荀彧
生涯
名族・潁川荀氏の系譜
時は後漢末期、政治の中枢が腐敗し、地方では知識人層(士大夫)が清流派として独自の権威を確立していた時代。潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)に、天下にその名を知られる名家がありました。それが荀氏です。
荀彧の祖父にあたる荀淑(字は季和)は、朗陵県の令を務めた人物で、その徳の高さから「神君」と称されました。荀淑には8人の息子がおり、その全員が優れた才能を持っていたため、人々は彼らを「八龍」と呼び称えました。荀氏の正門には、その高名を慕う多くの知識人が訪れ、一族が住む里は、かつての伝説の帝王・高陽氏の才子になぞらえて「高陽里」と名付けられるほどでした。
荀彧の父・荀緄(字は仲慈)は、この八龍の次男にあたり、済南国の相を務めました。また、叔父にあたる六男の荀爽(字は慈明)は、幼少より『春秋』『論語』に通じ、95日間で布衣(官位のない身分)から三公の一つである司空にまで昇りつめた傑物です。
このような儒教的教養と名声に満ちた一族の中で、荀彧は延熹6年(163年)に生を受けました。彼は若くして非凡な輝きを放っており、南陽の知恵者として知られる何顒は、少年の頃の荀彧を見て、次のように評価したと伝えられています。
「これは王佐の才(王者を補佐して大業を成し遂げる才能)である」
原文:王佐才也。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
この「王佐」という言葉は、前漢の張良や蕭何のような、国家の設計図を描く最高レベルの宰相を意味します。何顒の眼力は確かであり、この評価は後の荀彧の生涯を決定づける予言となりました。
権力との距離と婚姻の謎
清廉潔白を旨とする名族・荀氏にあって、荀彧の婚姻には一つの「汚点」とも取られかねない記録が残されています。
当時、宮廷では宦官が絶大な権力を振るっており、その中心人物の一人である中常侍・唐衡は、自身の権勢を盤石にするため、名士との婚姻を望んでいました。唐衡は当初、汝南の傅公明という人物に娘を嫁がせようとしましたが、傅公明はこれを拒絶します。そこで唐衡は矛先を変え、荀彧に娘を嫁がせたのです。
『典略』という史料には「父の荀緄が唐衡の権勢を慕って婚姻を結んだため、荀彧は世間の識者から批判された」と記されています。清流派の筆頭である荀氏が、濁流の象徴である宦官と縁組することは、当時の倫理観では許されざる行為でした。
しかし、正史『三国志』に注を付けた裴松之は、この記述に対して猛烈に反論し、荀彧の名誉を擁護しています。
裴松之の考証によれば、唐衡が死去したのは延熹7年(164年)であり、荀彧はその時まだ2歳に過ぎません。したがって「荀彧の婚姻の日に唐衡の権勢を慕った」という記述は時系列的に矛盾しています。さらに裴松之は、父・荀緄の人柄についても言及しています。
当時の宦官の力は「天を回す」ほど強大であり、逆らえば一族皆殺しの憂き目にあう状況でした。荀緄は「八龍」の一人としての高い見識を持っており、決して権力に媚びるような人物ではありません。彼がこの屈辱的な婚姻を受け入れたのは、宦官の暴虐から一族を守るための、苦渋の決断であったと推察されます。
結果として、荀彧はこの妻を娶りましたが、彼自身の清廉さが損なわれることはありませんでした。むしろ、濁った泥の中にありながら染まらない蓮のように、若き荀彧の人物はいよいよ重きをなしていったのです。
乱世の予見と故郷からの脱出
永漢元年(189年)、荀彧は孝廉に推挙され、守宮令(宮中の筆記用具などを管理する官職)に任じられました。しかしこの年、都・洛陽は激動の渦に飲み込まれます。霊帝が崩御し、大将軍・何進が殺害され、西涼の軍閥・董卓が入京して朝廷を掌握したのです。
董卓による少帝廃立と暴政を目の当たりにした荀彧は、もはや漢の朝廷に自浄作用がないことを悟ります。彼は「亢父県の令になりたい」と願い出て、守宮令の職を辞し、任地へ赴くという名目で洛陽を脱出しました。しかし実際には任地へは行かず、そのまま故郷の潁川へ帰還します。
故郷に戻った荀彧は、父老たちを集めて緊急の警告を発しました。
「潁川は四方を戦場に囲まれた『四戦の地』です。天下に変事があれば、常に兵衝(軍隊の通り道)となります。一刻も早くこの地を去るべきです。長く留まってはいけません」
原文:潁川,四戰之地也,天下有變,常為兵衝,宜亟去之,無久留。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
当時の潁川は豊かで文化的な土地であり、多くの人々は郷土愛から土地を離れることを躊躇しました。しかし荀彧の決意は固く、一族のみを率いて北方の冀州へと避難を開始します。
ちょうどその頃、冀州牧の韓馥が騎兵を派遣し、荀彧を迎え入れようとしていました。韓馥もまた潁川の出身であり、同郷の英才である荀彧を頼りにしたのです。荀彧の一族が去った後、彼の予言通り、董卓の配下である李傕らの軍勢が関東へ進出しました。潁川・陳留といった地域は略奪の限りを尽くされ、故郷に留まった多くの人々が殺戮の犠牲となりました。荀彧の先見の明は、一族の命を救う結果となったのです。
袁紹への失望と決断
荀彧が一族を率いて冀州の鄴(ぎょう)に到着した頃、政治情勢はさらに大きく変動していました。彼を招いたはずの韓馥は、名門・袁家の袁紹によって脅迫され、冀州牧の地位を譲り渡して失脚していたのです。
代わって冀州の支配者となった袁紹は、荀彧を上賓の礼(最上級の客人の扱い)で迎え入れました。当時、荀彧の弟である荀諶や、同郷の辛評・郭圖といった名士たちがこぞって袁紹に仕えており、袁紹の勢力は天下で最も強大になりつつありました。
しかし、荀彧の観察眼は、袁紹の華やかな名声の裏にある本質を見抜いていました。『三国志』の記述によれば、荀彧は袁紹の人物像を次のように判断しました。
「袁紹は、最終的には大事を成し遂げることはできないだろう」
原文:彧度紹終不能成大事
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
袁紹は外見は寛容に見えますが、内実は嫉妬深く、決断力に欠けていました。人材を集めることはできても、彼らの才能を適切に使いこなす器量がなかったのです。荀彧は、安定した冀州での高待遇に安住することを拒み、新たな主君を求める決断を下します。
運命の邂逅・曹操への帰順
初平2年(191年)、曹操は奮武将軍となり、東郡に駐屯していました。当時37歳の曹操は、反董卓連合軍が瓦解する中で独自の動きを見せ始めていましたが、袁紹に比べればその勢力は微々たるものでした。
しかし荀彧は、弟の荀諶や同郷の友人たちが袁紹のもとに留まるのを尻目に、迷うことなく袁紹のもとを去り、曹操の陣営へと身を投じます。この時、荀彧は29歳でした。
荀彧の来訪を受けた曹操の喜びようは尋常ではありませんでした。彼は荀彧を迎え入れるなり、手放しでその才能を称賛しました。
「わが子房(張良)が来た!」
原文:吾之子房也。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
「子房」とは、前漢の高祖・劉邦を支えた天才軍師・張良の字(あざな)です。曹操は荀彧を、単なる参謀ではなく、自らの覇業を根底から支えるパートナーとして認識したのです。曹操は直ちに荀彧を司馬(軍事をつかさどる官職)に任じ、常に側近くに置いて助言を求めました。
当時、董卓の威光は天下を覆っていましたが、曹操が荀彧に「董卓の情勢をどう見るか」と尋ねると、荀彧は即座にその滅亡を予言しました。
「董卓の暴虐は甚だしく、必ずや反乱によって終わるでしょう。何も恐れることはありません」
原文:卓暴虐已甚,必以亂終,無能為也。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
この言葉通り、翌年には董卓は養子の呂布によって殺害されます。荀彧の洞察は、出会いの当初から冴え渡っていました。こうして、曹操と荀彧という、三国時代を最も強力に牽引することになるコンビが結成されたのです。
兗州防衛戦での功績
翌年、曹操は兗州牧となり、本拠地を兗州(現在の山東省西部)に定めました。荀彧は鎮東将軍の司馬として、常に曹操に従軍しました。しかし、二人の信頼関係が真の意味で試される最初の試練は、興平元年(194年)に訪れます。
この年、曹操は父・曹嵩を殺害された恨みを晴らすため、全軍を挙げて徐州の陶謙を攻撃しました。本拠地である兗州の留守は、荀彧に委ねられました。しかし、曹操が留守にしたその隙を突き、予期せぬ裏切りが発生します。曹操の長年の盟友であった張邈と、参謀格の陳宮が共謀し、猛将・呂布を兗州に引き入れたのです。
張邈と陳宮の影響力は絶大で、兗州郡内のほとんどの城が即座に呂布に呼応しました。曹操に残された拠点は、荀彧がいる鄄城(けんじょう)、そして東阿、范のわずか三城のみという絶体絶命の状況に陥ります。
三城の死守と孤独な決断
鄄城の中にいた荀彧のもとにも、張邈からの使者が訪れました。「呂布将軍が曹操殿を援護するために来たので、食料を供出せよ」というのです。荀彧は即座に彼らの謀反を察知しましたが、手持ちの兵力は少なく、城内の動揺を防ぐため表向きは平静を装いました。
荀彧は密かに濮陽に駐屯していた夏侯惇に使者を送り、救援を求めます。夏侯惇が到着すると、城内で反乱を企てていた数十人を即座に処刑し、ようやく鄄城の治安を安定させました。
その矢先、豫州刺史の郭貢が数万の兵を率いて鄄城の城下に現れました。郭貢が敵か味方かは不明であり、城内は恐怖に包まれます。郭貢は「荀彧殿と面会したい」と申し入れますが、夏侯惇らは「君は州の重鎮だ、危険すぎる」と猛反対しました。しかし荀彧は、冷静に状況を分析し、周囲を説得します。
「郭貢と張邈らは普段から結託していたわけではなく、今急いでやってきたのは、まだ心が定まっていないからです。私が説得すれば中立を保てますが、疑って会わなければ怒って敵に回るでしょう」
原文:貢與邈等,非素結也,今來速,計必未定;及其未定說之,縱不為用,可使中立,若先疑之,彼將怒而為寇。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
荀彧は護衛もつけずに身一つで城を出て、郭貢と会見しました。その堂々とした態度を見た郭貢は、荀彧には何か勝算があるのだと感じ取り、兵を引いて去っていきました。
さらに荀彧は、別働隊として程昱を派遣し、動揺する東阿と范の二城を説得させ、この三城を死守する防衛線を確立します。こうして、荀彧の神がかった采配により、曹操は帰るべき拠点を失わずに済んだのです。
「高祖・光武帝」の故事による諫言
曹操が徐州から急行して戻ると、呂布との間で激しい攻防戦が始まりました(濮陽の戦い)。両軍ともに兵糧が尽き、一時は膠着状態となります。
その最中、徐州の陶謙が病死しました。曹操は、食糧不足の兗州での戦いを一時中断し、再び徐州を攻めて物資を確保しようと考えます。しかし、荀彧はこの方針に真っ向から反対し、歴史の教訓を引いて諫めました。
「かつて漢の高祖(劉邦)は関中を確保し、光武帝は河内を拠点として、天下を平定しました。まずは根本となる地盤を固めることが先決です。今、兗州は破壊されているとはいえ、我々の故郷です。ここを捨てて徐州を攻めれば、呂布に背後を突かれ、進むことも退くこともできなくなります」
原文:昔高祖保關中,光武據河內,皆深根固本以制天下,進足以勝敵,退足以堅守,故雖有困敗而終濟大業。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
荀彧はさらに、現在は麦の収穫期であり、兗州の麦を刈り取って兵糧を確保すれば、呂布を撃破できると具体的に進言しました。曹操はこの理路整然とした戦略を受け入れ、徐州遠征を中止します。
結果として、荀彧の読み通り曹操軍は兵糧を確保し、疲弊した呂布軍を撃破することに成功しました。建安元年(196年)、ついに兗州全土が平定され、曹操の覇業の基盤が固まったのです。
奉主上 〜献帝の奉戴と許都遷都〜
兗州平定と同じ頃、長年の懸案であった献帝の動向に変化が生じます。李傕・郭汜らの内紛により荒廃した長安を脱出し、献帝が洛陽へ向けて帰還の途についたのです。
曹操はこれを好機と捉え、献帝を迎え入れようと提案します。しかし、配下の将軍たちの多くは反対しました。「山東はまだ平定されておらず、韓暹や楊奉といった白波賊の残党が天子につきまとっており、制御するのは困難だ」というのが理由でした。
この議論の中で、荀彧はただ一人、断固として「迎えるべき」と主張します。彼は晋の文公が周の襄王を迎え入れて覇者となった故事を引用し、政治的な正義(大義名分)の重要性を説きました。
「天子をお迎えして民の願いに従うことは、これ以上ない大義名分です(奉主上以従民望)。大義をもって英傑を招けば、従わない者はいないでしょう。今この機を逃せば、四方の英雄たちが天子を擁立しようと動き出し、後からでは手遅れになります」
原文:奉主上以從民望,大順也;秉至公以服雄傑,大略也;扶弘義以致英俊,大德也。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
荀彧の言葉に心を動かされた曹操は、自ら軍を率いて洛陽へ向かい、献帝を迎え入れました。そして、荒廃した洛陽に代わり、自らの本拠地に近い「許(許昌)」への遷都を断行します。
ここに「許都」が誕生し、曹操は大将軍として朝廷の実権を掌握しました。荀彧は漢の侍中・守尚書令に任じられます。尚書令とは、皇帝の詔勅を司る枢機(中枢)の要職であり、荀彧はこれ以後、名実ともに曹操政権の「筆頭政治家」として、宮中の万機を取り仕切ることになります。
「四勝四敗」〜対袁紹戦略の立案〜
許都での新政権が発足したものの、北方の冀州では袁紹が公孫瓚を滅ぼし、四州(冀・青・幽・並)を併合して巨大な勢力を築いていました。袁紹は曹操に対し、傲慢で無礼な手紙を送りつけてきます。
その手紙を読んだ曹操は激怒し、同時に強大な袁紹軍への対抗心から自信を喪失しかけていました。その様子を見た荀彧は、曹操と袁紹を比較し、曹操が勝利する4つの理由(四勝四敗説)を挙げて励ましました。
さらに、名士の孔融が「袁紹軍は強力だ。知謀の士である田豊・許攸が参謀となり、審配・逢紀が事務を統括し、顔良・文醜という猛将が軍を率いている。勝てるはずがない」と悲観的な見解を述べた際、荀彧は即座に彼らを酷評して反論しました。
「袁紹の兵は多いといっても、法制が整っていないので恐れるに足りません。田豊は強情で上に逆らい、許攸は貪欲で自制心がなく、審配は独断専行で計画性がなく、逢紀は果断だが自己中心的です。必ずや内輪揉めを起こすでしょう。顔良と文醜に至っては、匹夫の勇(思慮のない蛮勇)に過ぎず、一戦にして捕虜にできるでしょう」
原文:田豐剛而犯上,許攸貪而不治。審配專而無謀,逢紀果而自用,此二人留知後事,若攸家犯法,必不能縱,不縱,攸必為變。顏良、文醜,一夫之勇耳,可一戰而禽也。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
この荀彧の予言は、後の官渡の戦いにおいて、恐ろしいほどの正確さで次々と現実のものとなります。荀彧は単に事務処理に長けていただけではなく、敵の将軍や参謀の性格的欠陥までをも見抜く、卓越した人間観察眼を持っていたのです。
神算鬼謀の的中 〜予言された袁紹軍の崩壊〜
建安5年(200年)、ついに袁紹が大軍を率いて南下を開始しました。天下分け目の決戦となる官渡の戦いの幕開けです。
曹操は前線に向かいましたが、荀彧は首都・許昌の留守居役として後方に残りました。これは単なる留守番ではなく、兵站(補給)の維持、朝廷の監視、そして背後を脅かす他勢力への外交対策という、極めて重大な任務でした。
戦局は荀彧の読み通りに推移しました。まず、袁紹軍の先鋒である顔良と文醜が、白馬の戦いおよび延津の戦いで、曹操軍(客将となっていた関羽ら)によって次々と討ち取られました。
「十分の一」の奇跡 〜撤退論を封じる一通の手紙〜
孫策の脅威は去りましたが、正面の袁紹軍との戦いは泥沼化していました。袁紹軍は土山を築いて矢を射かけ、地下道を掘って陣営に侵入しようと試みます。曹操軍はこれに必死に応戦しましたが、兵力差は圧倒的で、兵糧も尽きかけていました。
弱気になった曹操は、許昌にいる荀彧へ手紙を送り、「許昌に撤退したい」と相談を持ちかけます。しかし、荀彧からの返信は、その弱腰を厳しく諌め、鼓舞するものでした。
「今、食糧が少ないといっても、楚と漢が滎陽・成皋で対峙していた時ほどではありません。当時は劉邦も項羽も、先に退いたほうが負けだと知っていました。公(曹操)は、袁紹の十分の一の兵力で持ちこたえています。これは、袁紹の力が尽きようとしている証拠です。今こそが、奇策を用いて敵を破る絶好の機会です。絶対に逃してはいけません」
原文:公以十分居一之衆,畫地而守之,扼其喉而不得進,已半年矣。情見勢竭,必將有變,此用奇之時,不可失也。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
この手紙に勇気づけられた曹操は、歯を食いしばって戦線に留まりました。すると間もなく、荀彧が以前に「貪欲で自制心がない」と評した許攸が、家族が罪に問われたことを恨んで袁紹を裏切り、曹操のもとへ投降してきました。
許攸の情報により、袁紹軍の兵糧集積地である烏巣の警備が手薄であることが判明します。守将は、酒飲みとして知られる淳于瓊でした。曹操は自ら精鋭を率いて烏巣を急襲し、兵糧を焼き払いました。これにより袁紹軍は総崩れとなり、曹操は大逆転勝利を収めたのです。
「田豊は強情で、審配は独断専行する」という荀彧の指摘も現実となり、敗戦の混乱の中で田豊は処刑され、袁紹陣営は内部から崩壊していきました。官渡の勝利は、戦場にいた曹操の武勇と、後方にいた荀彧の戦略眼の結晶だったのです。
河北平定と荊州攻略の優先順位
官渡の戦いの後、袁紹は失意のうちに病死しました。その子供である袁譚・袁尚兄弟が後継者争いを始めると、曹操はこれに乗じて河北(黄河の北側)への侵攻を本格化させます。
建安8年(203年)、曹操は袁尚を攻撃しましたが、完全には攻略できず、一度撤退を考えました。そして、矛先を変えて南方の荊州・劉表を攻めようと計画します。
これに対して荀彧は、「今は河北を完全に平定することが最優先です」と反対しました。
「今、袁氏は兄弟で争っており、その力は弱まっています。しかし、もし背後の安全を確保せずに荊州へ遠征すれば、袁尚と袁譚は和睦して背後を突いてくるでしょう。そうなれば、天下の行方はわからなくなります」
原文:今紹敗,其衆離心,宜乘其困,遂定之;而背兖、豫,遠師江、漢,若紹收其餘燼,承虛以出人後,則公事去矣。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
曹操は再び荀彧の意見を採用して北進を継続し、ついに鄴を陥落させ、冀州を平定しました。これにより、曹操は中国の最大勢力としての地位を不動のものとしました。
関中への布石と司馬懿の推挙
北方の脅威が取り除かれつつある中で、荀彧は西方の関中(長安周辺)の安定にも心を砕いていました。関中には韓遂や馬騰といった強力な軍閥が割拠していました。
荀彧は曹操に対し、「関中の諸将は、東での戦争が終わるのを待ってから自分たちの身の振り方を決めようとしています。今は恩徳を施して彼らを懐柔すべきです」と進言し、その任にふさわしい人物として鍾繇を推薦しました。鍾繇は見事にその期待に応え、関中の安定に貢献しました。
また、この時期の荀彧の功績として見逃せないのが、多くの人材を曹操に推挙したことです。彼は、自分の後任となりうる人物として、従甥の荀攸や、後に魏の重鎮となる鍾繇、厳格な法運用の専門家である司馬朗などを推挙しました。そして、その中には、まだ無名であった司馬懿の名も含まれていました。
『三国志』の注に引く『汝南先賢伝』によれば、荀彧は司馬懿を見た瞬間、その才能を見抜いたといいます。後に司馬懿が魏を乗っ取る形(西晋の建国)につながることを考えると皮肉な運命ですが、荀彧の人材発掘能力が、三国時代の行く末を決定づける人物たちを世に送り出したことは間違いありません。
赤壁前夜 〜軽襲による荊州併合〜
建安13年(208年)、河北を完全に平定した曹操は、ついに南の荊州へと目を向けました。荊州の支配者・劉表は病篤く、後継者問題で揺れていました。
曹操から「荊州をどう攻めるべきか」と問われた荀彧は、正攻法ではなく、奇襲に近い形での迅速な進軍を提案します。
「今、華夏(中華の中心部)は平定されました。南の荊州を威圧すれば、公の威光だけで制圧できるでしょう。公が宛・葉(しょう)に急行し、間道(抜け道)を使って不意を突けば、劉表には対抗する余裕がありません」
原文:今華夏已平,南土知困矣。可顯出宛、葉而間行輕進,以掩其不意。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
荀彧の策に従い、曹操軍が疾風のように進軍すると、まさにそのタイミングで劉表が病死しました。後を継いだ息子の劉琮は、抵抗することなく降伏しました。荀彧の読み通り、戦わずして巨大な荊州を手に入れることに成功したのです。
しかし、この絶頂期こそが、曹操と荀彧の関係における「終わりの始まり」でもありました。荊州を得た曹操は、天下統一を目前にして野心を膨らませ、これまで漢の忠臣として振る舞ってきた仮面を外し始めます。それは、漢室の存続を願う荀彧にとって、受け入れがたい変化でした。
忠臣の苦悩 〜魏公即位への反対〜
建安17年(212年)、曹操の権威は頂点に達していました。側近の董昭らは、曹操の功績はもはや丞相という漢の官職には収まりきらないと考え、古代の制度を復活させて「魏公」の爵位を与え、九錫(きゅうしゃく:天子から特別な功臣に与えられる9種類の礼器)を授与すべきだと画策し始めます。
これは事実上、漢王朝の枠組みを超えた「魏王国」の建国を意味し、漢の皇帝を傀儡(かいらい)から完全なる廃位へと追いやる第一歩でした。董昭は、この重大な提案を実現するために、密かに荀彧に相談を持ちかけます。
しかし、荀彧の回答は董昭の予想を裏切るものでした。彼は、これまで曹操のあらゆる戦略を支持してきましたが、この時ばかりは断固として反対の意を表明しました。
「曹公が義兵を起こしたのは、本来、朝廷を正し国家を安んじるためであり、変わらぬ忠誠心と、謙譲の実を貫くためでした。君子は徳によって人を愛するものであり、そのようなこと(簒奪につながる魏公即位)をすべきではありません」
原文:太祖本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實;君子愛人以德,不宜如此。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
荀彧にとって、曹操はあくまで「漢の忠臣」であり、漢王朝を復興させるための英雄でなければなりませんでした。しかし曹操にとって、荀彧のこの理想論はもはや自分の野望を阻む障害でしかありませんでした。『三国志』には、この荀彧の反対を知った曹操の反応が、短く、しかし冷酷に記されています。
「太祖(曹操)は、これによって心中穏やかではなくなった」
原文:太祖由是心不能平。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝
長年連れ添った二人の信頼関係に、修復不可能な亀裂が入った瞬間でした。
憂悶の死 〜空の器が意味するもの〜
同じく建安17年(212年)、曹操は孫権を討伐するために軍を南下させ、濡須(じゅしゅ)へ向かいました(濡須口の戦い)。曹操は荀彧に対し、「譙(しょう:曹操の故郷)まで来て軍を慰労してほしい」と要請します。
荀彧が譙に到着すると、曹操は彼を侍中・光禄大夫として軍中に留め置き、以前のように尚書令として許都を守らせることはしませんでした。これは、荀彧を政治の中枢から遠ざけ、自らの監視下に置くための措置でした。
軍が濡須へ進発しようとした時、荀彧は病気のため随行できず、寿春に留まることになりました。そして、そのまま憂悶のうちに死去しました。享年50。
正史『三国志』の本文では、死因は「憂いにより薨じた(以憂薨)」とだけ記されています。しかし、裴松之が注に引く『魏氏春秋』には、あまりにも有名な、そして悲劇的な最期が描かれています。
「太祖(曹操)が荀彧に食事(の入った器)を送ったが、開けてみると中身は空っぽだった。そこで荀彧は毒を飲んで死んだ」
原文:太祖饋彧食,發之乃空器也,於是飲藥而卒。
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝 注引『魏氏春秋』
「空の器」は、「お前にはもう食べる飯はない(用済みである)」、あるいは「漢の禄(給料)はもうない」という曹操からの無言のメッセージでした。漢王朝への忠誠と、曹操への義理の狭間で苦しみ抜いた荀彧は、自らの命を絶つことでその葛藤に終止符を打ったのです。
荀彧の死の翌年、曹操は魏公に即位し、さらに魏王へと昇りつめました。荀彧の死は、漢王朝の実質的な終焉を告げる弔鐘でもあったのです。
三国志演義との差異
赤壁の戦いでの不在
小説『三国志演義』のハイライトである赤壁の戦いにおいて、荀彧の存在感は希薄です。史実でも彼は許都の留守を任されていたため、戦場にはいませんでした。
しかし、演義では赤壁の大敗後、曹操が「もし奉孝(郭嘉)が生きていれば、こんな負け方はしなかっただろう!」と嘆く有名なシーンがあります。このセリフは史実(『三国志』郭嘉伝)にも存在しますが、裏を返せば、当時存命であった荀彧や荀攸といった他の軍師たちへの強烈な当てつけとも取れます。
史実の荀彧は、赤壁の敗戦時、すでに曹操との心の距離が離れ始めていた時期にあたります。曹操が荀彧ではなく、亡き郭嘉の名を呼んで嘆いた背景には、単なる郭嘉への哀惜だけでなく、荀彧への複雑な感情が入り混じっていたのかもしれません。
華佗の処刑を諫める
名医・華佗の死に関しても、荀彧は重要な役割を果たしています。『後漢書』華佗伝によれば、華佗が妻の病気を理由に曹操のもとへ戻るのを拒否し、嘘が露見して投獄された際、荀彧は助命嘆願を行っています。
「華佗の医術は実に巧みで、人の命がかかっています。全てを許してやるべきです」
原文:佗方術實工,人命所懸,宜加全宥。
出典:『後漢書』方術列伝 華佗
しかし曹操は「天下にこの程度の鼠(取るに足らない男)がいないとでも思うか」と言い放ち、荀彧の諫言を聞き入れずに華佗を処刑してしまいました。演義ではこのエピソードはカットされがちですが、冷酷な法家としての曹操と、人命や才能を惜しむ儒家的な荀彧の対比が鮮やかに表れています。
一族
荀彧の死後も、荀氏は魏晋時代を通じて名門としての地位を保ちました。
- 長男:荀惲(じゅんうん)
曹操の娘(安陽公主)を妻とし、虎賁中郎将となりました。父と曹操の確執にもかかわらず、皇室との婚姻関係を結んだことは、曹操がいかに荀彧の家柄と影響力を重視していたかを示しています。 - 六男:荀顗(じゅんぎ)
司馬氏の晋(西晋)王朝において太尉となり、父に劣らぬ高位に昇りました。 - 従甥:荀攸
荀彧より年上ですが、系図上は甥にあたります。曹操の軍師(謀主)として常に戦場に従軍し、奇策を次々と献じました。戦略(大局)の荀彧、戦術(現場)の荀攸として、二人の荀氏は魏の両輪として機能しました。
評価
同時代の人物や後世の歴史家から、荀彧は最大級の賛辞を送られています。
陳寿の評
『三国志』の著者・陳寿は、荀彧を荀攸・賈詡と同じ巻に収め、次のように総括しています。
「荀彧は清らかな風貌と優れた理想を持ち、王佐の才と称される風格を備えていた。その奇策や功績は際立っており、魏の覇業は彼によって成し遂げられたと言ってよい。(中略)しかし、その大義を貫こうとするあまり、晩年はその志を遂げられずに終わったのは、なんと惜しいことであろうか」
裴松之の評
注釈者の裴松之は、陳寿が荀彧を「魏の臣」として扱ったことに対し、やや同情的かつ擁護的な立場をとっています。「荀彧は漢王朝を救うためにあえて曹操に協力したのであり、決して漢を裏切ったわけではない」と主張し、その悲劇性を強調しています。
司馬懿の評
後に魏の実権を握った司馬懿(宣帝)は、自分を引き立ててくれた荀彧を神のように崇拝していました。
「書物に記されたことや、遠くの出来事はよくわからないが、自分が耳で見聞きした範囲で言えば、百数十年もの間、荀令君(荀彧)に匹敵する人物は一人もいない」
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝 注引『荀彧別伝』
エピソード・逸話
「留香」〜芳香をまとう美丈夫〜
『三国志』の注に引く『襄陽記』には、荀彧の容姿と、彼にまつわる優雅な逸話が残されています。
荀彧は立派な容姿(偉美儀容)をしており、身だしなみに非常に気を使っていました。彼がどこかの家を訪れて座席に座ると、彼が立ち去った後も、その場所には三日間にわたって良い香りが漂っていたといいます(荀令留香)。
戦乱と血なまぐさい政治の世界に身を置きながら、最後まで貴族的な気品と清潔さを失わなかった荀彧のキャラクターを象徴するエピソードです。
禰衡の暴言
毒舌家として知られる禰衡(でいこう)は、許都の人物を片っ端から罵倒しましたが、荀彧と趙融については次のように皮肉りました。
「荀彧は弔問の使者に使えるだろう。趙融は厨房で客をもてなす係にすればいい」
出典:『三国志』魏書10 荀彧伝 注引『平原禰衡伝』
これは「荀彧は顔がいいだけだから、葬式で泣き顔を見せる役がお似合いだ」「趙融はただ太って肉がついているだけだ」という意味です。当時の人々は荀彧の才能を認めつつも、そのあまりの美貌ゆえに、こうした揶揄の対象になることもあったようです。