| 生没年 | ? 〜 221年(享年不明) |
|---|---|
| 所属 | 蜀 |
| 字 | 益徳(えきとく) |
| 役職 | 車騎将軍・西郷侯 |
| 一族 | 子:張苞、娘:張皇后(敬哀皇后・張皇后) |
| 関係 | 義兄:劉備、関羽、妻:夏侯氏(夏侯淵の姪) |
| 参加した主な戦い | 長坂の戦い、赤壁の戦い、益州攻略戦 |
| 正史と演義の差 | ★★★☆☆ |
| 実在性 | 実在(正史 関張馬黄趙伝) |
| 重要度 | ★★★★★ |
「万人の敵」と称され、関羽と並び称される蜀漢建国の元勲。劉備への忠誠は絶対的であり、長坂橋ではたった20騎で曹操の大軍を足止めした伝説を持つ。演義では大酒飲みの乱暴者として描かれるが、正史では士大夫を敬う一面も持ち、また夏侯淵の姪を妻にするなど、魏との意外な血縁関係も持つ複雑な人物である。
張飛
生涯
涿郡の荒くれ者、英雄と出会う
後漢末期、黄巾の乱の足音が近づく頃。幽州の涿郡(現在の河北省保定市涿州市)に、人並外れた武勇を持つ男がいました。張飛、字を益徳(『演義』では翼徳)といいます。
若き日の張飛については、正史に多くは記されていません。しかし、運命的な出会いが彼を歴史の表舞台へと引き上げました。同郷の英雄・劉備との出会いです。
張飛は、関羽と共に劉備に仕えました。彼らの関係は、単なる主従ではありませんでした。正史には「恩若兄弟(恩、兄弟の如し)」と記されています。
桃園の誓いとして知られるこの三人の結合は、乱世における最強の「個」の集まりでした。
張飛は年長の関羽を兄として敬い、劉備のためなら火の中水の中も厭わない忠義の士でした。人が多い場所では、張飛と関羽は劉備の後ろに一日中直立して侍り、決して疲れた様子を見せなかったといいます。
184年、黄巾の乱が勃発すると、張飛は劉備に従って義勇軍を率い、校尉として戦場を駆け巡りました。ここから、彼の長い流浪と戦いの生涯が幕を開けるのです。
流浪の日々と徐州での失態
劉備の初期のキャリアは、決して華々しいものではありませんでした。公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹と、主君を変え、場所を変え、中華全土を彷徨いました。張飛もまた、その影のように付き従いました。
194年、劉備が陶謙から徐州牧の座を譲り受けた時のことです。
南の袁術が攻め寄せてきたため、劉備は本拠地の下邳を張飛に任せて出陣しました。留守番を任された張飛でしたが、ここで彼の人格的な欠点が露呈してしまいます。
曹豹との対立と下邳陥落
『演義』では、張飛が酒に酔って暴れ、禁酒を破った部下の曹豹を鞭打ったことが原因で、恨みを抱いた曹豹が呂布を引き入れたと描かれています。
これは非常に有名なエピソードですが、正史の記述も大筋では変わりません。
張飛は元々、陶謙の旧臣である曹豹と折り合いが悪く、対立していました。その隙を、あの「飛将」呂布が見逃すはずがありません。
曹豹の手引き(あるいは内通)により、呂布は夜襲を仕掛け、下邳をあっという間に制圧してしまったのです。この時、劉備の妻子も捕虜となってしまいました。
前線で戦っていた劉備は、本拠地を失い、帰る場所をなくしました。張飛の失態は、劉備軍を壊滅的な危機に陥れたのです。
『演義』では、責任を感じて自害しようとする張飛を劉備が止め、「兄弟は手足、妻子は衣服。服は縫えば直せるが、手足は切れたら戻らない」と語る感動的なシーンがあります。史実においても、劉備が張飛を責め立てた記録はなく、彼らの絆がいかに強固であったかを物語っています。
運命の妻:夏侯氏との出会い
徐州を失い、曹操を頼った後に反逆し、再び敗走して公孫瓚や袁紹の元を転々とする日々。
200年、官渡の戦いの前後の混乱期に、張飛に関する驚くべき記録が残されています。
張飛が豫州の沛国付近を通過した際、薪拾いをしていた良家の娘に出会い、彼女を妻に迎えました。
なんと彼女は、曹操の重臣・夏侯淵の姪(亡き弟の娘)だったのです(『魏略』)。
これは政略結婚ではなく、戦場での偶然の出会い、いわば略奪婚に近い形だったかもしれません。しかし、張飛は彼女を丁重に扱い、正妻としました。後に夏侯淵が定軍山の戦いで戦死した際、張飛の妻(夏侯氏)は叔父の埋葬を願い出ています。
敵国である魏の名門・夏侯一族と、蜀の猛将・張飛が親戚関係にあったという事実は、三国時代の人間関係の複雑さと面白さを象徴しています。
長坂橋の仁王立ち:伝説の誕生
208年、北方を制圧した曹操が、大軍を率いて荊州へ南下を開始しました。
劉表の後を継いだ劉琮は戦わずして降伏。新野に駐屯していた劉備は、十数万の民を引き連れて南への撤退を余儀なくされます。
曹操は、精鋭騎兵部隊「虎豹騎」を急行させました。一日一夜で三百里(約120km)を駆ける猛スピードで追撃し、ついに当陽の長坂(長坂の戦い)で劉備軍を捕捉します。
混乱の中、劉備は妻子を捨てて逃走しました(この時、趙雲が阿斗を救出しています)。
軍が崩壊する中、殿(しんがり)を任されたのが張飛でした。彼の手勢は、わずか20騎。
水拠りて橋を断つ
張飛は長坂橋のたもとに立ち、川を背にして橋を切り落としました(『演義』では橋の上で仁王立ちですが、正史では橋を落として渡れなくしてから対峙しています)。
そして、迫りくる曹操の大軍に向かって、矛を横たえて大喝しました。
現代語訳:「我こそは張益徳である! 来て共に死のうではないか!」
出典:『正史』蜀書 張飛伝
原文:「身是張益徳也,可来共決死!」
その声は雷のように轟き、気迫は鬼神のようでした。曹操軍の誰もが、あえて近づこうとはしませんでした。
たった一人(と20騎)の気迫が、数千数万の軍勢を足止めしたのです。この時間稼ぎのおかげで、劉備は無事に逃げ延びることができました。
「長坂橋の仁王立ち(据水断橋)」。
この瞬間、張飛の名は天下に轟き渡りました。関羽が白馬の戦いで見せた武勇と並び、張飛のこの一喝は、個人の武力が戦況を覆した稀有な例として、後世まで語り継がれることになります。
しかし、これはまだ張飛の伝説の序章に過ぎません。赤壁の戦いを経て、舞台は西の地・益州へと移ります。そこで張飛は、単なる猛将ではない「将帥」としての才能を開花させることになるのです。
入蜀:猛将の成長と義気
赤壁の戦いでの勝利を経て、劉備は荊州南部の四郡を平定し、ついに自身の地盤を獲得しました。張飛は宜都太守・征虜将軍に任じられ、新亭侯に封じられました。かつての放浪者だった彼は、今や一国を支える重臣となっていたのです。
しかし、彼らの野望は荊州だけに留まりません。「隆中対」のシナリオ通り、次は西の益州(蜀)を目指す必要がありました。211年、劉備は劉璋の招きに応じて入蜀しましたが、張飛は諸葛亮や関羽と共に荊州の留守を任されました。
鳳雛の死と救援要請
運命が急転したのは214年のことです。劉備と劉璋の関係が決裂し、全面戦争(益州攻略戦)が勃発しました。しかし、劉備軍の軍師・龐統(鳳雛)が流れ矢に当たって戦死(『演義』では落鳳坡の戦いでの伏兵)するという痛恨の事態が発生します。
窮地に陥った劉備は、荊州に救援を要請しました。
これを受け、諸葛亮は関羽を荊州の守りに残し、自らは張飛、趙雲らを率いて長江を遡上し、西へと進撃を開始しました。
ここで張飛は、単独で軍を率いて江州(現在の重慶)を攻略する任務を与えられます。そこで彼を待ち受けていたのは、益州の古参将軍・厳顔でした。
国士の風格:厳顔との対話
江州を守る厳顔は、老齢ながら筋骨隆々とした猛将で、巴郡の守護神として恐れられていました。張飛は猛攻を仕掛け、ついに厳顔を生け捕りにします。
縛り上げられた厳顔が引き出されると、張飛は床几に座ったまま、傲然と怒鳴りつけました。
「大軍が来たのに降伏もせず、あまつさえ抵抗するとは何事か!」
敗軍の将であれば、命乞いをするか、黙って俯くのが常です。しかし、厳顔は顔色一つ変えず、張飛を睨み返して言い放ちました。
現代語訳:「お前たちが無礼にも我らの州を侵略するからだ。わが州に断頭将軍(首を斬られる将軍)はいても、降伏将軍などはいない!」
出典:『正史』蜀書 張飛伝
原文:「卿等無狀,侵奪我州,我州但有斷頭将軍,無有降将軍也。」
「なんだと!」
激怒した張飛は、左右の兵に「こいつを斬首せよ!」と命じました。
しかし、厳顔は依然として動じず、ただ静かにこう言いました。
「斬るなら早く斬れ。何をそう怒ることがある」
この言葉を聞いた瞬間、張飛の表情が変わりました。彼は雷のような怒りを瞬時に収め、自ら座席を降りて厳顔の縄を解き、上座に招いて頭を下げました。
「老将軍、無礼を働いて申し訳なかった」
張飛は、厳顔の死を恐れぬ気骨に感服し、彼を賓客として厚遇したのです。『演義』では、この後厳顔が恩義を感じて張飛軍の先導役となり、各地の関所を顔パスで開城させていく痛快な展開が描かれます。
史実においても、このエピソードは重要です。かつて部下(曹豹)への配慮を欠いて下邳を失ったあの張飛が、敵将のプライドを尊重し、礼を尽くして味方につけるという「将帥の器」を見せたのです。彼はただの暴れん坊から、真の英雄へと成長を遂げていました。
漢中争奪:張郃との知恵比べ
張飛の進撃により、劉備軍は破竹の勢いで進み、ついに成都にて劉備本隊と合流。劉璋を降伏させ、益州平定を成し遂げました。
論功行賞において、張飛は諸葛亮・法正・関羽と共に金五百斤・銀千斤などの莫大な恩賞を受け、巴西太守に任命されました。これは、北の魏に対する最前線を任されたことを意味します。
宿敵・張郃の襲来
215年、曹操が張魯を降して漢中を制圧すると、その名将・張郃を南下させ、巴西郡へと侵攻させました。張郃は三巴(巴・巴東・巴西)の民を漢中へ強制移住させようと画策し、宕渠(とうきょ)・蒙頭・蕩石といった要衝に進軍してきました。
張飛は軍を率いてこれを迎撃します。相手は、曹操軍きっての戦術家であり、後に諸葛亮や劉備が「最も忌むべき敵」と恐れた名将・張郃です。
両軍は互いに砦を築き、対峙しました。その期間、なんと五十日以上。
張郃は地形を利用して強固な陣地を築き、容易には戦おうとしませんでした。張飛は力攻めでは勝てないと悟り、計略を巡らせます。
地形を利用した勝利
張飛は精鋭部隊一万人余りを率い、別の道(間道)を使って張郃軍の側面を突く奇襲攻撃を仕掛けました。
戦場となった山道は狭く、張郃軍は縦に長く伸びきっていました。そのため、前後の部隊が互いに救援することができず、指揮系統が寸断されてしまったのです。
張飛はこの機を逃さず、分断された敵を各個撃破していきました。
歴戦の智将・張郃も、この時ばかりは成す術がありませんでした。彼はついに軍を捨て、愛馬までも乗り捨てて、供回り十数人と共に山をよじ登って逃走するという屈辱的な敗北を喫しました。
この勝利は、三国志の軍事史上においても極めて価値の高いものです。
「猪武者」のイメージが強い張飛が、「魏の五将軍」の一人である張郃を、力ではなく「戦術と地形利用」で完膚なきまでに叩きのめしたのです。これにより巴西郡は平定され、蜀の北方の安全が確保されました。後の漢中の戦いへの足がかりとなる、大きな勝利でした。
瓦口関の戦い(演義)
ちなみに『演義』では、この戦いは「瓦口関の戦い」として描かれます。
張飛が陣中で毎日酒盛りをして泥酔したふりをし、油断して夜襲をかけてきた張郃を逆に伏兵で破るという、痛快な知略戦として演出されています。史実の地形戦も鮮やかですが、酒を使った偽装工作というのも、いかにも張飛らしくて面白い創作です。
漢中王の右腕として
巴西での勝利を経て、218年から本格的に始まった漢中の戦いにおいても、張飛は主力として活躍しました。
馬超と共に下弁に進軍し、曹洪・曹休らと対峙して魏軍の戦力を分散させる役割を果たしました(結果的にこの方面軍は撤退しましたが、戦略的には劉備本隊が夏侯淵を討ち取る助けとなりました)。
219年、劉備がついに曹操を退け、漢中を手中に収めると、彼は「漢中王」に即位しました。
これに伴い、張飛は右将軍・仮節に任命されました。
当時、多くの人々は「漢中太守(漢中エリアの総司令官)には張飛が選ばれるだろう」と予想していました。武功、実績、そして劉備との関係を考えれば当然の人事です。張飛自身もそう思っていたことでしょう。
しかし、劉備が抜擢したのは、若手の将軍・魏延でした。
軍全体が驚きに包まれましたが、張飛がこれに不満を漏らしたという記録はありません。かつての彼なら激怒したかもしれませんが、厳顔の一件や対張郃戦を経た彼は、主君の判断を尊重できる分別を身に着けていたのかもしれません。あるいは、自分には成都に近い巴西を守るという重要な任務があることを理解していたのでしょう。
こうして張飛は、名実ともに蜀漢軍のナンバー2(軍事面において関羽に次ぐ存在)として、その最盛期を迎えていました。
兄の死と復讐の炎
219年、蜀の運命を暗転させる凶報が届きました。
荊州を守っていた義兄・関羽が、呉の呂蒙の計略にかかり、捕らえられて処刑されたのです(関羽の死)。
張飛の悲しみようは尋常ではありませんでした。彼は昼夜を問わず号泣し、酒に溺れ、部下を当たり散らす日々が続きました。『演義』では、部下を鞭打ちながら「なぜ兄上が死んで、俺が生きているのだ!」と叫び続ける壮絶な姿が描かれます。
221年、劉備が皇帝に即位し、蜀漢を建国すると、張飛は車騎将軍・司隷校尉に任命され、西郷侯に進封されました。これは名実ともに軍の最高位です。
そしてついに、劉備は関羽の仇を討つべく、呉への東征(後の夷陵の戦い)を決意します。張飛もまた、復讐の鬼となって、巴西郡の軍勢一万人を率いて江州で劉備と合流することになりました。
呆気ない幕切れ
部下による暗殺
しかし、張飛が戦場でその怒りを解放することはありませんでした。
出陣の直前、彼は自らの陣営の中で命を落としたのです。敵の手によってではなく、味方の手によって。
221年6月、張飛の部下である張達と范彊(はんきょう)という二人の将が、夜中に張飛の寝所に忍び込みました。彼らは酒に酔って眠っていた張飛の首を切り落とし、そのまま首を持って川を下り、孫権の元へと奔走したのです。
なぜ、彼らは主将を殺したのか。
正史には、張飛の性格的な欠陥が明確に記されています。
現代語訳:「張飛は身分の高い人(君子)を敬愛したが、身分の低い人(小人)を軽んじ、慈しむ心がなかった。劉備は常にこれを戒めて言った。『お前は刑罰によって人を殺しすぎているし、部下を鞭で打ったあげく、その者たちをそのまま側に仕えさせている。それは災いを招く道だぞ』と。しかし、張飛はついに態度を改めなかった」
出典:『正史』蜀書 張飛伝
原文:「飛愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰:『卿刑殺既過差,又日鞭撻健兒,而令在左右,此取禍之道也。』飛猶不悛。」
関羽が「兵卒には優しいが、士大夫(エリート)には傲慢」だったのとは対照的に、張飛は「士大夫には敬意を払うが、兵卒や部下には暴虐」でした。
関羽の死によるストレスも重なり、部下への暴力が極限に達していたのでしょう。張達と范彊は「このままでは殺される」という恐怖に駆られ、先手を打って暗殺に及んだのです。
劉備は、張飛の都督(幕僚)からの上奏文が届いたと聞くと、内容を見る前にこう言ったと伝えられます。
「ああ、張飛が死んだか(噫、飛死矣)」
劉備は、義弟の欠点を誰よりも理解しており、いつかこういう日が来ることを予感していたのかもしれません。最強の武人は、戦場ではなく寝室で、名もなき部下によってその生涯を閉じたのです(張飛の横死)。
三国志演義との差異
小説『三国志演義』と史実の違いについて解説します。
「白装束」の無理難題
『演義』では、張達と范彊が犯行に及んだ具体的な理由が創作されています。
張飛は関羽の喪に服するため、全軍に対して「三日以内に全員分の白装束(喪服)を用意しろ。できなければ処刑する」という理不尽な命令を下します。
張達と范彊が「期限を延ばしてください」と懇願すると、張飛は激怒して二人を鞭打ち、「遅れたら殺す」と宣告しました。進退窮まった二人は、やむなく暗殺を決意するのです。
史実ではこのような具体的な命令の記述はありませんが、「刑殺が過ぎた」「部下を鞭打った」という記述から、似たような理不尽な圧力が日常的にあったことは想像に難くありません。
容姿と教養
『演義』の張飛は「身の丈八尺、虎髭で環眼(丸い目)」という恐ろしい容姿の大男として描かれます。
一方、後世の伝承や明代の創作物の中には、張飛が実は「色白で風流な美男子」であり、書や画に優れた文化人だったとする説(「張飛美人説」)も存在します。
実際、正史には彼が士大夫(知識人階級)を敬愛したとあり、劉巴のような名士と交流したがった記述もあるため、単なる粗暴な男ではなかったことは確かです。
一族
張飛の死後、彼の一族は蜀漢の中枢で重要な役割を果たしました。
- 妻:夏侯氏
曹操の重臣・夏侯淵の姪。薪拾いの最中に張飛に見初められた。夏侯淵が定軍山の戦いで戦死した際は、彼女が願い出て丁重に埋葬した。 - 長男:張苞
『演義』では関興と共に大活躍する若武者だが、正史では父より早くに早世している。 - 次男:張紹
張飛の跡を継いだ。蜀の滅亡時、劉禅に従って魏に降伏し、列侯に封じられた。 - 長女:張皇后(敬哀皇后)
劉禅の最初の皇后。若くして亡くなった。 - 次女:張皇后
姉の死後、劉禅の皇后となった。姉妹で皇后になるという事実は、張飛の家格がいかに高かったかを示している。 - 孫:張遵
張苞の子。蜀滅亡の際、綿竹にて諸葛瞻と共に鄧艾軍と戦い、壮絶な戦死を遂げた。祖父の武勇を受け継いだ最期だった。
魏との奇妙な縁
249年、魏で高平陵の変が起き、司馬一族が権力を掌握すると、身の危険を感じた夏侯覇(夏侯淵の息子)が蜀へ亡命してきました。
夏侯覇にとって、張飛の妻は従姉妹にあたります。劉禅は夏侯覇を引見した際、自分の子供たち(張氏の血を引く子)を指して、「この子たちは夏侯氏の甥(または又甥)でもあります」と語りかけ、親族として温かく迎え入れました。
張飛が結んだ縁が、数十年後に敵国の名将を救うことになったのです。
評価
陳寿からの評価
現代語訳:「関羽と張飛は、一万人の敵を相手にできるほどの勇者であり、世の虎臣と称された。…(中略)…しかし、関羽は剛直すぎて傲慢であり、張飛は乱暴で情け容赦がなかった。彼らがその短所によって理不尽な最期を遂げたのは、当然の理である」
出典:『正史』蜀書 関張馬黄趙伝
原文:「…然羽剛而自矜,飛暴而無恩,以短取敗,理數之常也。」
程昱・郭嘉からの評価
魏の参謀である程昱や郭嘉も、「関羽と張飛は、一万の兵に匹敵する」と口を揃えてその武勇を警戒していました。敵国においてさえ、彼らの名は恐怖の代名詞だったのです。
エピソード・逸話
肉屋の神様
民間伝承や講談(『三国志平話』など)において、張飛は挙兵前に肉屋(豚肉の解体・販売業)を営んでいたとされています。
このため、中国の精肉業者の間では、古くから張飛が「業界の守護神」として祀られてきました。また、酒造業や理髪業の神様とされることもあります。
長坂の橋のその後
長坂の戦いで張飛が大喝して川を断ち切ったという伝説から、京劇などの演目では、彼が叫ぶだけで敵将が恐怖のあまり肝を潰して死んでしまう(夏侯傑など)という演出がなされます。
史実においても、わずか20騎で曹操の大軍を退けた事実は、個人の武勇が戦術的勝利をもたらした稀有な例として輝き続けています。
荒々しくも愛嬌があり、失敗も多いが憎めない。そして誰よりも人間臭い英雄、それが張飛益徳でした。
