣が「嫡子を廃してはなりません」と命がけで諫言しました。しかし孫権はこれを聞き入れず、逆に陸遜を何度も叱責して憤死させ、顧雍や張昭の家族までも処罰しました。
最終的に孫和を廃嫡し、孫覇に死を賜り、幼い末子の孫亮を後継者にしましたが、呉の政界には修復不可能な亀裂が残りました。
252年、混乱の種を残したまま71歳で崩御。その死は、呉の衰退と滅亡への決定的な序曲となりました。
人物評
孫権の評価は、前半生と後半生で極端に分かれます。
若き日は「人を用いる才能」において三国随一と評されました。疑い深い曹操や、情に流されやすい劉備とは異なり、彼は部下を全面的に信頼し、失敗してもチャンスを与える度量の広さを持っていました。呂蒙に学問を勧めて名将に育て上げたり、無名の陸遜を抜擢したりした慧眼は、まさに名君と呼ぶにふさわしいものでした。
しかし晩年は、老いによる猜疑心から「独裁者」へと変貌しました。かつて信頼した臣下たちの言葉に耳を貸さず、感情的に処罰を繰り返す姿は、かつての碧眼の英雄の面影はありませんでした。
また、軍事指揮官としての能力は生涯を通じて凡庸でした。特に攻城戦が大の苦手で、合肥の戦いでは十万の軍勢を率いながら張遼ら数百の決死隊に陣営を蹂躙され、命からがら逃げ出す失態を演じています。「孫十万」という不名誉な呼び名は、この時の敗戦に由来します。
三国志演義との差異
碧眼紫髯(へきがんしぜん)
『三国志演義』では、孫権は「碧い(青い)目と紫の髭」を持つ、エキゾチックな容貌の持ち主として描かれます。
これは彼の非凡さを強調するための講談的な演出であり、正史には「方頤大口(角張った顎と大きな口)」、「目有精光(目に精光あり)」といった記述はありますが、目の色に関する具体的な言及はありません。
合肥でのジャンプ
合肥で張遼に追いつめられた際、演義では谷を馬で飛び越えて逃げるシーン(的盧の檀渓飛躍のオマージュ)が描かれますが、これは創作です。
正史では、橋が破壊されていたため、側近の谷利が馬の後ろから鞭を入れて勢いよくジャンプさせた、という記述があります。また、演義では太史慈がこの戦いで戦死したことになっていますが、史実の太史慈はその数年前に病死しています。
一族
孫氏は春秋時代の兵法家・孫武の末裔とも称されます。
- 父:孫堅
江東の虎。孫権の武勇の源流ですが、志半ばで戦死しました。 - 兄:孫策
小覇王。孫権に地盤を残しました。「軍事で天下を争う」兄と「賢を用いて国を保つ」弟という役割分担がなされていました。 - 妹:孫尚香(孫夫人)
政略結婚で劉備に嫁ぎました。演義では武芸を好む男勝りの女性として描かれますが、史実でも武装した侍女を侍らせるなど激しい気性の持ち主だったようです。 - 子:孫登、孫和、孫覇、孫亮、孫休など
多くの息子がいましたが、二宮の変により骨肉の争いを演じ、呉の皇室は血で染まりました。
評価
正史の評
評価: 孫権は身を屈して恥を忍び、才能ある者を任用して計略を尊んだ。勾践(こうせん)のような非凡さと、英雄としての傑出した資質を持っていた。それゆえに江東を支配し、三国鼎立の覇業を成し遂げることができた。
出典: 『三国志』呉書 呉主伝 評
原文: 「孫權屈身忍辱,任才尚計,有勾踐之奇,英人之傑矣。故能自擅江表,成鼎峙之業。」
晩年への批判
評価: しかし晩年、老いて耄碌(もうろく)し、志が乱れ、讒言を聞き入れて人を殺戮し、後継者を廃嫡したのは、いわゆる「平らな道を捨てて、険しい道を行く」ようなものであった。子孫が安全でいられるはずがない。
出典: 『三国志』呉書 呉主伝 評
原文: 「至于晚年,老而智昏,與之言亂,遂致讒說,殺戮立廢,所謂捨安而就危,去順而即逆者也。其後葉陵遲,遂致覆國,未必不由此也。」
エピソード・逸話
酒癖の悪さ
孫権は酒宴を好みましたが、酒癖が悪く、酔って部下に無理難題を吹っかけることが度々ありました。
虞翻が酔い潰れたふりをしたのを見て激怒し、剣を抜いて斬り殺そうとしたり、酒を飲まない張昭の家に火をかけて炙り出そうとしたり(張昭は動じなかったため、孫権が謝罪消火した)という、君主らしからぬエピソードも残っています。彼は酔いが覚めると深く反省するのですが、また同じことを繰り返しました。
合肥のトラウマ
合肥の戦いでの敗北は孫権にとって深いトラウマでした。魏では「張遼が来るぞ」と言うと泣く子も黙ると言われましたが、孫権自身も晩年まで合肥方面への進軍には慎重になり続けました。晩年、死の床についた際も、合肥での敗戦の悪夢にうなされたという伝承すらあるほどです。