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関羽(かんう)

ざっくりまとめ
生没年 ? 〜 220年(享年不明)
所属
雲長(うんちょう)
役職 前将軍・漢寿亭侯
一族 子:関平関興、娘:関銀屏(演義)
関係 義兄:劉備、義弟:張飛、従者:周倉(演義のみ)
参加した主な戦い 黄巾の乱白馬の戦い赤壁の戦い樊城の戦い
正史と演義の差 ★☆☆☆☆
実在性 実在(正史 関張馬黄趙伝)
重要度 ★★★★★

「義絶(義の極み)」と称され、死後は「関帝」として神にまで祀り上げられたの筆頭将軍。劉備への忠誠心は絶対的で、宿敵である曹操からもその義気を愛された。巨大な青龍偃月刀と赤兎馬を操るその姿は、演義において武神のごとく描かれるが、正史においても「万人の敵」と恐れられた中華最強の武人の一人である。

関羽

目次

生涯

流浪の果てに得た「兄弟」との絆

後漢末期、政治の腐敗と相次ぐ天災により、後漢王朝の命脈が尽きようとしていた時代。司隷の河東郡解県(現在の山西省運城市)に、一人の巨漢がいました。彼の名は関羽、字を雲長といいます(元の字は長生)。

彼の故郷である並州は、北方の異民族と接する荒々しい土地柄です。若き日の関羽に関する記録は多くありませんが、確かなことは彼が「故郷を捨てざるを得なかった」という事実です。地元の悪徳豪族を殺害したためか、あるいは義侠心ゆえのトラブルか、彼は亡命者として幽州の涿郡へと流れ着きます。

運命の交差点となったのは、この北方の地でした。関羽はここで、漢室の末裔を自称しながらも筵(むしろ)を織って暮らす劉備、そして同じく勇猛な荒くれ者である張飛と出会います。演義における桃園の誓いはフィクションですが、正史においても彼らの関係は「恩若兄弟(恩、兄弟の若し)」と記されています。

人が多い場所では、関羽と張飛は常に劉備の後ろに侍立し、終日立っていても疲れを見せなかったといいます。これは単なる主従関係を超えた、死生を共にする運命共同体でした。乱世という荒波を渡るための、最小にして最強のチームがここに結成されたのです。

黄巾の乱と転戦の日々

184年、太平道の教祖・張角が率いる黄巾党が蜂起し、黄巾の乱が勃発すると、関羽は劉備に従って義勇軍を結成し、校尉として戦場を駆け巡りました。

しかし、当時の劉備勢力はあまりにも微弱でした。彼らは北方の公孫瓚の客将となったり、各地の群雄の間を渡り歩いたりと、根無し草のような日々が続きます。関羽は別部司馬として軍を率い、その武勇を少しずつ世に知らしめていきましたが、まだ天下に名を轟かせるほどではありませんでした。

この時期、中央では董卓が暴政を極めていました。演義では、汜水関の戦いにおいて、関羽が董卓軍の猛将・華雄を一刀のもとに斬り捨て、温めた酒が冷める前に戻ってきたという伝説的な活躍が描かれます。さらに虎牢関の戦いでは、最強の武人・呂布相手に三兄弟で挑む「三英戦呂布」というハイライトがありますが、これらは史実ではありません(史実で華雄を討ったのは孫堅です)。

史実における関羽の若き日は、派手な武功というよりも、主君・劉備と共に苦難を耐え抜く「忍耐」の日々だったと言えるでしょう。青州徐州と流れる中で、劉備陶謙から地盤を譲り受けますが、これも長くは続きませんでした。あの「裏切りの達人」呂布に隙を突かれ、本拠地である下邳を奪われてしまったのです。

天下の奸雄・曹操との邂逅

徐州を失った劉備は、かつての敵であった曹操を頼りました。曹操劉備を厚遇し、ともに対呂布戦線へと向かいます。198年、下邳の戦いにおいて、曹操軍は城を水攻めにし、ついに呂布を捕らえて処刑しました。

この戦いの最中、関羽の人間味が垣間見えるエピソードがあります。『蜀記』によれば、下邳の陥落直前、関羽は曹操に対し、呂布の部下である秦宜禄の妻を自分の妻にしたいと何度も懇願しました。あまりに関羽が熱心なため、曹操は「よほどの美人なのだろう」と興味を持ち、落城後にその女性を先に見に行き、なんと自分の側室にしてしまったのです。

関羽はこれを知り、心底不愉快に思ったと伝えられています。禁欲的で神格化されたイメージの強い関羽ですが、彼もまた一人の男であり、こうした生々しい感情を持っていたことは非常に興味深い点です。そしてこの一件は、後の曹操との関係に、少なからず影を落としたかもしれません。

その後、劉備曹操に対して反旗を翻し、徐州の戦いが勃発します。しかし、当時の曹操の勢いは圧倒的でした。劉備は敗走して袁紹のもとへ逃げ込み、下邳を守っていた関羽は逃げ場を失い、曹操に生け捕りにされてしまったのです。

曹操からの偏愛と、揺るがぬ忠誠

捕虜となった関羽に対し、曹操の扱いは破格のものでした。彼は関羽の武勇と「義士」としての人柄を高く評価し、偏将軍に任命して礼遇しました。なんとかして自分の家臣にしたいと熱望したのです。

しかし、関羽の心は動きませんでした。曹操は関羽の気持ちを探るため、関羽と親交のあった張遼にその意向を尋ねさせました。関羽は深い溜息をついてこう答えます。

現代語訳:「曹公(曹操)のご恩が厚いことは重々承知している。しかし、私は劉将軍(劉備)から恩愛を受けており、共に死ぬことを誓った仲なのだ。これに背くことはできない。私は決してここには留まらないが、必ずや手柄を立てて曹公への恩返しをしてから去るつもりだ」
出典:正史書 関羽伝
原文:「吾極知曹公待我厚,然吾受劉將軍厚恩,誓以共死,不可背之。吾終不留,吾要當立效以報曹公乃去。」

張遼から報告を聞いた曹操は、「事君不忘其本、天下義士也(君に仕えてその本を忘れず、天下の義士なり)」と感嘆し、かえって関羽への敬意を深めたといいます。自分の元を去ると公言している部下を、それでも愛さずにはいられない。関羽という男の魅力と、曹操の器の大きさが交錯する名場面です。

白馬の戦い:神速の一撃

200年、北方の覇者・袁紹がついに南下を開始し、官渡の戦いの前哨戦が始まります。その先鋒である猛将・顔良が、白馬の戦いにおいて曹操軍の要衝を攻撃しました。

曹操は、関羽と張遼を先鋒として救援に向かわせました。この時、関羽が見せた武勇は、正史の中でも最も鮮烈な描写の一つです。

戦場に到着した関羽は、遠くに顔良の麾蓋(指揮官のしるしである傘)を認めると、敵の大軍の中に単騎で突入しました。数万の兵がひしめく中、関羽を止められる者は誰一人としていません。彼はまたたく間に顔良の元へ到達し、その首を刺し貫き、首級を斬って持ち帰りました。

「遂に顔良を刺し、その首を斬りて還る。紹の諸将、能く当たる者無し」――これが正史の記述です。一騎討ちですらなく、万軍の中での敵将斬殺。これは中国史全体を見渡しても稀有な武功であり、関羽の武力が当時の中華において隔絶していたことを証明しています。これにより白馬の包囲は解かれ、関羽は「曹公への借りを返した」と判断しました。

千里を駆けて主の元へ

顔良を斬ったことで、関羽は漢寿亭侯に封じられました。しかし、彼の決意は変わりません。劉備袁紹の軍にいることを知った関羽は、曹操から与えられた恩賞の全てに封をして蔵に納め、拝領した馬(『演義』では赤兎馬)に跨り、別れの手紙を残して北へと出奔したのです。

曹操の側近たちは「追撃して処刑すべきです」と進言しましたが、曹操は首を横に振りました。

現代語訳:「彼はおのおのその主のために動いているのだ。追ってはならん」
出典:正史書 関羽伝
原文:「彼各為其主,勿追也。」

こうして関羽は、曹操という当時最大の権力者の庇護を自ら捨て、再び流浪の身となっていた主君・劉備の元へと帰還しました。

演義』においては、この帰還の旅が「関羽千里行(過五関斬六将)」としてドラマチックに描かれます。蔡陽ら立ちはだかる将軍たちを次々と斬り伏せ、義兄弟との再会を果たす活劇です。しかし、史実における「静かなる決別」もまた、関羽の義理堅さと曹操との奇妙な友情を際立たせています。

再会した主従は、再び荊州劉表を頼り、長きにわたる雌伏の時を過ごすことになります。しかし、歴史の激流は彼らを放っておきませんでした。北方を完全に平定した曹操が、いよいよ南征の大軍を起こそうとしていたのです。

荊州の守護神

曹操の元を去り、劉備と再会した関羽でしたが、彼らを待っていたのは安住の地ではありませんでした。荊州の主である劉表劉備を客将として迎え入れ、最前線の新野を任せました。これは信頼の証であると同時に、北から迫る曹操に対する防波堤として利用されたとも言えます。

この新野の地で、関羽にとって、そして後に建国されるにとって運命的な出会いがありました。劉備が「三顧の礼」をもって迎えた天才軍師・諸葛亮(孔明)の登場です。

軍師・孔明への反発と和解

当時、関羽と張飛は、数多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦の猛者でした。そこへ、自分たちより遥かに年下の、実戦経験など皆無の若造が「軍師」として入ってきたのです。しかも、主君である劉備はその若者に心酔し、寝食を共にするほどの入れ込みようです。

「あのような若造に何ができるというのですか」

関羽たちの不満は頂点に達しました。しかし、劉備は彼らを厳しく、かつ優しく諭しました。

現代語訳:「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものなのだ。君たちはどうか文句を言わないでくれ」
出典:正史諸葛亮
原文:「孤之有孔明,猶魚之有水也。願諸君勿復言。」

これが有名な「水魚の交わり」の語源です。正史において関羽が具体的にいつ諸葛亮を認めたかは定かではありませんが、後の赤壁の戦い以降、彼らが連携して荊州を統治した事実を見れば、互いの才幹を認め合う関係になっていったことは間違いありません。

長坂の救援と赤壁の風

208年、劉表が病死すると、後を継いだ劉琮は曹操にあっさりと降伏してしまいます。孤立無援となった劉備は、民を引き連れて南への逃避行を開始しました。いわゆる長坂の戦いです。

この絶体絶命の撤退戦において、関羽は極めて重要な役割を果たしました。彼は数百隻の船を率いて別働隊となり、水路を使って江夏へと向かっていたのです。陸路で曹操の精鋭騎兵部隊(虎豹騎)に追いつかれ、壊滅状態となった劉備本隊と漢津で合流できたのは、まさに関羽の水軍があったからこそでした。

その後、劉備孫権と同盟を結び、長江にて曹操の大軍を迎え撃ちます。これが歴史を決定づけた赤壁の戦いです。

演義』では、敗走する曹操を関羽が華容道で待ち伏せる名場面「華容道の義釈」が描かれます。かつての恩義のために、軍律違反を承知で涙を飲んで曹操を見逃す関羽。「義」を重んじる彼ならではの創作エピソードですが、これは演義における関羽のハイライトの一つです。

史実における関羽は、周瑜らと共に敗走する曹操軍を追撃し、その勝利に貢献しました。そして戦後、劉備荊州の南部四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を平定し、ついに自身の地盤を手に入れます。関羽はこの時、襄陽太守・蕩寇将軍に任じられ、江北の防衛という重責を担うことになりました。

単刀赴会:魯粛との神経戦

211年、劉備劉璋の招きに応じて益州(蜀)へ入ると、関羽は諸葛亮張飛趙雲らと共に荊州の留守を任されました。その後、劉備劉璋の関係が悪化し益州攻略戦が始まると、諸葛亮らも援軍として入蜀。ここに至り、関羽はたった一人で、という二大強国に挟まれた火薬庫・荊州の総司令官となったのです。

この時期、孫権側との関係は悪化の一途をたどっていました。「貸した荊州を返せ」と迫るに対し、関羽は頑として応じません。一触即発の空気の中、行われたのが「単刀赴会」と呼ばれる魯粛との会談です。

演義』では、関羽が青龍偃月刀を持った周倉だけを連れて敵陣に乗り込み、魯粛を震え上がらせる英雄的な場面として描かれます。しかし、正史の記述は少々異なります。

正史『呉書』魯粛伝によれば、魯粛は関羽に対し、堂々たる論陣を張って劉備陣営の不義理を責め立てました。関羽はこれに一言も反論できなかった、あるいは関羽が「これは国家の問題であり、個人の知るところではない」と遮ったところを魯粛が一喝した、と記されています。

どちらが真実であれ、関羽が外交の矢面に立ち、の圧力から荊州を守り抜こうとした緊張感は伝わってきます。彼は武勇だけでなく、極めてデリケートな政治的駆け引きの最前線にも立っていたのです。

威、華夏を震わす

214年、劉備益州を平定。ついに「隆中対(天下三分の計)」が成りました。関羽は荊州の全権を委ねられ、その権威は並ぶ者なきものとなります。

剛直なる矜持と、老兵への対抗心

関羽の性格を象徴するエピソードが、この時期に集中しています。

一つは、西涼の猛将・馬超劉備に降伏した時のこと。関羽は諸葛亮に手紙を送り、「馬超の人物と武勇は誰に匹敵するか」とわざわざ尋ねました。
諸葛亮は関羽の、「自分こそが一番でありたい」という強烈なプライドを見抜いていました。

現代語訳:「馬超は文武を兼ね備えた英雄で、黥布や彭越の徒である。張飛殿と並んで先を争うことはできようが、髭殿(関羽)の絶倫した逸材ぶりには及ばない」
出典:正史書 関羽伝
原文:「孟起兼資文武,雄烈過人,一世之傑,黥、彭之徒,當與益德並驅爭先,猶未及髯之絕倫逸群也。」

この手紙を読んだ関羽は大いに喜び、賓客に見せびらかしたといいます。彼の愛すべき、しかし危うい自尊心が垣間見える瞬間です。

また、劉備が漢中王に即位し、関羽が前将軍に任命された際、同列の後将軍に老将・黄忠が任命されたことに激怒しました。「あのような老いぼれと同列になれるか!私は絶対に拝受しないぞ」と駄々をこねたのです。
これを使者の費詩が「王(劉備)にとって漢中王とあなたは一体ですが、黄忠らはそうではありません」と巧みに説得し、ようやく納得させました。関羽の剛直さは、時に味方との亀裂を生む火種でもありました。

樊城の戦い:神がかりの水攻め

219年、劉備の漢中王即位に呼応するように、関羽は北伐の大軍を起こしました。標的は、の仁王・曹仁が守る樊城の戦い(樊城)です。

関羽軍の勢いは凄まじく、曹仁を城内に完全に封じ込めました。曹操はこれに対し、五将軍筆頭である猛将・于禁と、剛勇で知られる龐徳を援軍として派遣します。七軍(七つの部隊、数万人規模)からなる大軍勢でした。

しかし、天は関羽に味方しました。秋の長雨が降り続き、漢水が氾濫したのです。
関羽はこの天変地異を見逃しませんでした。彼は予め用意していた水軍を展開し、水没して身動きが取れなくなった于禁の七軍を一方的に攻撃しました。

結果は、中国戦史に残る大戦果でした。
歴戦の名将・于禁は降伏して捕虜となり、徹底抗戦を貫いた龐徳は斬首されました。の名だたる将軍たちが、関羽一人の前に屈したのです。

さらに、梁、郾、陸渾といった領内の各地で、関羽に呼応して反乱が勃発。関羽の威光は中原を覆い尽くしました。

現代語訳:「関羽の威は華夏(中華全土)を震わせ、曹操は許都からの遷都さえ議論するほどであった」
出典:正史書 関羽伝
原文:「羽威震華夏,曹公議徙許都以避其鋭。」

「威震華夏(威、華夏を震わす)」。一人の武将に対し、正史がこれほどの表現を使うことは極めて稀です。この瞬間、関羽は名実ともに三国時代の最強の武将として君臨していました。誰もが彼の天下を、そして蜀漢の興隆を信じて疑いませんでした。

しかし、満ちた月が欠けるように、絶頂の影には破滅の足音が忍び寄っていました。背後で、かつての同盟者・孫権と、その知将・呂蒙たちが、静かに関羽の首を狙って動き始めていたのです。

背信の連鎖

樊城の戦い于禁を降し、その威名が頂点に達していた頃、関羽の背後では恐るべき陰謀が進行していました。孫権が、同盟を破棄して曹操と結び、荊州を奪う決断を下したのです。

白衣の渡江と、味方の裏切り

の総司令官・呂蒙は、病気と称して前線を退き、無名の若者であった陸遜を後任に据えました。関羽はこの交代を見て、「呂蒙がいないなら安心だ」と油断し、荊州の留守部隊までも前線へ送ってしまいます。これこそが、陸遜の狙いでした。

守りが薄くなった隙を突き、呂蒙は商人に変装した精鋭部隊(白衣の兵)を指揮して長江を渡り、見張りを音もなく制圧。瞬く間に荊州の防衛拠点を陥落させました。

さらに痛恨だったのは、留守を任されていた味方の裏切りです。南郡太守の糜芳と将軍の士仁は、日頃から関羽に「物資の補給が遅い」と叱責され、「戦が終わったら処罰する」と脅されていました。
恐怖と不満を募らせていた二人は、孫権の誘いに乗り、戦わずして城を明け渡してしまったのです。

崩れゆく軍勢

背後を失ったことを知った関羽は、急ぎ軍を返しました。しかし、時すでに遅し。呂蒙は占領した荊州で、関羽軍の兵士たちの家族を保護し、手厚くもてなしていました。そして、その家族からの手紙を前線の兵士たちに届けさせたのです。

「家族は無事だ、呉軍は乱暴をしていない」

これを知った関羽軍の兵士たちは戦意を喪失し、次々と脱走し始めました。樊城では鬼神の如き強さを誇った軍団が、雪解けのように消滅していったのです。

麦城に散る星

孤立無援の逃避行

軍は四散し、手元に残ったのはわずか数十騎。関羽は益州への撤退を試みますが、退路はすでに軍によって完全に遮断されていました。彼が最後にたどり着いたのは、小さな古城・麦城でした。

麦城にて援軍を待つも、上庸の劉封孟達らが助けに来る気配はありません。食糧も尽き、関羽は包囲網の突破を試みて夜陰に乗じて城を出ました。

関羽の死

219年12月(あるいは220年初頭)、関羽の一行は臨沮(りんしょ)という場所で、の武将・潘璋の部下である馬忠によって待ち伏せを受けました。
赤兎馬を駆り、万軍を蹴散らしてきた天下の豪傑も、ついにここで捕らえられました。息子の関平も共に捕縛されます。

孫権は当初、関羽の才能を惜しんで生かそうと考えたとも言われます。しかし、側近たちが猛反対しました。

現代語訳:「狼の子を飼いならすことはできません。かつて曹操は彼を殺さなかったために、自ら危難を招きました。今ここで断たなければ、必ず後患となります」
出典:正史書 関羽伝(裴松之注 引く『蜀記』)

こうして、関羽と関平は斬首されました。
劉備と出会ってから三十余年、漢室復興の夢を追い続けた義将の生涯は、ここで幕を閉じました。彼の首は、曹操の元へと送られました。曹操は諸侯の礼をもってその首を葬り、最期の敬意を表したといいます。


三国志演義との差異

小説『三国志演義』では、関羽はより神格化された存在として描かれています。史実との主な違いは以下の通りです。

骨を削って毒を癒やす

演義』では、腕に毒矢を受けた関羽の手術を、名医・華佗が行う場面が有名です。華佗が肉を切り裂き、骨についた毒をノミで「ガリガリ」と削り取る間、関羽は顔色一つ変えずに馬良と碁を打ち、酒を飲んで談笑していました。

史実でも、関羽が麻酔なしで骨を削る手術を受けたのは事実です。
ただし、執刀医は華佗ではありません(華佗はこの数年前に既に処刑されています)。名もなき軍医による手術でしたが、関羽の豪胆さを証明するエピソードとしては史実の方がむしろ凄みがあります。

青龍偃月刀と赤兎馬

関羽のトレードマークである重さ82斤(約18kg以上)の「青龍偃月刀」ですが、これは後漢時代には存在しませんでした。この形状の武器が使われるようになるのは宋代以降です。史実の関羽は、矛や戟など、当時の一般的な長柄武器を使っていたと考えられます(顔良を「刺した」という記述からも推測できます)。

また、名馬「赤兎馬」も、呂布の死後に曹操から関羽に譲られるのは創作です。さらに言えば、馬の寿命を考えると、黄巾の乱から関羽の死まで30年以上も現役で走り続けることは生物学的に不可能です。しかし、これらのアイテムなしに関羽を語れないのも事実でしょう。

一族

  • 関平正史では実子。『演義』では養子。父と共に馬忠に捕らえられ、運命を共にした。
  • 関興:関羽の次男。若くして才能を評価され、諸葛亮にも期待されたが早世した。
  • 関索:『花関索伝』や『演義』に登場する三男。京劇などで人気の美少年剣士だが、架空の人物。
  • 関氏(娘)孫権が息子の嫁にと申し入れたが、関羽が「虎の娘を犬の子にはやらん」と断った。名前は不明だが、民間伝承では「関銀屏」などと呼ばれる。

評価

陳寿からの評価

正史』の著者・陳寿は、関羽を張飛と共にこう評しています。

現代語訳:「関羽と張飛は、一万人の敵を相手にできるほどの勇者であり、世の虎臣(勇猛な家臣)と称された。関羽は曹操に恩を返し、張飛は義によって厳顔を許した。これらは国士(国一番の人物)の風格である。
しかし、関羽は剛直すぎて傲慢であり、張飛は乱暴で情け容赦がなかった。彼らがその短所によって理不尽な最期を遂げたのは、当然の理(ことわり)である」
出典:正史書 関張馬黄趙伝
原文:「關羽、張飛皆稱萬人之敵,為世虎臣。…然羽剛而自矜,飛暴而無恩,以短取敗,理數之常也。」

武勇と義理堅さは絶賛しつつも、その「傲慢さ」が破滅を招いたと冷静に分析しています。

程昱・郭嘉からの評価

敵国であるの参謀たち、程昱郭嘉らも口を揃えて「関羽・張飛は一万の兵に匹敵する」と警戒しており、当時からその強さは別格と認識されていました。

エピソード・逸話

死後の神格化

関羽の人生は刑場で終わりましたが、彼の魂の物語はそこから始まりました。
悲劇的な死と、生前の比類なき「義」の精神は、人々の同情と崇拝を集めました。時代が下るにつれ、彼は単なる歴史上の武将から、信仰の対象へと昇華していきます。

宋代以降、歴代の王朝から「王」や「帝」の称号を追贈され、最終的には「関聖帝君」として神になりました。現在でも、世界中の中華街(チャイナタウン)には関帝廟が建てられ、商売の神様・魔除けの神様として絶大な信仰を集めています。

生前は曹操孫権といった権力者に決して屈しなかった男が、死後は敵味方を超えて全ての人々から頭を下げられる存在となったのです。これこそが、関羽雲長という英雄が成し遂げた、最大の「勝利」と言えるかもしれません。

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