【荀彧(文若)】曹操が最も愛し、最も恐れた「王佐の才」の生涯
三国志の英雄・曹操の覇業を語る上で、絶対に欠かせない人物がいます。彼の名は荀彧。
武勇で敵をなぎ倒す将軍ではなく、静かなる知性で国家の設計図を描いた孤高の政治家です。曹操からは「我が子房(前漢の張良)」と絶賛され、数十年にわたり陣営のナンバー2として君臨しましたが、その晩年は主君との思想的対立により、あまりにも悲劇的な結末を迎えました。
なぜ彼は曹操を選び、そしてなぜ決別しなければならなかったのか。正史『三国志』魏書・荀彧伝に基づき、その高潔な生涯を紐解きます。
生涯
幼少期〜青年期:名門・潁川荀氏の麒麟児
荀彧は、後漢王朝が黄昏を迎えた163年、豫州潁川郡(現在の河南省許昌市)に生まれました。
この潁川という土地は、当時の知識人ネットワークの中心地であり、数多くの優れた官僚や文人を輩出した「人材の宝庫」として知られています。その中でも荀氏は、「荀氏八龍」と称えられた荀淑を祖とする名門中の名門でした。
荀彧の父・荀甝もまた高潔な人物でしたが、若き日の荀彧自身の名声は、それを遥かに凌ぐ勢いで広がっていきます。彼の才能をいち早く見抜いたのは、人物鑑定の大家として知られた何顒でした。彼はまだ少年の面影を残す荀彧を見て、歴史に残る評価を下しています。
評価:王を補佐して天下を泰平に導く、非凡な才能の持ち主である。
原文:王佐才也。
出典:『三国志』魏書 荀彧伝
「王佐の才」。それは単に賢いだけでなく、国家を運営し、王者を支える器量を持つ者への最大級の賛辞でした。
また、当時の権力者であった中常侍の唐衡は、自身の権勢を盤石にするため、名門荀氏との婚姻を望みました。多くの名士が宦官との縁談を嫌う中、荀彧の父は政治的なバランスを考慮したのか、この縁談を受け入れます。若き荀彧は唐衡の娘を妻に迎えることになりましたが、この「宦官の娘婿」という立場が、皮肉にも後に彼が曹操(宦官の祖父を持つ)という人物に共感する一つの精神的土壌となったのかもしれません。
乱世の幕開けと一族の移住
189年、霊帝が崩御すると、首都・洛陽は血で血を洗う混乱に陥りました。大将軍・何進が暗殺され、それに激昂した袁術らが宮中の宦官を虐殺。その混乱に乗じて西涼の怪物・董卓が都を制圧し、恐怖政治を開始します。
この時、すでに官職に就いていた荀彧は、冷静に情勢を分析していました。「潁川は四方を敵に囲まれた交通の要衝であり、戦乱が本格化すれば真っ先に戦火に巻き込まれる」と予見した彼は、一族郎党を説得して故郷を離れることを決意します。
しかし、故郷への愛着から多くの長老たちは移動を渋りました。荀彧はやむを得ず、自分に従う者だけを連れて北方の冀州へと避難を開始します。彼の予見通り、その直後に董卓配下の李傕らが潁川を襲撃し、逃げ遅れた多くの住民が殺戮される悲劇が起きました。
冀州に到着した荀彧を待っていたのは、当時その地を支配していた韓馥ではなく、反董卓連合軍の盟主として名声を高めていた名門・袁紹でした。袁紹は荀彧の名声を慕い、彼を上賓の礼で迎え入れます。しかし、荀彧の目は冷徹でした。彼は袁紹の陣営で過ごす中で、その華美な見かけとは裏腹の「決断力のなさ」と「人材活用の拙さ」を見抜いてしまったのです。
評価:袁紹という人物は、うわべは寛大に見えるが内実は猜疑心が強く、無駄な策ばかり弄して決断ができない。
原文:紹、貌外寬而内忌、任人而疑其心。
出典:『三国志』魏書 荀彧伝(※裴松之注に引く文脈より要約)
荀彧は悟りました。「この人物と共に、天下を平らげることはできない」と。
曹操との運命的な出会い
191年、荀彧は大きな賭けに出ます。名門であり最大勢力を誇る袁紹を見限り、当時はまだ東郡太守という一地方官に過ぎなかった曹操の元へと奔ったのです。時に荀彧、29歳。
曹操にとって、これは衝撃的な出来事でした。名だたる名士たちがこぞって袁紹に群がる中、天下の「王佐の才」が自ら自分を選んでくれたのです。曹操は到着した荀彧を見て、手放しで喜びました。
評価:彼こそは、我が張良(子房)である!
原文:吾之子房也。
出典:『三国志』魏書 荀彧伝
「子房」とは、かつて漢の太祖・劉邦を支え、天下統一の立役者となった天才軍師・張良の字です。曹操はこの瞬間、荀彧を単なる部下としてではなく、自分の覇業を共有するパートナーとして迎え入れたのです。荀彧は司馬(軍事参謀)に任じられ、以後、曹操の戦略の中枢を担うことになります。
当時、董卓は長安に遷都し、圧倒的な軍事力を誇っていました。曹操が「董卓をどう倒すべきか」を問うと、荀彧は静かに答えます。「董卓の暴虐は極まり、民心は離れています。彼は自滅の道を歩んでおり、もはや恐れるに足りません」。その言葉通り、翌年には董卓は部下の呂布に裏切られ、あっけない最期を遂げることになります。
絶体絶命の危機:兗州防衛戦
荀彧の真価が初めて発揮されたのは、194年に訪れた魏(曹操軍)存亡の危機においてでした。
陶謙討伐と張邈の裏切り
この年、曹操は父・曹嵩を殺害された恨みを晴らすため、徐州の陶謙に対して大規模な侵攻を開始しました(徐州の戦い)。本拠地である兗州の留守を任されたのは、荀彧と、剛胆な知将・程昱でした。
曹操の主力軍が出払った隙を突き、曹操の親友であったはずの張邈と、参謀の陳宮がまさかの謀反を起こします。彼らは流浪の猛将・呂布を引き入れ、兗州全土に檄を飛ばしました。
「曹操の暴虐にはもう耐えられない。呂布将軍と共に新しい時代を作ろう」
この呼びかけに、兗州の郡県は雪崩を打って呼応し、瞬く間にほぼ全土が呂布の手に落ちました。残されたのは、荀彧が守る鄄城と、濮陽近くの范、東阿のわずか3城のみ。曹操の勢力は、一夜にして消滅寸前にまで追い込まれたのです。
鄄城での孤軍奮闘
鄄城に残された兵力はわずかでした。さらに悪いことに、豫州刺史の郭貢が数万の軍勢を率いて城下に現れます。彼は「荀彧殿に面会したい」と要求しましたが、味方か敵かは不明瞭でした。周囲の者は「郭貢は呂布と通じているかもしれない。城を出れば殺される」と猛反対します。
しかし荀彧は冷静でした。「郭貢は平時から呂布と親しいわけではない。今すぐ会って説得すれば中立を保てるが、拒絶すれば必ず敵に回る」。そう判断した彼は、護衛もつけずに堂々と城を出て郭貢と会見しました。その恐れを知らぬ態度に気圧された郭貢は、攻撃を思いとどまり軍を引きます。
内憂を断った荀彧は、直ちに程昱を派遣し、動揺する范と東阿の県令を説得させ、防衛体制を固めさせました。こうして、荀彧と程昱は、曹操が帰還するまでの間、呂布の猛攻から「最後の3城」を死守し抜いたのです。
急いで徐州から引き返してきた曹操は、わずかに残された拠点が守り抜かれているのを見て、荀彧の手を取り涙を流したといいます。もしこの時、荀彧が城を捨てていれば、あるいは判断を誤っていれば、後の魏の皇帝・曹丕も生まれず、三国志の歴史はここで終わっていたでしょう。
その後、曹操軍は飢饉に苦しみながらも、荀彧の献策に従って着実に勢力を回復させます。そして195年、ついに呂布を兗州から追い落とし、本拠地を奪還することに成功しました(濮陽の戦い)。この功績により、荀彧の地位は不動のものとなります。
「迎天子」の大計と王佐の証明
196年、歴史を動かす転機が訪れます。長安を脱出した献帝が、荒廃した洛陽に帰還したのです。しかし、かつての帝都は見る影もなく、皇帝はイバラの中で野宿し、官僚たちは餓死寸前という惨状でした。
曹操の陣営では議論が巻き起こります。「皇帝を保護すべきか」。多くの将軍は反対しました。「洛陽は遠く、兗州はまだ安定していません。それに韓暹・楊奉といった厄介な連中が皇帝を取り巻いています」。
しかし、荀彧だけは断固として主張しました。「今こそが千載一遇の好機です」と。彼は歴史の先例(晋の文公や後漢の光武帝)を挙げ、曹操にこう進言しました。
評価:主君をお迎えして民の期待に応えること、これこそが道義にかなった「大順」です。
原文:奉主上以従民望、大順也;秉至公以服雄傑、大略也;扶弘義以致英俊、大德也。
出典:『三国志』魏書 荀彧伝
この言葉に突き動かされた曹操は、直ちに軍を率いて洛陽へ向かい、献帝を保護。さらに、自身の本拠地に近い許都(許昌)への遷都を断行しました。
これにより曹操は「天子を擁して不義を討つ」という圧倒的な政治的正当性(大義名分)を手に入れました。群雄たちが領土の奪い合いに明け暮れる中、荀彧の視点だけは「国家の権威」という一段高い次元にあったのです。
官渡の戦い:最強・袁紹への挑戦
許都で勢力を拡大する曹操に対し、北方の覇者・袁紹は公孫瓚を滅ぼし、全兵力を南下させようとしていました。その兵力差は、曹操軍の数万に対し、袁紹軍は十万以上。誰もが「曹操に勝ち目はない」と震え上がりました。
孔融との論戦:敵将を「斬る」
名士の代表格である孔融もまた、悲観論者の一人でした。彼は荀彧に対し、袁紹軍の強大さを説いて降伏を促します。
「袁紹軍には、知謀の田豊・許攸がおり、猛将の顔良・文醜が控えている。勝てるわけがない」
これに対し、荀彧は笑って答えました。そして、後にその予言がすべて現実となる「人物批評」を展開します。
- 田豊:剛直すぎて、必ず主君に疎まれる。
- 許攸:強欲すぎて、必ず裏切る。
- 審配・逢紀:独断専行で、内輪揉めを起こす。
- 顔良・文醜:個人の武勇に頼るだけの匹夫。一戦して生け捕りにできる。
荀彧にとって、組織としての統率が取れていない袁紹軍は、巨大ではあっても恐るるに足りない「烏合の衆」だったのです。
官渡からの手紙
200年、決戦の火蓋が切られました(官渡の戦い)。
しかし、戦況は過酷を極めました。曹操は最前線の官渡城で防戦に努めましたが、兵糧は尽きかけ、周囲は敵だらけ。弱気になった曹操は、留守を守る荀彧に手紙を送ります。「もう撤退して許都に戻りたいのだが……」。
これを受け取った荀彧は、直ちに返書をしたためました。それは、挫けそうになる主君の心を奮い立たせる、魂の檄文でした。
評価:殿は十分の一の兵力で強大な敵を半年も食い止めています。これはかつての楚漢戦争と同じ、天下分け目の正念場です。相手の勢いが尽きた今こそが奇策を用いる時。どうか、絶好の機会を逃さないでください。
原文:公以十分居一之衆、畫地而守之、扼其喉而不得進、已半年矣。情見勢竭、必將有變、此用奇之時、不可失也。
出典:『三国志』魏書 荀彧伝
この手紙を読んだ曹操は、歯を食いしばって踏みとどまりました。そして荀彧の予言通り、許攸の寝返りという「変化」が起き、烏巣の兵糧庫を奇襲することで奇跡的な大逆転勝利を収めたのです。戦場に立たずとも、荀彧こそがこの勝利の最大の功労者でした。
晩年:深まる亀裂と悲劇の結末
官渡の戦いの後、荀彧は冀州の平定や荊州の攻略計画にも深く関与しました。特に208年、曹操が荊州へ南下する際、「宛・葉という抜け道から奇襲をかければ、劉表は不意を突かれて降伏するでしょう」と進言し、その通りに無血開城を成功させています。
しかし、天下統一が近づくにつれ、曹操の権勢は漢王朝の枠組みを超え始めました。そして212年、決定的な事件が起こります。
側近の董昭らが、曹操を「魏公」に進め、九錫(きゅうしゃく)という特別な栄誉を与えようと画策したのです。これは事実上、漢王朝からの禅譲(皇位簒奪)への第一歩でした。
董昭は事前に荀彧に根回しをしましたが、荀彧はこれを断固として拒絶しました。
評価:曹操公が義兵を挙げたのは、漢王朝を救い、国家を安んじるためでした。君子は徳によって人を愛するものであり、そのような真似(簒奪への道)はすべきではありません。
原文:太祖本興義兵以匡朝寧國、秉忠貞之誠、守退讓之實;君子愛人以德、不宜如此。
出典:『三国志』魏書 荀彧伝
この反対により、曹操は魏公就任を一時見送らざるを得なくなりました。しかし、曹操の心には荀彧への深い不満が刻まれました。「我が子房」と呼び合った二人の関係は、ここで完全に破綻したのです。
その直後、荀彧は孫権討伐の軍に同行を命じられますが、途中の寿春で病に倒れました。そしてそのまま回復することなく、憂いの中で息を引き取りました。享年50。その死は、漢王朝への忠誠と、曹操への友情の板挟みになった末の、あまりに孤独な最期でした。
三国志演義との差異
「空の器」と服毒自殺
小説『三国志演義』では、荀彧の死はさらに劇的に描かれています。病床の荀彧のもとに、曹操から見舞いの品として「食器(桶)」が届きます。しかし、開けてみると中身は「空っぽ」でした。
「もはやお前が食う飯はない(用済みだ)」という曹操の非情なメッセージを悟った荀彧は、絶望して毒を飲み自殺します。
これは非常に有名なエピソードですが、正史の記述はあくまで「病死(憂死)」です。ただし、裴松之が注釈で引く『魏氏春秋』にはこの「空箱」のエピソードが記されており、演義はこれを採用しています。どちらにせよ、彼が曹操に疎まれて失意のうちに亡くなったことは史実と変わりません。
赤壁の戦いでの不在
演義では、赤壁の戦いにおいて、荀彧は許都の留守番をしています。もし彼が戦場にいれば、曹操の敗北を防げたかもしれません。正史でも荀彧は随行していませんが、後に曹操が敗走した際、「もし郭嘉が生きていれば、私をこんな目に遭わせなかっただろう」と嘆くシーンがあります。この時、存命だった荀彧の名が挙がらなかったこと自体が、二人の距離感を暗示しているとも言えます。
一族
- 荀甝(父):済南の相。
- 荀攸(従子):荀彧の甥(年齢は荀彧より年上)。共に曹操に仕え、戦術面で多大な功績を挙げた。
- 荀カ(子):魏の虎賁中郎将。早世した。
- 荀顗(孫):晋(西晋)の開国の功臣となり、司徒にまで登り詰めた。
評価
司馬懿
評価:書物に書かれている数百年、数千年の歴史を見渡しても、荀彧殿に並ぶ賢人は数えるほどしかいない。
原文:吾自耳目所従聞見、逮百数十年閒、賢才未有及荀令君者也。
出典:『三国志』魏書 荀彧伝 注引『三国志』
陳寿(正史の著者)
評価:清らかで優雅な風格を持ち、王者を補佐する絶大な才能を持っていた。しかし、その志を完全に遂げることはできなかった。なんと惜しいことであろうか。
原文:荀彧清秀通雅、有王佐之風、然機鑑先識、未能充其志也。惜哉!
出典:『三国志』魏書 荀彧伝 評