| 姓名 | 孫堅(孫堅 / Sūn Jiān) 字:文台(文臺 / Wéntái) |
|---|---|
| 生没年 | 155年? 〜 191年(享年37歳) |
| 所属 | 後漢 → 袁術(客将) → 呉(始祖) |
| 役職 | 長沙太守、破虜将軍、烏程侯 |
| 一族 | 子:孫策、孫権、孫夫人 |
| 関係 | 主君:袁術、宿敵:董卓、劉表 |
| 参加した主な戦い | 黄巾の乱、董卓討伐戦、襄陽の戦い |
| 正史と演義の差 | ★★★☆☆ |
| 実在性 | 実在 |
| 重要度 | ★★★★★ |
「江東の虎」と恐れられた猛将であり、三国時代の呉の実質的な始祖。17歳で海賊を退治して名を上げ、黄巾の乱や董卓討伐戦では常に最前線で命を張った。特に董卓が最も恐れた男として知られるが、志半ばにして戦死した悲劇の英雄。
孫堅文台:漢朝最後の忠臣か、乱世を切り開いた野心家か
中国史において、呉の基盤を築いた「江東の虎」こと孫堅。彼は、名門の出身者が幅を利かせる後漢末期において、個人の武勇と統率力のみを頼りに成り上がった稀代の傑物です。小説『三国志演義』では、劉備・関羽・張飛らと共に董卓と戦う正義の将軍として描かれますが、正史『三国志』に記された彼の姿は、より荒々しく、より政治的野心に満ち、そして誰よりも「武」に秀でたリアリストの姿をしています。
彼が生涯をかけて切り開いた道は、やがて息子の孫策、そして孫権へと受け継がれ、三国鼎立の一角を成すことになります。本稿では、正史『三国志』呉書一・孫破虜討逆伝の記述をベースに、裴松之が引く『江表伝』や『呉録』などの注釈も詳細に検証しながら、この英雄の短くも激しい生涯を徹底的に紐解いていきます。
生涯
出自と若き日の武勇
孫氏の起源
孫堅は、字を文台と言い、揚州呉郡富春県(現在の浙江省杭州市富陽区)の出身です。正史『三国志』の冒頭には、「けだし孫武の後なり(蓋孫武之後也)」と記されており、彼が『孫子の兵法』で知られる春秋時代の名将・孫武の末裔である可能性が示唆されています。ただし「蓋(けだし / たぶん・おそらく)」という文字が使われていることから、これは確実な系図に基づく事実というよりは、孫家が代々伝えてきた誇り、あるいは後世の史家による推測の域を出ないものかもしれません。
しかし、確かなことは、彼が生まれた家は代々呉郡の役人を務める家柄ではあったものの、中央政界に太いパイプを持つような名門貴族(袁氏や楊氏のような)ではなかったという事実です。彼はいわゆる「寒門」に近い地方豪族の出身であり、その身一つで乱世を駆け上がる必要がありました。
孫堅出生秘話?
彼が生まれる前、一族の墓地には不思議な現象が起きたと『呉書』は伝えています。富春の城東にある孫氏の墓の上に、ある日突然、五色の雲気が立ち上り、それが数里先まで広がり天に連なったのです。これを目撃した古老たちは、顔を見合わせてこう噂し合いました。
「これは凡庸な気が発したものではない。孫氏から、きっと興隆する者が出るに違いない」
原文:是非凡氣、孫氏其興矣!
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝 注引『呉書』
さらに、母親が彼を身籠った際にも奇怪な出来事が起こります。彼女は「自分の腸が飛び出して、それが呉の昌門(城門)に巻きつく」という、あまりにも強烈で恐ろしい夢を見たのです。目が覚めた後も恐怖は消えず、隣家の老婆にその内容を打ち明けました。すると老婆は、意外な言葉で彼女を慰めます。
「どうしてそれが吉兆でないと分かりましょうか(むしろ良いことかもしれませんよ)」
原文:安知非吉徵也。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝 注引『呉書』
腸が城門に巻きつくというイメージは、一見するとグロテスクですが、見方を変えれば「腹から出たものが城を包み込む」、つまり「自分の産んだ子が都市や国家を支配する」という強烈な暗示とも受け取れます。このように、英雄の誕生には往々にして神秘的な伝説が付随するものですが、孫堅の場合はその「並外れた容貌」と「闊達な性格」こそが、何よりも彼が凡人ではないことを雄弁に証明していました。
17歳の決断:銭塘における海賊退治
孫堅の名が世に轟くきっかけとなったのは、熹平元年(172年)、彼がまだ17歳という少年の頃の出来事でした。当時、彼は父と共に船で銭塘(現在の杭州付近)へ向かっていました。その道中、彼らは偶然にも、海賊の胡玉らが商人から略奪した財貨を岸辺で分け合っている現場に遭遇します。
この胡玉という海賊は、周辺地域を荒らし回る凶悪な集団を率いており、旅人たちは皆、彼らの姿を見ただけで恐怖し、船を進めることもできずに立ち往生していました。しかし、まだ元服して間もない少年であった孫堅の反応は、大人たちとは全く異なるものでした。彼は海賊の群れを見据え、父に対して静かに、しかし断固としてこう告げます。
「この賊は撃つことができます。どうか討伐させてください」
原文:此賊可擊、請討之。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
父は驚愕しました。「お前の手におえる相手ではない(非爾所圖也)」と制止しましたが、孫堅は聞き入れません。彼は刀を提げて岸に上がると、たった一人で海賊の方へと歩を進めます。
ここで孫堅が見せたのは、単なる蛮勇ではありませんでした。彼は手ぶり身ぶりで周囲の気配を指し示し、あたかも「官軍の別動隊があちらに配置につき、こちらからも包囲網を完成させた」かのように、見えない味方に合図を送る演技を始めたのです。これを見た海賊たちは動揺します。「もしや、官兵が大挙して我々を捕らえに来たのではないか?」という疑念が彼らの頭をよぎり、恐怖が伝染します。彼らは慌てて奪った財宝を放り出し、散り散りに逃げ始めました。
孫堅はこの機を逃しませんでした。逃走する海賊を追いかけ、その一人の首を見事に斬り落として戻ってきたのです。父や周囲の人々は、この少年の胆力と知略に言葉を失い、大いに驚嘆しました。この一件により孫堅の武名は郡内に鳴り響き、役所から召し出されて仮尉(警察隊長代理)の職に就くことになります。ここから、彼の「武」による立身出世の物語が幕を開けるのです。
地方反乱の鎮圧と台頭
「陽明皇帝」許昌の討伐
孫堅が世に出て間もなく、熹平元年(172年)、会稽郡で大規模な反乱が発生しました。句章で妖賊(宗教的な反乱者)ある許昌が、句章で挙兵し、大胆にも「陽明皇帝」を自称したのです。彼は父の許昭と共に各地を扇動し、その勢力は数万人にまで膨れ上がりました。史書にある「妖賊」という表現から、彼らが何らかの宗教的カリスマ性を持っていたことがうかがえます。
同年、孫堅は呉郡の司馬として精鋭の勇士千人余りを募り、州郡の討伐軍と協力して反乱軍の鎮圧にあたりました。正規軍だけでなく、彼を慕って集まった地元の若者たちも加わっていたことでしょう。この戦いでの孫堅の功績は著しく、反乱軍は壊滅し、許昌と許昭の親子は討ち取られました。
当時の揚州刺史であった臧旻は、孫堅の働きを高く評価し、朝廷へその功績を詳細に報告しました。これにより孫堅は、塩瀆県の丞(県知事の補佐)に任命され、さらにその後、盱眙の丞、下邳の丞へと転任を重ねていくことになります。
淮泗の精兵と孫堅軍団の結成
地方官として各地を転々とする中でも、孫堅の評判は高まる一方でした。彼が治める場所では、その名声を聞きつけた郷里の若者たちや、あるいは世を儚む侠客たちが、千里の道を遠しとせず訪ねてきました。彼らは孫堅の武勇に憧れ、その人柄に惹かれて集まってきたのです。
孫堅は彼らを、単なる部下としてではなく、まるで親族(子弟)のように厚遇しました。共に食事をし、酒を酌み交わし、その才能や性格に応じて適切な役割を与えたため、彼の周囲には常に命知らずの私兵集団が形成されていきました。
孫堅は彼らを我が子や弟のように待遇し、その才を愛して養い、才能に応じて任用した。
原文:堅接撫待養、有若子弟。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
この時集まった「淮泗(淮河・泗水流域)の精兵」たちこそが、後の「孫堅軍団」の中核を成し、さらには息子である孫策・孫権の代に至るまで、呉という国家を支える最強の軍事基盤となっていくのです。
黄巾の乱と中央への進出
朱儁に見出され、最前線へ
中平元年(184年)、後漢王朝を根底から揺るがす未曾有の農民反乱、黄巾の乱が勃発しました。太平道の教祖・張角率いる黄巾党は、黄色い頭巾をトレードマークにし、各地で役所を焼き払い、州郡を占拠しました。事態を重く見た朝廷は、左中郎将の皇甫嵩と中郎将の朱儁を討伐の指揮官として派遣します。
この時、中郎将の朱儁は、以前から孫堅の武勇を聞き及んでいました。彼は孫堅を佐軍司馬として自らの軍に招きます。孫堅にとって、これは地方の役人から中央の正規軍へ、そして天下の表舞台へと躍り出る絶好の機会でした。
孫堅は即座に応じ、下邳周辺でかつて集めた精鋭たちや、淮河・泗水流域の若者たちを再結集させました。さらに商売人たちも動員し、淮水や泗水で財貨を整え、軍装を整えて出発しました。その数、千人余り。彼らは孫堅と共に戦えることに高揚し、意気揚々と戦場へ向かったのです。
宛城の攻略と「先登」の功名
孫堅の部隊は、汝南・潁川方面で黄巾党と激突します。戦場における彼の戦いぶりは、まさに「命知らず」と呼ぶにふさわしいものでした。彼は指揮官でありながら、常に身を挺して最前線に立ちました。
そして、戦局のハイライトとなったのが、宛城の攻略戦です。黄巾軍の趙弘らが立て籠もる宛城に対し、官軍は猛攻をかけますが、抵抗は激しく容易には落ちません。ここで孫堅は、自ら決死隊を率いることを決意します。
彼は片手で盾を持ち、片手で大刀を振るい、矢雨をかいくぐって城壁に取り付きました。彼の気迫に押された部下たちも続き、孫堅はついに一番乗り(先登)を果たします。城壁の上で暴れ回る孫堅の姿を見て、官軍の士気は最高潮に達し、ついには城門を突破して宛城を陥落させることに成功しました。
孫堅は身をもって先ず登り、蟻のように城壁に取り付いた。兵衆もこれに心酔し、ついにその城を破った。
原文:堅身當一面、登城先入、衆乃蟻附、遂大破之。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
この功績は朱儁によって朝廷に報告され、孫堅は「別部司馬」に任命されました。これは独立した部隊を率いる権限を持つ正規軍の将校としての地位であり、彼が名実ともに「漢の将軍」としての第一歩を踏み出した瞬間でした。
ある激戦の最中、彼は敵に包囲され、重傷を負って落馬してしまいます。意識が遠のく中、彼は草むらに伏せて死んだふりをし、敵の目をごまかしました。幸運にも、彼の愛馬が陣営に戻って激しく嘶いたため、異変に気づいた部下が捜索に来てくれ、かろうじて救出されました。普通なら長期療養が必要な深手でしたが、孫堅は傷が少し癒えるやいなや、周囲が止めるのも聞かずに再び戦場へ復帰したといいます。
出典:韋昭の「呉書」(陳寿の呉志/呉書とは別物)なので、おそらく脚色
涼州の動乱と董卓への殺意
張温の遠征と董卓の不遜
黄巾の乱がひとまず収束に向かったのも束の間、今度は西方の涼州で辺章・韓遂らが異民族と結託して反乱を起こしました。中平2年(185年)、朝廷は司空の張温を車騎将軍とし、討伐に向かわせます。孫堅もまた、参軍としてこの遠征に従軍することになりました。
この遠征軍には、当時すでに西涼で強大な軍事力を誇っていた董卓も、中郎将として参加していました。しかし、董卓は中央から派遣された上官である張温を内心軽んじていました。
ある時、総司令官である張温が長安で諸将を招集した際、董卓はあえて遅刻して現れました。張温がその遅参を咎めると、董卓はふてぶてしい態度で、悪びれる様子もなく傲慢な言葉を返します。その態度は、軍の規律を公然と無視するものでした。
孫堅の進言:董卓を斬るべし
その場に居合わせた孫堅は、董卓のあまりの無礼さと、その瞳の奥に宿る危険な野心を鋭く見抜きます。彼は静かに、しかし殺気を込めて張温の耳元で囁きました。
「董卓は召集されてもすぐに至らず、逆に傲慢な態度をとっています。軍法である『召集に遅れれば斬る』を適用し、威刑を示すべきです」
原文:卓不怖罪而鴟張大語、宜以召不時至、陳軍法斬之。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
張温は驚き、小声で答えます。「董卓は隴・蜀の間で威名がある。今これを殺せば、西方を治めることができなくなるだろう」。しかし孫堅は引き下がりません。彼は指を折りながら、董卓を斬るべき「三つの大罪」を数え上げました。
- 無礼の罪: 上の者を軽んじ、礼節を欠いていること。
- 怠慢の罪: 辺章・韓遂らが跋扈しているのに、討伐の時期を逸して軍の士気を阻喪させていること。
- 傲慢の罪: 遅刻しておきながら功績を誇り、高慢な態度をとっていること。
「明公(あなた様)は親しく大軍を率いており、天下の威光を背負っています。どうして董卓ごときを頼りになさいましょうか。古の名将・司馬穰苴は荘賈を斬り、魏絳は楊干を殺しました。今、明公が董卓を惜しんで誅殺しなければ、必ずや後悔することになるでしょう」
孫堅の言葉は理路整然としており、未来を予見した警告でした。しかし、張温は優柔不断な性格であり、また董卓の背後にある武力を恐れたため、この進言を採用することができませんでした。「行って休むがよい」と孫堅を下がらせるのが精一杯だったのです。
後にこの話を聞いた人々は皆、孫堅の慧眼と決断力に感嘆し、同時に董卓という怪物を野放しにした張温の末路を案じたといいます。そして事実、このわずか数年後、董卓は都に入って暴虐の限りを尽くし、張温は真っ先にその董卓によって惨殺される運命を辿るのです。孫堅の予言は、あまりにも残酷な形で的中することになります。
長沙の反乱と区星討伐
太守としての手腕
涼州での戦役の後、孫堅の予測通り朝廷の権威は失墜し、地方では反乱が頻発しました。荊州の長沙郡では、区星(おうせい)という人物が「将軍」を自称して一万人余りの衆を集め、城郭を包囲するという事件が起きました。
朝廷はこれに対処するため、孫堅を長沙の太守に任命します。現地に到着した孫堅は、ここでもその卓越した軍事的才能を発揮します。彼は着任するやいなや、良吏を登用して民心を安定させると同時に、軍を率いて区星を一ヶ月足らずで撃破してしまったのです。
さらに彼は、長沙だけでなく隣接する零陵・桂陽の二郡で起きていた周朝・郭石らの反乱軍も越境して討伐しました。本来、太守が管轄外の郡へ軍を進めることは越権行為にあたりますが、孫堅は「今は非常時であり、賊を討ち民を安んじることが最優先である」として断行しました。
この徹底した討伐により、荊州南部の三郡は平穏を取り戻しました。当時の朝廷もこの功績を認め、孫堅を「烏程侯」に封じました。これは彼が単なる将軍から、領地を持つ列侯へと昇り詰めたことを意味します。この時、孫堅は30歳前半。転戦各地で人材を得て、実戦経験持つんだ彼のキャリアは順風満帆に見えました。しかし、都の洛陽では、彼の運命を大きく狂わせる激震が走ろうとしていました。霊帝の崩御と、それに続く董卓の入京です。
動乱の幕開け:董卓の台頭と孫堅の決起
王睿殺害事件:私怨と大義の狭間で
中平6年(189年)、霊帝が崩御すると、都の洛陽は血の海に沈みました。大将軍の何進が張譲ら宦官に暗殺され、それに激昂した袁紹らが宮中に乱入して十常侍らを虐殺。この混乱に乗じて西涼の軍閥・董卓が入京し、少帝を廃して献帝を擁立するという暴挙に出たのです。
この報が荊州に届くと、孫堅は悲憤の涙を流しました。「かつて涼州で進言した通り、あの怪物を斬っておけば、これほどの災厄は起きなかったものを」。彼は胸を叩いて嘆きましたが、ただ嘆いている男ではありませんでした。彼は即座に軍を動かし、北上して董卓を討つ準備を始めます。
しかし、その進軍の過程で、孫堅の「武人としての荒々しさ」と「政治的な危うさ」を象徴する事件が起きます。当時の荊州刺史であった王睿の殺害です。
王睿は、以前孫堅と共に反乱討伐を行ったことがありましたが、名門出身の彼は、武骨で粗野な孫堅のことを内心軽蔑していました。言動の端々に「孫堅のような田舎侍はどうも品がない」という侮蔑を含ませていたため、孫堅はずっと恨みを抱いていたのです。
今回、王睿もまた董卓討伐のために挙兵を宣言しましたが、彼は平素から仲の悪かった武陵太守の曹寅(そういん)をこの機に乗じて殺そうと企んでいました。恐れをなした曹寅は、偽の詔書(檄文)を作り、「案行使者(孫堅)に命ず。王睿を逮捕し処刑せよ」というデマを孫堅に送りつけました。
孫堅はこの偽情報を利用しました(あるいは偽物と知りつつ渡りに船と利用した可能性すらあります)。彼は軍勢を整えて王睿の城に迫りました。王睿は驚き、楼閣の上から孫堅に問いかけます。
「兵士たちが求めているものは何か?(金が欲しいのか?)」
孫堅は答えた。「兵士たちは、長いこと衣服も着られず困窮しております」
王睿は言った。「私は官舎の倉庫を開けてお前たちに恵んでやろう。不足があるなら言えばよい」
原文:兵自求賞、孫堅軍苦貧拙。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝 注引『呉録』
しかし、孫堅軍の先鋒が城門に突入すると、事態は一変しました。王睿は孫堅を見つけると驚いて尋ねました。「私に何の罪があるのか?」
孫堅は冷酷に言い放ちます。
「ただ、行くべき道を知らぬ(時勢が読めない)のが罪である」
原文:坐無所知。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
追い詰められた王睿は、顔面蒼白となり、自害しました。こうして孫堅は、上官である刺史を葬り去り、荊州の兵力を吸収して北上を続けたのです。これは正義の行軍であると同時に、孫堅という猛獣が檻を破って暴れ始めた瞬間でもありました。
南陽太守・張咨の粛清
王睿を葬った孫堅軍は、さらに北上して南陽郡に到達しました。孫堅は太守の張咨に対して軍糧の補給を求めましたが、張咨は「孫堅は隣の刺史を殺した危険人物である」と警戒し、あるいは単なる地方軍閥と侮って、要求を無視しました。
力攻めでは時間がかかると判断した孫堅は、ここで卑屈なまでの謙りを見せました。彼は牛と酒を贈って挨拶の使者を出し、「私はただの武骨者で、義兵を挙げて賊(董卓)を討ちたいだけなのです。行軍の苦労を太守殿にねぎらっていただきたい」と申し入れました。張咨はこの態度に気を良くし、孫堅への警戒を解いてしまいました。
翌日、張咨は答礼のために孫堅の陣営を訪れました。孫堅は彼を歓待し、酒宴を開きました。宴もたけなわとなり、張咨が完全に油断した頃合いを見計らって、孫堅の配下である長沙の主簿(会計・文書係)が進み出て、孫堅に報告を行いました。
先日南陽へ移る際、道が整備されておらず、軍需物資も整っていません。南陽の主簿を拘束し、その意図を問いただすべきです
原文:前移南陽、而道路不治、軍資不具、請收主簿推問意故。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
張咨はこれを聞いて恐怖し、席を立って帰ろうとしましたが、すでに陣営の四周は武装した兵士によって固められており、脱出することはできませんでした。しばらくして、主簿が再び進み出て、今度は決定的な罪状を読み上げました。
南陽太守(張咨)は、義兵を停滞させ、賊の討伐を遅らせました。請うらくは、彼を捕らえて軍法に照らし処分・処刑すべきです
原文:南陽太守稽停義兵、使賊不時討、請收出案軍法從事。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
孫堅は静かに頷くと、配下に命じて張咨を引きずり出し、軍門で斬首させました。それは、法と手続きを装った、あまりにも鮮やかな「合法的」な粛清でした。この光景を目の当たりにした南陽郡の役人たちは震え上がり、孫堅の要求に対して「求められて得られぬものはない」というほど、物資の徴発はスムーズに進みました。
正史の注に引く『呉歴』では、さらに狡猾な策が記されています。孫堅は「急病にかかり、もう助からない」と嘘をつき、祈祷師を呼んで大騒ぎをさせました。そして「私の兵をすべて太守殿(張咨)にお譲りしたい」と伝言を送ったのです。張咨は孫堅の兵力を手に入れる好機と考え、歩騎五、六百人を引き連れて見舞いに来ました。孫堅は寝たふりをして対面していましたが、突然ガバッと跳ね起き、剣を抜いて罵倒すると、そのまま張咨を斬り殺したとされています。
いずれの説にせよ、孫堅が「騙し討ち」によって張咨を殺害し、南陽の物資を強奪したという事実は共通しています。
袁術との提携と反董卓連合
魯陽での出会いと誓い
初平元年(190年)、孫堅は数万に膨れ上がった軍勢を率いて魯陽に到着し、そこで後将軍・袁術と合流しました。袁紹を盟主とする「反董卓連合軍」が結成された時期です。
袁術は、四世三公の名門・袁氏の嫡流を自認するプライドの高い人物ですが、孫堅の武勇とその凶暴なまでの実行力を高く評価しました。彼は孫堅を行破虜将軍兼「豫州刺史」として上奏し、自らの戦力として迎え入れました。ここに、孫堅と袁術という、三国志前半における強力な協力関係が誕生します。
梁県の敗戦と祖茂の犠牲
孫堅は魯陽を拠点に北進を開始し、梁県へと兵を進めました。しかし、ここで董卓軍の猛反撃に遭遇します。敵将は徐栄。彼は曹操をも撃破したことのある隠れた名将であり、孫堅軍はこの徐栄によって包囲され、総崩れとなってしまいます。
孫堅は数十騎の側近と共に必死の撤退戦を強いられました。彼は自身のトレードマークであった「赤い頭巾(赤罽幘)」を被っていたため、敵兵の格好の標的となりました。この絶体絶命の危機を救ったのが、長年の忠臣・祖茂(そも)です。
孫堅は、常々身につけている赤い頭巾を脱ぎ、祖茂に被らせた。敵騎はこれを見て孫堅だと思い込み、祖茂を激しく追いかけた。その隙に孫堅は反対方向の小道から逃れることができた。
原文:堅常著赤罽幘、乃脫幘授茂。祖茂戴幘、卓騎爭逐之、堅從小道得免。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
祖茂は敵を引きつけた後、草むらに飛び込んで頭巾を焼き焦げた柱の杭に被せ、自分は身を潜めました。敵兵は「孫堅が草むらに隠れている!」と取り囲みましたが、近づいてみるとただの焦げた柱だったので、落胆して去っていきました。『三国志演義』では華雄に斬られる祖茂ですが、正史ではこのように知恵を使って生き延びています(その後の消息は不明ですが、孫堅を生かすという最大の功績を残しました)。
陽人の戦い:董卓軍粉砕
再起と陽人城での迎撃
梁県での敗北は痛手でしたが、孫堅は決して挫けませんでした。彼は散り散りになった敗残兵をかき集め、陽人城(現在の河南省汝州市付近)に進出して陣を張り直しました。
董卓は孫堅を完全に叩き潰すべく、大軍を派遣します。都督の胡軫、騎督の呂布といった錚々たるメンツに加え、数多くの歩兵・騎兵が送り込まれました。しかし、ここで董卓軍内部に不協和音が生じます。指揮官の胡軫と、武勇を誇る呂布の仲が極めて悪かったのです。
呂布は、胡軫が功績を挙げるのを妨害しようと、軍中に「孫堅が逃げ出したぞ!」というデマを流したり、夜中に誤った警報を出して味方を混乱させたりしました。このため、董卓軍は統制が取れず、疲弊しきった状態で陽人城に到着します。
華雄の斬首と完全勝利
孫堅はこの機を逃しませんでした。城から打って出た孫堅軍は、混乱する董卓軍を一方的に蹂躙しました。この戦いは孫堅の圧勝に終わります。
そして、この乱戦の中で、孫堅軍は敵の都督・華雄を捕らえ、その首を斬り落としました。
孫堅は再び兵を収めて陽人で戦い、董卓軍を大いに破り、その都督である華雄の首を梟(さら)した。
原文:合戰於陽人、大破卓軍、梟其都督華雄等。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
『三国志演義』では、華雄は関羽によって温かい酒が冷める前に斬られたことになっていますが、史実において華雄を討ち取ったのは間違いなく孫堅です。これは反董卓連合軍全体を見渡しても、数少ない、そして最大の「具体的な戦果」でした。口先だけで動かない諸侯が多い中、孫堅だけが董卓の主力を正面から打ち破ったのです。
董卓の恐れと和睦の拒絶
陽人での敗北を知った董卓は、初めて孫堅に対して恐怖を抱きました。彼は部下の李傕を使者として送り、孫堅に対して和睦を持ちかけます。
「孫堅殿の息子や兄弟たちを刺史や太守に取り立てよう。婚姻関係を結んでもよい」。董卓は破格の条件で孫堅を買収しようとしました。しかし、孫堅の返答は烈火のごときものでした。
「董卓! お前は天に逆らい、無道な振る舞いで王室を転覆させた。私はお前の三族を皆殺しにし、その肉をあぶり出して四海にさらさなければ、死んでも死にきれんのだ。どうしてお前と和睦などできようか!」
原文:卓逆天無道、蕩覆王室。今不夷汝三族、縣示四海、則吾死不瞑目。豈將與乃和親邪?
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
孫堅は使者を追い返すと、全軍に洛陽への進撃を命じました。
洛陽入城と漢朝への涙
大谷関の突破と洛陽炎上
孫堅軍は大谷関まで進出しました。董卓は自ら軍を率いて迎撃に出ましたが、勢いに乗る孫堅軍を止めることはできず、敗走しました。董卓はついに洛陽を放棄することを決意し、宮殿や街を焼き払い、献帝を連れて西の長安へと遷都してしまいました。
孫堅は宣陽城門から洛陽に入城しました。しかし、そこで彼が見たものは、かつての栄華を誇った都の姿ではなく、黒煙が立ち上る廃墟でした。宮殿は焼け落ち、陵墓は暴かれ、民家は灰燼に帰していました。数百里にわたって人影はなく、ただ寂寥とした風が吹くのみ。
孫堅は悲しみに暮れ、廃墟となった漢の宗廟に涙を流しながら祭祀を行いました。この時、彼が見せた涙は、漢王朝への純粋な忠誠心から来るものであったと信じたいところです。
伝国璽の発見
祭祀を終えた後、孫堅の部下たちは、城南にある甄官井(しんかんせい)という古井戸から、不思議な五色の光が漏れ出ているのに気づきました。不審に思って井戸をさらってみると、そこから一人の宮女の遺体が見つかりました。
その宮女の首には、小さな箱がかけられていました。開けてみると、中には絢爛たる輝きを放つ玉璽(ハンコ)が入っていました。一辺は四寸、上部には五匹の龍が絡み合う彫刻が施され、角がわずかに欠けて金を補填してあるその印章には、以下の文字が刻まれていました。
「天命を受け、永く昌(さか)えん」
原文:受命于天、既壽永昌。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝 注引『呉書』
これぞまさしく、秦の始皇帝以来、中華皇帝の正統な支配権を示す至宝「伝国璽」でした。孫堅がこの宝を手にしたことは、彼の運命を大きく狂わせることになります。これまで「漢の忠臣」として戦ってきた彼の心に、「天命」という名の野心が芽生えたのでしょうか。あるいは、これが災いの種になると予感したのでしょうか。
『三国志演義』では、孫堅はこの玉璽を隠し持って江東へ帰ろうとし、それが原因で袁紹や劉表と対立することになりますが、正史の注釈にある記述でも、彼がこの玉璽を確保し、後に袁術の手に渡ったことは事実とされています(『山陽公載記』など)。
廃墟の洛陽で玉璽を手にした孫堅。彼が次に目指したのは、董卓の追撃ではなく、自身の勢力圏の確立でした。しかし、それは新たな戦いと、そして彼自身の破滅へのカウントダウンの始まりでもあったのです。
群雄割拠と袁一族の争い
後ろからの刃:袁紹による地盤乗っ取り
洛陽を制圧し、漢王室の宗廟を清めた孫堅でしたが、彼を待っていたのは凱旋将軍としての栄光ではなく、味方であるはずの連合軍内部からの裏切りでした。孫堅が最前線で董卓と死闘を繰り広げている間に、後方にいた盟主・袁紹が不可解な動きを見せたのです。
袁紹は、従兄弟でありながら対立関係にあった袁術の勢力を削ぐため、部下の周昂(あるいは周隅)を「豫州刺史」として派遣し、孫堅が留守にしている拠点・陽城を襲撃させ、これを奪い取ってしまいました。孫堅は袁術によって「豫州刺史」に推挙されていたため、これは明確な「孫堅の領土の強奪」であり、連合軍同士の共食いでした。
洛陽から戻った孫堅は、変わり果てた本拠地を見て愕然としました。彼は天を仰ぎ、血を吐くような悲痛な叫びを上げました。
「我々は共に義兵を挙げ、国家(社稷)を救わんとしている。逆賊(董卓)は今まさに破れんとしているのに、我々は各々このようなこと(内輪揉め)をしている。私は誰と力を合わせればよいのだ!」
原文:同擧義兵、將救社稷。逆賊垂破、而各若此。吾當誰與戮力乎!
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝 注引『呉録』
孫堅は涙を流しながらも、裏切り者である周昂を攻撃し、撃退しました。しかし、この事件によって「反董卓連合軍」は完全に崩壊しました。中華はこれ以降、董卓を共通の敵とするのではなく、「袁術・公孫瓚・孫堅」のグループと、「袁紹・劉表・曹操」のグループに分かれ、泥沼の代理戦争へと突入していくのです。
最期の戦い:襄陽の包囲
劉表討伐と快進撃
初平2年(191年)、あるいは初平3年(192年)。孫堅は袁術の命を受け、荊州の劉表を攻撃するために出陣しました。劉表は袁紹と結んでおり、袁術にとっては目の上のたんこぶでした。孫堅にとって劉表は、かつての董卓討伐戦の際に協力要請を無視された経緯などもあり、決して好意的な相手ではありませんでした。
孫堅軍の進撃は凄まじいものでした。まず劉表配下の猛将・黄祖が樊城と鄧県の間で迎え撃ちましたが、歴戦の孫堅軍はこれを一蹴して撃破しました。敗走する黄祖を追い、孫堅は漢水を渡って襄陽城を完全に包囲します。
襄陽城に籠もった劉表は、門を閉ざして防戦一方となりました。孫堅は城を二重三重に囲み、日夜猛攻を加えました。董卓すら恐れさせた「江東の虎」の牙が、今まさに劉表の喉元に届こうとしていたのです。
峴山(けんざん)の悲劇
戦況は孫堅の圧倒的優位に進んでいました。しかし、その「圧倒的優位」こそが、孫堅の心にわずかな隙を生じさせたのかもしれません。
ある夜、追い詰められた黄祖は、部下を密かに城から脱出させ、兵を集めて再び孫堅に挑みかかりました。孫堅はこれを迎撃し、またしても黄祖を敗走させます。敵は散り散りになって、深く険しい峴山(けんざん)の中へと逃げ込みました。
「逃すものか」。勝利に酔い、武功を焦った孫堅は、本隊の到着を待たず、わずかな供回りだけを連れて単騎(あるいは数騎)で山中深くへと追撃を開始しました。木々が生い茂る薄暗い山道。そこには、黄祖の部下である呂公が率いる伏兵が潜んでいました。
孫堅が林の中に差し掛かったその瞬間、黄祖の兵により射殺されました。
孫堅は勝利に乗じて深く入り込み、黄祖を撃った。黄祖の軍は敗走し、峴山に入った。孫堅は単騎で山を探ったが、黄祖の軍士によって射殺された。
原文:堅乘勝深入、擊祖。祖軍敗走、走入峴山。堅單騎尋山、爲祖軍士所射殺。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝
注釈に引く『英雄記』では、さらに生々しい最期が描かれています。呂公の兵が山陰から石を落とし、それが孫堅の頭部に直撃。脳髄が飛び散り、その場で即死したといいます。
享年37歳。あまりにもあっけない、しかし彼らしい「前のめり」な最期でした。天下を争う英雄候補の中で、彼が最初の脱落者となりました。彼が倒れた瞬間、呉の建国は大きく遠のき、残された幼い息子たちは、過酷な流浪の運命を背負うことになります。
死後の孫家と評価
桓階の交渉と帰葬
孫堅の遺体は劉表軍の手に落ちました。孫堅軍の長史(参謀役)であった公仇称(こうきゅうしょう)が軍を引き継ぎましたが、総大将の遺体が敵の手にある状態では、撤退するにも士気が関わります。
この時、孫堅がかつて孝廉(官僚候補)に推挙していた桓階という人物が動きました。彼は恩義ある主君の遺体を取り戻すため、危険を顧みず劉表のもとへ使者として赴きました。桓階は堂々と道理を説き、遺体の返還を求めました。
劉表は儒者であり、「義」を重んじる人物でした。彼は桓階の忠義に心を打たれ、また孫堅の死によって脅威が去ったこともあり、遺体の引き渡しに応じました。
取り戻された孫堅の遺体は、長江を渡り、故郷に近い曲阿に葬られました。長男の孫策はまだ10代後半。彼は父の軍勢を袁術に吸収され、自身は一介の客将として、父が仕えた袁術の下で屈辱の日々を送ることになります。しかし、その胸には父から受け継いだ「烈気」が確かに宿っていました。
三国志演義との差異
小説『三国志演義』では、孫堅は前半の主役級として描かれていますが、物語を盛り上げるためにいくつかの改変(あるいは他人の功績へのすり替え)が行われています。
1. 華雄を斬ったのは誰か?
【演義】
董卓軍の猛将・華雄に対し、孫堅は敗北します。その後、無名の馬弓手だった関羽が進み出て、「酒が冷めないうちに」華雄の首を斬って戻ってくるという、関羽デビュー戦の引き立て役として孫堅の敗北が描かれます。
【史実】
前述の通り、陽人の戦いで華雄を捕らえて処刑したのは孫堅自身です。関羽はこの場に居合わせてさえいません。正史における対董卓戦での最大の武功は、間違いなく孫堅のものです。
2. 玉璽を巡る対立
【演義】
孫堅は井戸から玉璽を見つけますが、野心を起こしてこれを隠匿し、「持っていない」と嘘をつきます。しかし、これが袁紹にバレて両者は対立。帰路を劉表に阻まれ、因縁が生まれます。
【史実】
玉璽を発見したこと自体は複数の史料(『呉書』『山陽公載記』)に記述がありますが、孫堅がそれを隠して袁紹と対立したというよりは、そもそも袁術派と袁紹派の派閥争いが原因で戦っています。また、玉璽は最終的に袁術の手に渡っており(孫堅の妻が渡したとも、孫策が渡したとも言われる)、孫堅が玉璽への執着で身を滅ぼしたという描写は、演義による脚色が強いと言えます。
3. その死に様
【演義】
峴山で蒯良の策にはまり、巨石と矢の雨を受けて全身を砕かれ、脳漿が飛び散るという壮絶な死を遂げます。その死体回収のために、捕虜にした黄祖と交換するというドラマチックな展開が用意されています。
【史実】
単騎で突出して射殺(または石で殴殺)されるという点は共通していますが、比較的あっけない最期でした。また、黄祖を捕虜にした事実はなく、黄祖はその後も長く生き延び、孫家にとっての「父の仇」として、孫策・孫権の前に立ちはだかり続けます。
一族
- 妻: 呉夫人(武烈皇后。才色兼備で知られ、孫堅の求婚を親族が反対した際、「私が嫁がなければ彼に恨まれる」と言って説得した聡明な女性)
- 弟: 孫静(字は幼台。孫堅と共に挙兵したが、後に故郷を守ることを選び、静かな余生を送った)
- 長男: 孫策(小覇王。父の死後、わずかな手勢から江東を平定した天才)
- 次男: 孫権(呉の初代皇帝。父と兄の基盤を受け継ぎ、長期政権を築いた)
- 三男: 孫翊(性格も武勇も父・孫堅に最も似ていたと言われるが、暗殺された)
- 娘: 孫夫人(いわゆる孫尚香。劉備に嫁ぐ。武芸を好み、侍女にも剣を持たせていた)
評価
正史『三国志』の著者・陳寿は、孫堅を次のように評しています。
孫堅は勇気と烈気によって、その身を低い身分から起こし、英雄たちと並んで名を馳せた。忠壮の心をもって激しい働きをした。
しかし、己の強さを恃(たの)んで軽率な行動をとり、警戒をおろそかにして命を縮めた。
原文:孫堅勇摯剛毅、孤微發跡、導溫戮卓、山陵杜塞、有忠壯之烈。……然皆輕佻果躁、隕身致敗。
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝 評
陳寿の評価は冷徹です。「勇気と忠義は素晴らしいが、慎重さに欠け、自業自得で死んだ」と断じています。確かに、指揮官が単騎で敵を深追いして死ぬというのは、軍事的には失策以外の何物でもありません。
注釈者の裴松之もまた、厳しい言葉を残しています。
「孫堅は、たとえ敵(黄祖)が逃げ隠れたとしても、部下に搜索させればよかったのだ。自分自身が険しい山道に分け入り、石を投げれば当たるような距離まで近づく必要がどこにあったのか。匹夫(身分の低い男)の勇を振るい、軽率に命を捨ててしまった。これでは覇王の業を成すことなど到底できない」
出典:『三国志』呉書1 孫破虜討逆伝 注引
しかし、裏を返せば、その「後先を考えない猪突猛進さ」こそが孫堅の魅力であり、彼が董卓という巨悪に唯一恐怖を与えられた理由でもありました。計算高い袁紹や曹操にはできなかった「正面突破」を、彼はやってのけたのです。
漢王朝への忠誠心を持ちながら、乱世の野心に焼かれ、最後はその炎の中で燃え尽きた男、孫堅。彼の死によって残された「武の遺伝子」は、息子の孫策へと受け継がれ、より洗練された形で開花することになります。