MENU

襄陽

【三国志ガイド】襄陽 (Xiangyang) – 劉備が雌伏し、関羽が夢見た天下のへそ
1. 概要:なぜ全員がここを欲しがったのか?
襄陽(現在の湖北省襄陽市)は、三国志の舞台である中国大陸において「天下のへそ」とも呼ばれる戦略的要衝です。

北の洛陽から南へ下るルートと、西の長安漢中から漢水を下ってくるルートが交差する地点にあり、ここを制する者は南(荊州南部・揚州)へのアクセス権を握ることになります。

そのため、三国志の時代を通じて、北()が攻め、南()が守るという激しい攻防の最前線であり続けました。

2. 歴史:襄陽を彩る三つの時代
劉表の治世と「束の間の平和」 (190-208年)
群雄割拠の時代、この地を治めたのは「荊州の王」こと劉表です。 彼は戦乱の続く中原(北の方)から逃れてきた知識人(名士)や難民を受け入れ、襄陽を学問と文化の中心地として繁栄させました。

この時期、最大の宿敵であった孫堅が襄陽を攻めましたが、劉表配下の江夏太守・黄祖の部下による伏兵で戦死しました(襄陽の戦い)。これにより、(孫家)との血で血を洗う因縁が決定的となりました。

劉備の雌伏と「三顧の礼」 (201-208年)
曹操に敗れた劉備が身を寄せたのも、この襄陽(正確には近郊の新野)でした。 この時期のハイライトは、なんといっても三顧の礼です。襄陽の西にある「隆中」という村に住んでいた諸葛亮を劉備が訪ね、天下三分の計(隆中対)が語られたことで、歴史が大きく動き出しました。

【演義チェック】檀渓の飛躍 『三国志演義』では、劉表配下の軍師・蔡瑁が劉備暗殺を計画。宴席から逃げ出した劉備が、愛馬・的盧に乗って一飛びに檀渓(川)を飛び越える名シーンが描かれます。これは演義の創作ですが、襄陽市内にはその伝説の場所とされる遺跡が残っています。

関羽の北伐と「水の地獄」 (219年)
赤壁の戦い以降、襄陽はの領土となり、名将・曹仁が鉄壁の守りを敷いていました。 219年、荊州を守る関羽が北伐を開始し、襄陽および対岸の樊城を包囲します(樊城の戦い)。

関羽は漢水の増水を利用した水攻めを行い、救援に来た于禁の七軍を壊滅させ、龐徳を捕らえました。曹仁は落城寸前まで追い詰められますが、徐晃の援軍と、同盟国であるの裏切り(呂蒙の襲来)により関羽は敗退。 結果として、襄陽は魏の南進基地として守り抜かれ、関羽は麦城で散ることになります。

3. 観光ガイド:現代の襄陽 (Xiangyang)
現在の湖北省襄陽市は、三国志ファンにとっての聖地です。

襄陽古城壁: 中国でも有数の保存状態を誇る城壁。北側は漢水に面しており、「鉄壁の守り」を肌で感じることができます。

古隆中 (Gulongzhong): 諸葛亮が晴耕雨読していた場所。三顧の礼の舞台であり、巨大な公園として整備されています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次