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劉備(劉備)

劉備

ざっくりまとめ
生没年 161年 〜 223年(享年63)
所属 (蜀漢)
玄徳(げんとく)
役職 漢中王、蜀漢皇帝
一族 子:劉禅、養子:劉封
関係 義兄弟:関羽張飛、軍師:諸葛亮
参加した主な戦い 黄巾の乱赤壁の戦い夷陵の戦い
正史と演義の差 ★★★★★
実在性 実在
重要度 ★★★★★

むしろを織る貧しい境遇から身を起こし、漢王朝の復興を掲げて乱世を駆け抜けた不屈の英雄。数々の敗北と流浪を重ねながらも、関羽張飛諸葛亮ら希代の英傑たちを惹きつけ、ついに三国の一角であるを建国した。その生涯は「仁徳」と「執念」に彩られている。

目次

生涯

流浪の始まりと黄巾の乱

楼桑村での決意

161年、幽州の涿郡(現在の河北省)に一人の男児が誕生しました。彼こそが後の昭烈帝、劉備です。前漢の景帝の末裔と称していましたが、父を早くに亡くしたため家は非常に貧しく、母とともにむしろを織り、草鞋(わらじ)を売って生計を立てていました。

家の東南には大きな桑の木があり、その枝ぶりはあたかも皇帝の馬車の屋根のようでした。幼き日の劉備は、子供たちと遊ぶ際に「僕は将来、この羽飾りのついた馬車に乗るんだ」と語ったといいます。この言葉を聞いた叔父は「滅多なことを言うな、一族皆殺しになるぞ」と慌てましたが、同時に彼の非凡さを感じ取っていました。

師・盧植との出会いと義兄弟

15歳の時、母の言いつけにより遊学に出ます。この時、後漢の名臣である盧植の門下生となりました。同門には、後に北方の覇者となる公孫瓚もいました。劉備は読書をあまり好まず、犬や馬、音楽や衣服を好む若者でしたが、その身体的特徴は異彩を放っていました。「耳は長く自分の肩まで垂れ、手は膝まで届き、目で自分の耳を見ることができた」と史書には記されています。

また、彼は無口で感情を表に出さず、侠気を持っていたため、多くの若者が彼を慕って集まりました。この頃、中山の大商人である張世平らが劉備を見て只者ではないと感じ、多額の資金援助を行っています。これによって劉備は徒党を集めることができました。この時期に、生涯の友であり義弟となる関羽張飛と出会ったと推測されます(『演義』で有名な桃園の誓いは創作ですが、三人が「恩愛、兄弟の如し」であったことは『三国志』正史に明記されています)。

黄巾の乱とさすらいの将軍

184年、黄巾の乱が勃発すると、劉備は義勇軍を率いて討伐に参加し、その功績によって安喜県の尉(警察隊長のような役職)に任じられました。しかし、ある時、朝廷から巡察に来た督郵(監査官)が賄賂を要求し、劉備を見下した態度をとりました。これに激怒した劉備は、督郵を縛り上げて杖で百回も打ち据え、官印をその首に掛けて逃亡してしまいます。(『演義』では張飛が殴ったことになっていますが、正史では劉備自身が行った、彼の激しい気性を表すエピソードです)。

その後、同門の公孫瓚を頼り、さらに徐州の牧・陶謙の援軍として赴きます。陶謙は劉備の人徳を見込み、死の間際に徐州を劉備に譲り渡しました。ここに至り、劉備はようやく一国(州)の主となったのです。

曹操との共闘と決別

呂布の裏切りと曹操への帰順

しかし、徐州の支配は長く続きませんでした。曹操に敗れて逃げてきた呂布を受け入れましたが、劉備が袁術と戦っている隙を突かれ、本拠地の下邳を乗っ取られてしまったのです。妻子を人質に取られた劉備は、屈辱を忍んで呂布と和睦しましたが、再び攻撃を受け、ついに宿敵であるはずの曹操を頼って落ち延びました。

曹操は劉備を厚遇しました。「今、天下に英雄と呼べるのは、君と予(わたし)だけだ」と語りかけたとされます。しかし、劉備は曹操の下に留まることを良しとしませんでした。曹操による皇帝軽視の姿勢に反発する国舅・董承らによる「曹操暗殺計画」に関与しつつ、表向きは畑仕事をして野心を隠しました(この時、雷の音に驚いて箸を落とし、臆病者を装った逸話が有名です)。

その後、袁術討伐の名目で兵を借りると、劉備はそのまま徐州で独立し、曹操に反旗を翻しました。しかし、激怒した曹操が自ら大軍を率いて攻めてくるとひとたまりもなく敗北し、関羽ともはぐれ、劉備は単身で袁紹の下へと逃亡することになります。

荊州での雌伏と三顧の礼

髀肉の嘆き

袁紹官渡の戦いで敗れると、劉備は再び逃亡し、今度は荊州劉表を頼りました。劉表は劉備を歓迎しましたが、その英雄的資質を恐れて最前線の新野城に駐屯させ、曹操への盾としました。

ここでの数年間は、劉備にとって長く苦しい雌伏の時でした。ある宴の席でトイレに立った劉備は、自分の太ももを見て涙を流しました。理由を尋ねられると、「以前は戦場を駆け回り、太ももの肉は引き締まっていた。しかし今は馬にも乗らず、贅肉がついてしまった。老いは迫るのに功業は成らず、それが悲しいのだ」と答えました。これが有名な「髀肉の嘆き」です。

諸葛亮との出会い

この停滞を打破したのが、不世出の天才・諸葛亮(孔明)との出会いでした。司馬徽(水鏡先生)や徐庶の推薦を受けた劉備は、自ら三度も諸葛亮の庵を訪ねます(三顧の礼)。

当時、劉備は47歳、諸葛亮は27歳。親子ほどの年齢差があり、実績もない若者に対して、劉備は礼を尽くしました。これに感銘を受けた諸葛亮は「天下三分の計」を説き、曹操に対抗するために荊州益州を領有し、孫権と結ぶ壮大な戦略を提示しました。「水が魚を得たようなものだ」と劉備は喜び、ここから運命が大きく動き出します。

赤壁の戦いと入蜀

長坂の敗走と赤壁の奇跡

208年、曹操荊州征服の大軍を起こすと、劉表の急死も重なり、劉備は南へと逃走します。この際、劉備を慕う10万もの民衆が付き従ったため、行軍は遅々として進みませんでした。部下は民を捨てるよう進言しましたが、劉備は「大事を成すには人を以て根本とする。私を慕ってくれる人々を捨てることはできない」と拒否しました。

しかし、曹操の精鋭騎兵「虎豹騎」に追いつかれ、長坂の戦いで壊滅的な被害を受けます。命からがら逃げ延びた劉備は、諸葛亮へ派遣して同盟を結び、赤壁の戦い曹操軍を撃破しました。この勝利により、劉備は念願の荊州南部を手に入れ、確固たる基盤を築きました。

益州攻略と漢中王即位

その後、益州(蜀)の牧・劉璋から「曹操の侵攻を防いでほしい」と要請され、劉備は入蜀します。当初は客将として振る舞いましたが、徐々に劉璋との関係が悪化。軍師・龐統や法正の策を用い、3年がかりで劉璋を降伏させ、ついに益州を平定しました。

さらに219年、漢中攻防戦において、黄忠がの名将・夏侯淵を斬るなどの大戦果を上げ、曹操を撤退させました。ここに及び、劉備は「漢中王」を自称し、勢力の絶頂期を迎えます。

皇帝即位と悲劇の最期

関羽の死と夷陵の戦い

しかし、絶頂は長く続きませんでした。同年、荊州を守っていた関羽が、の挟撃に遭い、捕らえられて処刑されてしまったのです。さらにでは曹操が死に、息子の曹丕が後漢の皇帝(献帝)から禅譲を受けて皇帝に即位しました。

これに対抗し、221年、劉備もまた「漢の正統を受け継ぐ」として皇帝に即位し、国号を「漢」(後世の呼び名で蜀漢)と定めました。そして、周囲の反対を押し切り、関羽の仇を討つためにへの東征軍を起こします。

緒戦は勝利を重ねましたが、夷陵の戦いにおいて、の若き都督・陸遜の火計により大敗北を喫しました。白帝城へと逃げ帰った劉備は、失意のうちに病に倒れます。

白帝城での遺言

223年、死期を悟った劉備は、諸葛亮を枕元に呼び、歴史に残る遺言を残しました。

「君の才能は曹丕の十倍ある。必ずや国を安んじ、大事を成し遂げるだろう。もし、我が子(劉禅)が皇帝として補佐するに足りる人物なら、助けてやってくれ。しかし、もし才能がないのなら、君が自ら国を治めよ(君が皇帝になれ)」

これを聞いた諸葛亮は涙を流してひれ伏し、死ぬまで忠誠を尽くすことを誓いました。4月、波乱に満ちた生涯を閉じた劉備は、恵陵に葬られました。諡号は昭烈皇帝といいます。

三国志演義との差異

双股剣(双剣)の使用

『演義』では劉備のトレードマークとして「雌雄一対の剣(双股剣)」が登場し、戦場でもこれを振るって戦います。正史においても、裴松之が引く『古今刀剣録』などに「劉備が金牛山で鉄を採掘し、八本の剣を作った」という記述はありますが、戦場で常に二刀流で戦っていたという明確な記述はありません。しかし、彼が武勇に優れていたことは史実であり、若い頃は自ら敵を斬ることもありました。

督郵を鞭打ったのは誰か

前述の通り、『演義』では張飛が督郵を木の杭に縛り付けて柳の枝で打ち据え、劉備がそれを止めるという描かれ方をしています。これは劉備の「仁君」イメージを守るための改変でしょう。正史では、劉備自身が督郵を縛り上げ、杖で200回(記述によっては100回)も打ち据え、殺そうとさえしました(最終的には逃亡)。史実の劉備は、演義で描かれるようなお人好しではなく、かなり激しい気性と腕っぷしを持った「親分肌」の人物でした。

「仁君」か「英雄」か

『演義』の劉備は、涙もろく、徳はあるが決断力や軍略に欠け、常に諸葛亮に頼りきりの人物として描かれがちです。しかし正史の劉備は、曹操に匹敵する用兵の才を持ち、諸葛亮に出会う前も数々の修羅場を自らの判断で潜り抜けています。また、裏切りや謀略も必要であれば実行しており、曹操を騙して逃げたり、劉璋から国を奪ったりするなど、乱世の群雄らしいしたたかさを持っていました。

一族

  • 父:劉弘
  • 妻:
    • 甘夫人(劉禅の母。皇后を追贈)
    • 糜夫人(糜竺の妹。長坂で井戸に身を投げた逸話で有名)
    • 孫夫人(孫権の妹。政略結婚で嫁ぐも後に帰国)
    • 穆皇后呉氏(呉懿の妹。入蜀後に正室となる)
  • 子:
    • 劉禅(公嗣。第2代皇帝)
    • 劉永(公寿)
    • 劉理(奉孝)
  • 養子:
    • 劉封(武勇に優れたが、関羽を見殺しにした罪などで処刑)

評価

陳寿からの評価

『三国志』の著者である陳寿は、劉備を高祖・劉邦になぞらえて高く評価しています。

評価・解説: 広い度量を持ち、意志が強く、大らかで、まさしく高祖(劉邦)の風格があり、英雄の器を持っていた。国を挙げて彼に心服したのは、彼が人を惹きつける魅力を持っていたからである。権謀術数においては曹操に及ばなかったが、その不屈の精神と、決して諦めない姿勢は、まさしく彼を英雄たらしめるものであった。
出典: 『三国志』蜀書 先主伝
原文: 「先主之弘毅寬厚,知人待士,蓋有高祖之風,英雄之器焉。」

曹操からの評価

最大のライバルであった曹操も、劉備を唯一無二の存在として認めていました。

評価・解説: 龍が雲に乗って天に昇る変化を語った後、曹操は劉備を指差し、そして自分を指差して言った。「今、天下に英雄と呼べるのは、君と私だけだ。袁紹のような輩は数に入るまい」。
出典: 『三国志』蜀書 先主伝(注に引く『華陽国志』等)
原文: 「今天下英雄,唯使君與操耳。本初之徒,不足數也。」

陸遜からの評価

夷陵の戦いで劉備を打ち破ったの陸遜も、敵ながらその実力を客観的に評価しています。

評価・解説: 劉備は天下に名を知られた梟雄(強く荒々しい英雄)であり、その知略と勇気は侮れない。彼が軍を率いている以上、決して油断してはならない。
出典: 『三国志』呉書 陸遜伝

エピソード・逸話

人を惹きつける不思議な魅力

劉備がまだ勢力を持たず、平原の相(行政長官)をしていた頃の話です。ある郡の民、劉平という者が、劉備の統治を不満に思い、刺客を送り込んで暗殺させようとしました。しかし、劉備はそうとは知らず、その刺客を招き入れ、非常に丁寧に、心を込めてもてなしました。刺客は劉備の人徳に心を打たれ、殺すことが忍びなくなり、ついに「私はあなたを殺しに来たのです」と告白して去って行きました。このように、劉備は言葉や理屈ではなく、その真心によって相手を感動させる不思議な力を持っていました。

「水魚の交わり」と古参武将の嫉妬

三顧の礼諸葛亮を迎えてからというもの、劉備は寝食を共にし、片時も離れようとしませんでした。これ面白くないのが、長年苦楽を共にしてきた義兄弟の関羽張飛です。「兄貴は若造に熱を上げすぎだ」と文句を言う二人に、劉備はこう諭しました。「私にとって孔明がいるのは、魚に水があるようなものなのだ。頼むから黙って見ていてくれ」。これが「水魚の交わり」の語源です。主君がここまで言い切ることで、古参と新参の対立を未然に防いだのです。

的盧(てきろ)の飛越

劉表の元にいた頃、ある宴会で暗殺の危機に瀕した劉備は、「的盧」という愛馬に乗って逃げ出しました。しかし、行く手には檀渓(だんけい)という広い川が立ちはだかります。追っ手はすぐ後ろまで迫っています。劉備が「的盧よ、今日は厄日か!頑張ってくれ!」と叫んで鞭打つと、的盧は驚くべき跳躍を見せ、一飛びで対岸まで飛び越えたといいます。『演義』の名シーンですが、正史の注にも似たような記述があり、劉備の悪運の強さを象徴するエピソードとして知られています。

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