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周瑜(しゅうゆ)

周瑜 (Zhou Yu) – 天が二物を与えた「美周郎」、赤壁の勝者

ざっくりまとめ
生没年 175年 〜 210年(享年36)
所属
公瑾(こうきん)
役職 偏将軍、南郡太守
一族 妻:小喬、子:周循周胤
関係 義兄弟/主君:孫策、主君:孫権、副官:程普
参加した主な戦い 赤壁の戦い(総指揮)、江陵の戦い呉郡平定戦
正史と演義の差 ★★★☆☆(演義では「孔明に嫉妬して憤死する狭量な男」だが、史実は「雅量高致」と称えられた寛大な完璧超人。)
実在性 実在(『正史』呉書 周瑜伝)
重要度 ★★★★★

周瑜は、の建国を支えた最高司令官であり、赤壁の戦い曹操の大軍を撃破した英雄。孫策とは「断金の交わり」を結んだ義兄弟であり、孫権の代には軍事の全権を任された。容姿端麗で音楽にも精通し「美周郎」と呼ばれたが、天下統一の構想(天下二分の計)の半ばにして、36歳の若さで病没した。

目次

生涯

1. 運命の出会いと「断金の交わり」

周瑜は揚州廬江郡の名門・周氏の出身です。一族からは後漢の三公(最高位の大臣)を二人も輩出しており、まさにエリート中のエリートでした。
少年時代、彼は後に「小覇王」と呼ばれることになる孫策と出会います。同い年であった二人は瞬く間に意気投合し、周瑜は自宅の大きな屋敷を孫策一家に提供して家族同然の付き合いをしました。この固い絆を、金属をも断ち切る友情になぞらえて「断金の交わり」と呼びます。

孫策が江東制圧の兵を挙げると、周瑜は叔父の元を訪れるという名目で兵士と糧食を集め、孫策の元へ駆けつけました。孫策は「君が来てくれたなら、大事は成ったも同然だ」と喜び、二人は快進撃を続けて江東(の基盤)を平定しました。
この頃、二人は名高い美人姉妹である「二喬」をそれぞれ妻に娶りました(孫策は大喬、周瑜は小喬)。若き英雄二人が絶世の美女姉妹を娶る姿は、当時の人々にとって憧れの的でした。

2. 孫権への忠誠と「人質拒否」の決断

200年、孫策が急死し、弟の孫権がわずか19歳で後を継ぎました。当時、周瑜は地方の守備に就いていましたが、急報を聞くと兵を率いて葬儀に駆けつけ、そのまま中央に留まって張昭と共に執政を補佐しました。
当時、孫権はまだ実績がなく、将軍たちの中には軽んじる者もいました。しかし、周瑜が率先して臣下の礼をとり、厳格な態度で仕えたため、軍の規律は定まりました。

この頃、華北の覇者となった曹操から「息子を人質として差し出せ」という圧力がかかります。張昭らは迷いましたが、周瑜は孫権に対して断固反対しました。
「人質を送れば曹操の言いなりになり、我々はただの地方官僚に成り下がります。江東の地利と精兵を活かせば、誰にも縛られずに覇業を成せます」。
孫権はこの言葉に勇気づけられ、曹操の要求を拒絶。の独立を守り抜きました。また、この時期に無名だった魯粛の才能を見抜き、貧しい彼に資金援助をして孫権に推挙するなど、人材発掘にも尽力しています。

3. 赤壁の戦い:降伏論を覆す勝算

208年、曹操が数十万の大軍を率いて南下し、荊州を制圧しました。長江を埋め尽くす曹操軍に対し、の朝廷内では「降伏して民を守るべき」という意見が圧倒的多数を占めました。
しかし、前線から戻った周瑜は冷静に分析し、孫権に開戦を説きました。
「曹操軍は北方の兵で水戦に不慣れです。また、冬の寒さと慣れない土地での疲労で、軍中に疫病が発生しています。数が多いといっても実働部隊は少なく、恐れるに足りません」。

周瑜は3万の精兵を率いて、敗走してきた劉備軍と連携し、赤壁で曹操軍と対峙します。ここで部下の黄蓋が提案した「偽装投降からの火攻め」を採用。薪と油を積んだ船を曹操の大船団に突撃させ、猛火で焼き尽くしました。
この歴史的勝利により、曹操の天下統一は阻止され、三国鼎立の形勢が決定づけられました。

4. 南郡争奪と天下二分の計

赤壁の勝利後、周瑜は休むことなく荊州の要衝・南郡(江陵)の攻略に向かいます(江陵の戦い)。
ここを守るの名将・曹仁との戦いは熾烈を極めました。周瑜自身も流れ矢を脇腹に受けて重傷を負いますが、あえて前線に立って味方を鼓舞し、一年近い攻防の末に曹仁を撤退させ、南郡を制圧しました。

周瑜の構想は、ここで終わりではありませんでした。彼は孫権に対し、次のような壮大な戦略(天下二分の計)を提案します。
「私が軍を率いて西の益州(蜀)を攻め取り、さらに北上の漢中を併合します。その後、西方の馬超と同盟を結んで曹操を挟み撃ちにすれば、天下を争うことができます」。
これは、不確定要素である劉備を排除し、長江以南を完全にが制圧してと二分するという計画でした。

孫権はこの計画を承認し、周瑜は遠征の準備に取り掛かります。しかし、益州へ向かう途上の巴丘で、周瑜は突然病に倒れました。長年の戦いによる疲労と、江陵で受けた矢傷が悪化したとも言われています。
自らの死を悟った周瑜は、孫権に遺書を送り、後任として魯粛を推薦しました。
210年、周瑜は36歳という若さでこの世を去りました。孫権はその死を深く悲しみ、皇帝になった後も「公瑾(周瑜)がいなければ、私は帝位にはつけなかっただろう」と語り続けました。

人物評

周瑜は、文武両道、容姿端麗、性格も寛大という、欠点を見つけるのが難しいほどの人物でした。
若い頃から音楽に精通しており、宴席で演奏に少しでも間違いがあると、どんなに酔っていても必ず振り返って奏者を見たといいます。そのため当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く(曲有誤周郎顧)」と噂しました。

また、古参の将軍である程普は、当初若くして高位についた周瑜を侮り、数々の嫌がらせをしました。しかし周瑜は決して争わず、常に謙虚な態度で接し続けました。その度量の大きさに触れた程普は次第に敬服し、「周公瑾と交わると、まるで芳醇な美酒を飲んだように、知らぬ間に心酔してしまう」と語り、心からの協力者となりました。

三国志演義との差異

孔明への嫉妬と憤死

小説『三国志演義』における周瑜は、史実とは正反対の「嫉妬深い狭量な人物」として描かれます。
演義の周瑜は、諸葛亮(孔明)の才能を恐れて何度も暗殺を企てますが、そのたびに看破されて悔しがります。最後は荊州攻略を巡って諸葛亮に出し抜かれ、怒りのあまり古傷が開いて吐血。「天はなぜ周瑜を生みながら、諸葛亮をも生んだのか!(既生瑜、何生亮)」と叫んで憤死します。
これは完全にフィクションであり、史実の周瑜は諸葛亮を意識するどころか、劉備陣営を「曹操に対抗するための駒」程度にしか見ていませんでした。

苦肉の策

赤壁の戦いにおける黄蓋の「苦肉の策(自ら鞭打ちを受けて偽装投降の信憑性を高める)」は、演義の名シーンですが、史実の記述にはありません。
史実では、黄蓋が手紙を送って偽装投降を仕掛けたことは事実ですが、鞭打ちのエピソードは創作です。

一族

周氏は廬江郡の有力豪族でした。

  • 妻:小喬
    絶世の美女姉妹「二喬」の妹。演義では、曹操が二喬を狙って銅雀台に住まわせようとしていると諸葛亮に吹き込まれ、周瑜が開戦を決意するきっかけとなります。
  • 子:周循
    長男。孫権の娘(孫魯班)を妻とし、騎都尉となりましたが、父に似て若くして亡くなりました。
  • 子:周胤
    次男。才能はありましたが素行が悪く、罪を犯して流刑となりました。諸葛謹らの嘆願で許されましたが、直後に病死しました。

評価

陳寿からの評価

評価者: 陳寿
内容: 周瑜と魯粛は建独断の明(独自の判断力と先見の明)を持ち、他人の及ぶところではなかった。
出典: 『三国志』呉書 周瑜伝 評
原文: 「周瑜、魯粛建獨斷之明,出人之意,實奇才也。」

劉備からの評価

評価者: 劉備
内容: 公瑾(周瑜)は文武の才能を備えた英雄である。恐らくは主君の部下として長く大人しくしているような人物ではないだろう。
出典: 『三国志』呉書 周瑜伝(劉備の言葉)
原文: 「公瑾文武籌略,萬人之英,顧其器量廣大,恐不久為人臣耳。」

敵対することになる劉備ですら、周瑜の才能とカリスマ性には畏敬の念を抱いていました。

エピソード・逸話

美周郎の音楽センス

周瑜の音楽の才能に関する逸話は有名で、現在でも「周郎顧(周郎が振り返る)」という言葉は、「音楽を解する人」や「知音(理解者)」を意味する成語として残っています。
戦場での冷徹な指揮官としての顔と、芸術を愛する風流人としての顔。このギャップが、当時の人々のみならず後世のファンをも魅了し続けています。

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