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張角(ちょうかく)

ざっくりまとめ
生没年 ? 〜 184年(享年不明)
所属 黄巾党(創始者・天公将軍)
不明
役職 大賢良師
一族 弟:張宝張梁
関係 敵対:何進皇甫嵩朱儁盧植
参加した主な戦い 黄巾の乱広宗の戦い
正史と演義の差 ★★★☆☆
実在性 実在(正史 関連伝)
重要度 ★★★★★

後漢末期の腐敗と飢饉にあえぐ民衆を救うべく立ち上がった宗教的指導者。道教の一派「太平道」を組織し、符水による治療で絶大な支持を集めた。スローガン「蒼天已死(蒼天已に死す)」を掲げ、数十万の信徒を一斉に蜂起させた黄巾の乱は、400年続いた漢王朝の寿命を決定的に縮め、乱世の幕を開ける引き金となった。

目次

生涯

腐敗する漢帝国と救世主の待望

宦官の専横と天災の連鎖

時は2世紀後半。かつて光武帝によって再興された後漢王朝は、長い繁栄の末に、内側から腐り落ちようとしていました。
宮廷の奥深くでは、皇帝の威光を傘に着た宦官たちが権力を独占し、私腹を肥やすことに狂奔していました。十常侍の乱の前段階とも言えるこの時期、正義感あふれる官僚や知識人(清流派)たちは「党錮の禁」によって弾圧され、政治の自浄作用は完全に失われていました。

政治の腐敗に呼応するかのように、天変地異が中華全土を襲いました。
連年の日照り、洪水、イナゴの大量発生。大地はひび割れ、作物は実らず、民は飢えに苦しみました。しかし、朝廷は救済の手を差し伸べるどころか、重税を課して搾り取ることしか考えません。
「天は我らを見捨てたのか」
絶望した民衆は、木の皮や草の根を齧りながら、虚ろな目で救世主の到来を待ち望んでいました。

そんな地獄のような光景が広がる冀州の鉅鹿(きょろく)郡に、一人の男が現れます。
名を張角といいます。彼こそが、腐りきった「蒼い天(漢王朝)」を終わらせ、新たな「黄色の天」をもたらそうとする、革命のカリスマでした。

鉅鹿の怪人・大賢良師

太平道の立教と符水の奇跡

張角の出自については、正史にも詳らかには記されていません。ただ、彼が「太平道」という新興宗教を興し、自らを「大賢良師」と称して布教活動を始めたことは確かです。

彼の布教スタイルは、非常に実践的かつ神秘的でした。
張角は九節の杖(九つの節がある杖)を持ち、病に苦しむ人々の元へ赴きました。そして、罪を悔い改めさせ(懺悔)、呪文を唱えた水「符水(ふすい)」を飲ませることで、次々と病を治したといいます。

現代の視点から見れば、これは一種のプラシーボ効果や、あるいは漢方などの医学的知識を呪術的に演出したものだったのかもしれません。しかし、医療など受けられず、死を待つしかなかった当時の貧民たちにとって、張角の施しは紛れもない「奇跡」でした。

「大賢良師様が、俺の病を治してくださった!」
「あの方は天の使いに違いない!」

噂は風に乗って広まりました。冀州だけでなく、青州徐州幽州荊州揚州兗州豫州の八州から、救いを求める人々が鉅鹿へと押し寄せました。彼らは張角を生き神様のように崇め、その信徒の数は瞬く間に数十万人に膨れ上がりました。

南華老仙と三巻の書(演義)

小説『演義』では、張角が力を得た背景について、よりドラマチックなエピソードが語られています。
ある日、薬草を採りに山へ入った張角(当時は不第の秀才、つまり試験に落ちた書生の設定)は、碧眼童顔の不思議な老人に出会います。

老人は張角を洞窟へ招き入れ、三巻の書物を授けてこう言いました。

現代語訳:「これは『太平要術の書』である。お前はこれを会得し、天に代わって人々を救うのだ。もし悪心を抱けば、必ずや報いを受けるであろう」
出典:演義』第一回
原文:「此名《太平要術》,汝得之,當代天宣化,普救世人;若萌異心,必獲悪報。」

この老人こそが、仙人・南華老仙でした。
書を手に入れた張角は、風雨を呼び、霧を操る妖術を身につけ、自らを「太平道人」と号するようになったとされます。この伝説は、張角という存在がいかに当時の人々にとって人智を超えた存在として映っていたか、そして彼が「天命」を受けた存在であることを強調するための物語的装置と言えるでしょう。

組織化される信仰

三十六方の設置と地下活動

信徒の数が数十万を超えると、張角は単なる宗教指導者から、巨大な政治勢力の長へと変貌していきます。彼は膨れ上がった組織を統制するため、全土の信徒を三十六の「方(ほう)」という単位に分割しました。

  • 大方:一万人以上の信徒を擁する組織。
  • 小方:六、七千人の信徒を擁する組織。

それぞれの方には「渠帥(きょすい)」と呼ばれるリーダーが置かれ、軍隊のような指揮系統が敷かれました。これはもはや宗教団体ではなく、国家の中に生まれたもう一つの国家でした。
張角は、弟の張宝張梁と共に三兄弟で教団を統率し、着々と力を蓄えていきます。

驚くべきことに、この動きは地方だけでなく、帝都・洛陽の内部にまで浸透していました。張角は腹心の部下である馬元義を洛陽に送り込み、なんと宦官の中常侍・封諝(ほうしょ)や徐奉(じょほう)といった宮廷の中枢人物までをも信徒に取り込んでいたのです。

「内と外から同時に火を放てば、漢の天下など一瞬で崩れ去る」
張角の計画は、宗教的な救済から、明確な「易姓革命(王朝交代)」へとシフトしていました。

「蒼天已に死す」:革命のスローガン

決起の時は近づいていました。
張角は、五行思想に基づいた強烈なプロパガンダを流布させました。漢王朝は「火徳(赤)」で栄えた国です。火の次は土、つまり「土徳(黄)」の時代が来るというのです。

彼らが掲げたスローガンは、中国史上で最も有名かつ強力なアジテーションの一つです。

現代語訳:「蒼い天(漢王朝)はもはや死んだ。次に立つべきは黄色い天(我々)である。年は甲子にあり、天下は大吉となる!」
出典:正史黄巾の乱に関する記述
原文:「蒼天已死,黄天當立,歳在甲子,天下大吉。」

「甲子(きのえね)」の年、すなわち184年。
これは暦の始まりの年であり、新しい時代の幕開けを象徴しています。
張角は、信徒たちに「甲子」の二文字を白い土で家の門に書かせました。青州徐州などの八州において、この文字が書かれていない家はないほどだったといいます。

役人たちはこの異様な光景を目の当たりにしながらも、賄賂を受け取っていたり、あるいは恐怖によって手出しができず、見て見ぬふりを決め込みました。
地下深くで煮えたぎるマグマのように、反乱のエネルギーは限界まで高まっていました。

計画の露見と、繰り上げられた蜂起

運命の184年が明けました。
張角は、馬元義を通じて洛陽の信徒たちと連携し、3月5日に一斉蜂起する計画を立てていました。
しかし、歴史の皮肉というべきか、組織が大きくなりすぎた弊害が出ます。弟子の唐周という男が裏切り、張角の計画を朝廷に密告してしまったのです。

報告を受けた後漢皇帝(霊帝)と大将軍・何進は震え上がりました。
直ちに洛陽市内で馬元義が捕らえられ、車裂きの刑に処されました。さらに宮中の信徒や関係者千人余りが処刑され、張角の逮捕令が全国に発せられました。

「計画が漏れたか」
急報を受けた張角は、もはや一刻の猶予もないと悟りました。座して死を待つか、今すぐ立つか。

「直ちに挙兵せよ! 今こそ黄天の世を創る時だ!」

張角は全土の渠帥に緊急指令を飛ばしました。
彼は自らを「天公将軍」、弟の張宝を「地公将軍」、張梁を「人公将軍」と称しました。
信徒たちは皆、頭に黄色い頭巾を巻いてシンボルとしました。

ここに、人類史上稀に見る規模の農民反乱、黄巾の乱が勃発したのです。
その勢いは凄まじく、官軍の城や役所は瞬く間に焼き払われ、長官たちは逃げ惑いました。その光景は、あたかも堤防が決壊し、濁流が全てを飲み込んでいくかのようでした。

帝国、震える

184年の春、張角が放った号令は、乾いた薪に火を放つがごとく、瞬く間に中華全土を紅蓮の炎で包み込みました。
青州徐州幽州冀州荊州揚州兗州豫州
帝国の主要な八州において、黄色い頭巾を巻いた数百万の民衆が一斉に蜂起したのです。

彼らは役所を襲って焼き払い、長官を血祭りに上げ、都市を占拠しました。
「蒼天(漢)を殺せ! 黄天(我ら)の世を創れ!」
その怒号は地鳴りのように響き渡り、平和ボケしていた帝都・洛陽の貴族たちを恐怖のどん底に突き落としました。
後漢王朝始まって以来、これほど大規模かつ組織的な反乱は前代未聞でした。それは単なる暴動ではなく、明確な宗教的・政治的意志を持った「革命戦争」だったのです。

党錮の禁の解除

事態を重く見た皇帝(霊帝)は、外戚である大将軍・何進を総司令官に任命し、洛陽周辺の八つの関所の防備を固めさせました。
ここで何進と朝廷は、一つの重要な政治的決断を下します。「党錮の禁」の解除です。

それまで朝廷は、清流派と呼ばれる正義感の強い官僚や知識人を弾圧し、政治から排除していました。しかし、もし彼らが不満を持って黄巾党と結びつけば、漢王朝は確実に滅びます。
朝廷は背に腹を変えられず、彼らを赦免し、官軍に協力させることにしたのです。この決断により、後に群雄となる多くの人材が、公然と兵を率いる権利を得ることになりました。

三将軍の派遣と、若き英雄たち

朝廷は、当時の名将と謳われた三人の将軍を討伐軍として派遣しました。

  • 北中郎将・盧植:北方の張角本隊を担当。
  • 左中郎将・皇甫嵩豫州方面を担当。
  • 右中郎将・朱儁:同じく豫州方面を担当。

そして、この正規軍の補佐や義勇軍として、乱世の主役たちが歴史の表舞台に躍り出ます。

曹操、劉備、孫堅の初陣

洛陽からは、気鋭の騎都尉として曹操が出陣しました。彼は皇甫嵩らと合流し、その軍略の才を初めて実戦で発揮することになります。

北方の涿郡(幽州)では、漢室の末裔を自称する青年・劉備が立ち上がりました。彼は義兄弟の契りを結んだ関羽張飛と共に義勇軍を結成し、かつての師である盧植の元へと駆けつけました。

南方の下邳では、「江東の虎」こと孫堅が挙兵しました。彼はその勇猛さで手柄を立て、朱儁の軍に従軍して黄巾党の別働隊と激闘を繰り広げます。

張角が起こした乱は、皮肉にも、漢王朝を滅ぼし次の時代を創る「英雄」たちを覚醒させる揺りかごとなってしまったのです。

北方の激闘:張角対盧植

広宗への撤退

張角自身は、本拠地である冀州において、黄巾党の主力部隊を率いて戦いました。
対する官軍の将は、盧植。彼は武勇だけでなく学問にも秀でた当代一流の人物でした。

張角の軍勢は数においては圧倒的でしたが、その多くは鍬や鎌を持った農民であり、訓練された正規兵ではありません。盧植は巧みな戦術で張角軍を翻弄し、じわじわと追い詰めていきました。
連戦連敗を喫した張角は、冀州の拠点である広宗(こうそう)城に撤退し、籠城戦を選択します(広宗の戦い)。

広宗城は堅牢であり、張角の信徒たちは死を恐れぬ狂信的な士気で抵抗しました。盧植といえども、容易には落とせません。戦線は膠着状態に陥りました。

宦官の讒言と董卓の登場

ここで、漢王朝の腐敗が再び顔を覗かせます。
朝廷から視察に来た宦官・左豊(さほう)が、盧植に賄賂を要求したのです。剛直な盧植はこれを拒絶しました。
逆恨みした左豊は、洛陽に戻ると「盧植は戦わずに怠けています」と嘘の報告をしました。
愚かな霊帝はこれを信じ、盧植を解任して護送車で連行してしまったのです。

後任として送り込まれたのが、西涼の軍閥・董卓でした。
董卓は意気揚々と張角を攻めましたが、功を焦って無謀な攻撃を繰り返し、逆に張角軍の反撃を受けて大敗しました。
張角にとっては、敵の自滅による一時の勝利でした。しかし、これが彼の最後の輝きとなります。

南方の崩壊:波才の敗北

北方が膠着している間に、南方の戦線(豫州方面)では劇的な決着がついていました。
黄巾党の渠帥・波才は、当初は朱儁を破るほどの勢いを見せましたが、長社において皇甫嵩曹操による「火攻め」に遭い、壊滅的な打撃を受けました。

数万の兵が炎の中で焼け死に、あるいは斬られました。豫州の黄巾軍が壊滅したことで、官軍の主力がフリーとなり、全員が北の張角を目指して進軍を開始したのです。

「南が破れたか……」
広宗城の中で、張角はその報告を聞き、天を仰いだことでしょう。
そして、彼自身の体にも、病魔という名の絶望が忍び寄っていました。

夢の終わり、星堕つ

184年の秋。広宗城で籠城を続けていた張角の体に、異変が起きました。
長年の布教活動による過労か、あるいは戦況の悪化による心労か、彼を重い病が襲ったのです。

「黄天の世は……まだか……」

信徒たちに不死の奇跡を説き、病を癒やしてきた「大賢良師」も、自らの命を救うことはできませんでした。
10月、官軍との決着を見ることなく、張角は広宗城内で病没しました。
彼の死は、軍の士気に関わる重大事として極秘に伏せられましたが、カリスマを失った教団の求心力は、音を立てて崩れ始めていました。

広宗の陥落:人公将軍の最期

張角の死後、指揮を引き継いだのは末弟の「人公将軍」こと張梁でした。
そこへ、南方の黄巾党を壊滅させた名将・皇甫嵩が北上し、官軍の主力が広宗城に集結しました。

皇甫嵩は慎重でした。彼は敵の陣営を偵察し、黄巾党の兵士たちが休息して気が緩んでいる隙を見逃しませんでした。
夜明け前、皇甫嵩軍は奇襲攻撃を仕掛けました(広宗の戦い)。

指導者(張角)を失い、さらに不意を突かれた黄巾党は大混乱に陥りました。張梁は必死に防戦しましたが、官軍の猛攻の前に支えきれず、乱戦の中で戦死しました。
この戦いで、三万人の黄巾兵が斬首され、五万人が川に追い落とされて溺死したと記録されています。広宗城は陥落し、教団の夢は瓦礫の中に埋もれました。

死体への鞭打ち

入城した皇甫嵩は、張角の墓を暴きました。
彼は張角の棺桶を引きずり出し、その遺体を引き裂いて斬首し、首級を洛陽へと送りました。
死してなお許されず、晒し首にされる。それは、国家を転覆させようとした大逆罪人に対する、見せしめの極刑でした。

下曲陽の殲滅戦:地公将軍の最期

残るは、次弟の「地公将軍」こと張宝が守る下曲陽(かきょくよう)城だけでした。
11月、皇甫嵩朱儁の軍勢は下曲陽を包囲し、総攻撃を開始しました(曲陽の戦い)。

張宝は最後の力を振り絞って抵抗しましたが、多勢に無勢でした。城は落ち、張宝もまた処刑されました。
この戦いでの黄巾党の死者は十万人を超え、死体で城の堀が埋まり、京観(死体を積み上げて作る塚)が築かれたといいます。

張角が挙兵してから、わずか9ヶ月。
中華全土を揺るがした黄巾の乱は、指導者三兄弟の全員死亡という形で、一応の終結を見ました。


評価

歴史的意義:漢を殺した男

正史』において、張角個人の人格や能力に対する具体的な記述は多くありません。彼はあくまで「妖術で民を惑わした逆賊」として扱われています。

しかし、彼が歴史に与えた影響は計り知れません。
張角が起こした反乱は、結果として以下の事態を招き、三国志の時代を準備することになりました。

  1. 群雄割拠の誘発:反乱鎮圧のために地方官に軍事権を与えたことで、袁紹曹操孫堅劉備といった軍閥(群雄)が台頭する土壌を作った。
  2. 王朝の権威失墜:皇帝の軍隊が弱体化していることを天下に露呈させ、漢王朝の寿命を決定的に縮めた。
  3. 青州兵の誕生:張角の死後も残党(黒山賊や白波賊など)は活動を続け、その一部は後に曹操に降伏して最強の精鋭「青州兵」となり、魏の建国を支えた。

張角自身は皇帝になれませんでしたが、彼は間違いなく、400年続いた漢帝国にとどめを刺した「破壊神」でした。

エピソード・逸話

宗教としての「太平道」

張角が広めた「太平道」は、単なる反乱組織ではなく、独自の教義を持つ宗教でした。
彼らは「黄老の道(黄帝と老子を崇拝する思想)」をベースにしつつ、以下のような特徴を持っていました。

  • 懺悔と治癒:病気の原因を「犯した罪」にあるとし、罪を告白させることで精神的な救済を図った。
  • 平等の精神:身分差別のない世界(太平の世)を理想とし、虐げられた貧民層の心を掴んだ。
  • 組織力:祭酒(リーダー)を中心とした強固なヒエラルキーを持ち、後の「五斗米道(張魯の教団)」にも影響を与えた。

演義における妖術師

小説『三国志演義』では、張角は完全にファンタジーの住人として描かれます。
広宗の戦いにおいて、彼は髪を振り乱して剣を振るい、空から雷を落とし、砂嵐を巻き起こして官軍を苦しめます。
これに対し、官軍の朱儁は「穢れたもの(豚や羊の血、排泄物など)」を空に向かって撒き散らすという戦法で対抗しました。当時の迷信では、妖術は穢れに弱いと信じられていたためです。
演義』において、張角の妖術が破られるシーンは、神秘の時代が終わり、人間同士の智謀と武勇が支配する「三国志」本編への転換点として描かれています。

その後の黄巾党

指導者を失った後も、「黄色い頭巾」を巻いた人々は数十年にわたって抵抗を続けました。
龔都劉辟といった残党は、後に劉備と連携して曹操を苦しめました。また、廖化のように、元黄巾党でありながら関羽に仕え、の滅亡まで生き抜いた傑物もいます。

張角が点けた「黄天」の炎は、彼の死後も形を変え、乱世の隅々で燃え続けたのです。

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