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公孫瓚(こうそんさん)

ざっくりまとめ
姓名 公孫瓚(公孙瓒 / Gōngsūn Zàn)
字:伯珪(伯圭 / Bóguī)
生没年 ? 〜 199年(享年不明)
所属 後漢(独立軍閥)
役職 前将軍、易侯、幽州の牧
一族 従弟:公孫越公孫範
子:公孫続
関係 学友:劉備、宿敵:袁紹、上司かつ仇敵:劉虞
参加した主な戦い 界橋の戦い、易京の戦い
正史と演義の差 ★★☆☆☆
実在性 実在
重要度 ★★★★★

「白馬義従」と呼ばれる精鋭騎兵を率い、北方異民族を震え上がらせた猛将。劉備の兄弟子であり、彼を世に出した最初のパトロンとしても知られる。見目麗しい容姿と轟くような大音声を持ち、カリスマ性は抜群であったが、晩年は猜疑心に蝕まれ、鉄壁の要塞「易京」に引き籠もって自滅した悲劇の群雄。

公孫瓚

目次

生涯

遼西の美丈夫、乱世に立つ

名門の異端児

公孫瓚は、幽州遼西郡令支(現在の河北省遷安市付近)の人です。彼の公孫氏は、代々二千石(太守クラスの高官)を輩出する地元の名門でしたが、公孫瓚自身の母親は身分が低かったため、一族の中では正当な跡取りとして扱われず、若い頃は不遇をかこっていました。

しかし、天は彼に二つの特異な才能を与えていました。一つは、数百歩先まで響き渡るという朗々たる大音声。もう一つは、誰もが振り返るほどの際立った美貌です。史書『後漢書』や『三国志』には「眉目秀麗で、弁舌がさわやかであった」と記されており、その外見は人々の注目を集めるに十分でした。

彼はその容姿と才覚を武器に、遼西郡の役所で「書佐」という下級役人(文書係)の職を得ました。ある時、太守(郡の長官)が公孫瓚の姿を目にし、その非凡なオーラに衝撃を受けます。「この若者はただ者ではない」と直感した太守は、身分の低い母を持つ彼を差別することなく、自分の娘を公孫瓚の妻として与えました。この逆玉の輿によって、公孫瓚は名門の御曹司としての地位を盤石にし、本格的に学問の道を歩む機会を得ることになったのです。

盧植門下での研鑽と劉備との邂逅

太守の援助を得た公孫瓚は、さらなる高みを目指して遊学の旅に出ます。向かった先は、洛陽に近いケイ陽の山中(現在の河南省)。そこでは、当代きっての儒学者であり、後に黄巾の乱鎮圧でも活躍することになる名将・盧植が私塾を開いていました。

この盧植の門下には、公孫瓚と同郷である涿郡出身の若者も学んでいました。後の蜀漢皇帝、劉備です。公孫瓚は劉備より年長であったため、劉備は彼を兄のように敬い、親密に交わりました。二人は同じ釜の飯を食べ、経書を学び、乱世の予兆を感じ取っていたことでしょう。劉備はこの時、公孫瓚の背中を見て、武人としての生き方やリーダーシップを学んだのかもしれません。

しかし、公孫瓚の本質は学者ではありませんでした。彼は机上の学問よりも、実践的な兵法や武芸に強い関心を示しました。後に劉備が公孫瓚を頼って身を寄せ、公孫瓚が劉備を別部司馬に任命して軍隊を預けたことからも、この時期に築かれた信頼関係がいかに強固なものであったかが伺えます。

北芒山の誓い

学業を終えて故郷に戻った公孫瓚は、再び郡の役人として働き始めます。ところが、彼を引き立ててくれた太守(妻の父とは別の人物とも言われます)が法律に触れ、日南(現在のベトナム)への流罪という重い処分を受けることになりました。

当時の法では、部下が上司の配所に随行することは禁じられていました。しかし公孫瓚は「恩ある君主が遠い異国の地へ追放されるのに、これを見送らぬは人の道に反する」と考え、法を犯してでも同行する決意を固めます。

出発の日、彼は北芒山にある先祖の墓前に立ち、涙ながらに別れを告げました。その際の言葉が史書に残されています。

以前は人の子でありましたが、今は人の臣下となりました。これから(主君に従って)日南へ詣でます。日南は瘴気が多く、恐らく生きては還れないでしょう。それゆえ、ここでご先祖様にお別れを申し上げます。
原文:昔為人子、今為人臣、當詣日南。日南多瘴氣、恐或不還、便與先人辭於此。
出典:『後漢書』公孫瓚伝

そう言って杯を捧げ、悲壮な決意を示しました。その声はあたりに響き渡り、見物していた人々はみな、彼の忠義心と男気に涙したといいます。
結局、道中で恩赦が出たため、公孫瓚は日南まで行かずに済みました。命拾いをして帰還した彼は、その忠節を称賛され、孝廉(官僚への推薦枠)に推挙され、郎(皇帝の近衛官候補)を経て「遼東属国長史」に任じられました。これが、彼が北方の覇者となる第一歩でした。

北境の守護神、修羅の道へ

鮮卑を震撼させた特攻精神

遼東属国長史として赴任した公孫瓚は、北方の国境地帯で鮮卑や烏桓といった騎馬民族と対峙することになります。ある日、彼が数十騎の従者を連れて巡回していたところ、数百騎の鮮卑軍に包囲されるという絶体絶命の危機に陥りました。

敵は圧倒的多数であり、逃げ場はありません。公孫瓚は部下たちを亭(宿場)の中に退避させましたが、包囲は狭まるばかりでした。彼は覚悟を決め、部下たちに告げました。

今、敵陣に突っ込まなければ、我々は皆殺しにされるだけだ。
原文:今不衝之、則死盡矣。
出典:『三国志』魏書 公孫瓚伝

彼は自ら「両刃の矛」を手に取り、雄叫びを上げて敵陣のど真ん中へ突撃しました。リーダーの狂気じみた突撃に触発され、部下たちも死に物狂いで続きます。
公孫瓚は自ら数十人の敵兵を突き殺し、返り血で真っ赤に染まりながら暴れ回りました。彼の部下も半数が戦死しましたが、あまりの凄まじい気迫に恐れをなした鮮卑軍は、ついに包囲を解いて撤退しました。この事件以降、鮮卑の人々は公孫瓚を「悪魔の如き武人」と恐れ、二度と彼を軽んじることはなくなりました。

趙雲との出会いと白馬義従

公孫瓚は、騎馬民族に対抗するために、彼らと同じ機動力を持つ精鋭騎兵部隊を創設しました。彼は白馬を好んだため、部隊全員に白馬を与えました。これが天下に名高い「白馬義従(はくばぎじゅう)」です。公孫瓚自身も数十人の射撃の名手を左右に侍らせ、「白馬長史」という異名で異民族から畏怖されました。

また、この時期、常山郡の真定県から若き豪傑が公孫瓚のもとを訪れました。趙雲、字は子龍です。
当時、冀州の人々はこぞって名門の袁紹を支持していましたが、趙雲はあえて公孫瓚を選びました。公孫瓚が不思議に思って理由を尋ねると、趙雲は、民衆が戦乱に苦しむ中で「仁政を行う君主に従いたい」と自身の志を語ったといいます。

公孫瓚は趙雲を歓迎し、彼を自身の騎兵隊の一員に加えました。この時、公孫瓚の陣営には、客将として劉備も滞在していました。劉備、関羽、張飛、そして趙雲。後に蜀漢を支える英雄たちが、一時的とはいえ、公孫瓚という旗印のもとに集っていたのです。

管子城の悪夢:孤立無援の二百日

187年、張純・張挙の乱が発生すると、公孫瓚はこれを討伐し、石門の戦いで大勝しました。しかし、功を焦った彼は敵を深追いしすぎ、逆に遼西郡の管子城で烏桓軍に完全包囲されてしまいます。

ここから、地獄のような籠城戦が始まりました。包囲は二百日以上にも及び、城内の食糧は尽き果てました。史書には「馬を食らい、ついには馬具の革を煮て食べた」と記されています。飢えと寒さで兵士は次々と倒れましたが、公孫瓚は決して降伏しませんでした。

最終的に、公孫瓚は決死の強行突破を行い、激しい吹雪に紛れて脱出に成功しました。この壮絶な体験は、彼の精神に暗い影を落とします。「他人は当てにならない」「守りを固めることこそ重要だ」という、晩年の偏執的な防衛思想の萌芽は、この管子城の地獄で生まれたのかもしれません。

二人の牧、相容れぬ正義

聖人君子・劉虞の着任

公孫瓚が血で血を洗う戦いを繰り広げていた頃、朝廷は乱れた幽州を立て直すため、皇族の長老である劉虞幽州牧(長官)として派遣しました。

劉虞の統治哲学は、公孫瓚とは正反対でした。「武力は恨みを生むだけだ」と考える彼は、徳をもって異民族を懐柔する「宥和政策」を採用しました。公正な交易を行い、彼らの生活を安定させることで、劉虞は血を流さずに平和を実現しました。鮮卑や烏桓は次々と帰順し、幽州はかつてない繁栄を享受するようになります。

しかし、現場で命を懸けて戦ってきた公孫瓚にとって、劉虞のやり方は「敵に塩を送る」愚策にしか見えませんでした。「野蛮人は叩き潰さねば分からない」と信じる彼は、劉虞の方針に面従腹背の態度を取り、交易を妨害したり、異民族を挑発したりして、露骨に劉虞の足を引っ張り始めました。同じ幽州を統治する二人の対立は、決定的なものとなっていきます。

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