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朱儁(しゅしゅん)

ざっくりまとめ
生没年 ? 〜 195年(享年不明)
所属 後漢
公偉(こうい)
役職 右車騎将軍・太尉
一族 子:朱晧(豫章太守)
関係 盟友:皇甫嵩盧植、部下:孫堅劉備
参加した主な戦い 黄巾の乱宛城の戦い、黒山賊討伐
正史と演義の差 ★★★★☆
実在性 実在(正史 朱儁伝)
重要度 ★★★☆☆

皇甫嵩盧植と共に「後漢末の三将」と称される救国の英雄。黄巾の乱では南方の総司令官として活躍し、あの孫堅を佐軍司馬として抜擢して世に出した功績は計り知れない。剛直な性格で知られ、暴虐を極めた董卓に対しても一歩も引かず正論をぶつけた硬骨の士。その死と共に漢王朝の武威も消滅した、まさに皇甫嵩と並ぶ「最後の名将」である。

目次

生涯

義に厚き若者、母のために奔走す

朱儁、字を公偉。彼は揚州会稽郡上虞県(現在の浙江省紹興市)の出身です。
家は貧しく、幼くして父を亡くしましたが、彼は母に孝養を尽くすことで評判の若者でした。

彼の名を一躍有名にしたのは、その「義侠心」あふれる行動でした。
同郷の周規という人物が、公費を借りたまま返済できず、一家離散の危機に陥っていました。朱儁は母の生計を立てるために蓄えていた高価な絹(縑)をすべて売り払い、周規の借金を肩代わりして救ったのです。
「金はまた稼げばよいが、人の窮地は見過ごせない」
母も息子のこの行いを咎めるどころか、誇りに思ったといいます。

役人として働き始めた朱儁は、その才能と剛直さで頭角を現します。
太守の徐珪(じょけい)に推挙され、蘭陵の令(県知事のような役職)になると、彼は非凡な手腕を発揮しました。
当時、東海郡の相(長官)が不正を行っているという情報を掴んだ朱儁は、なんと上司にあたるその相を告発し、逮捕してしまったのです。
「法を犯す者は、上官といえども許さず」
この噂は中央にも届き、彼はやがて朝廷に召し出され、諫議大夫(皇帝に諫言する役職)としてキャリアを積むことになりました。

交州の反乱と、孫堅との出会い

178年、南方の交州(現在のベトナム北部から中国広西地方)で反乱が勃発しました。
梁龍という賊が数万人を集め、南海太守を殺害するなど猛威を振るっていたのです。
朝廷は朱儁を交趾刺史に任命し、鎮圧を命じました。

朱儁は任地へ向かう途中、故郷の会稽郡に立ち寄りました。
そこで彼は、一人の「荒くれ者」の噂を耳にします。海賊退治で名を上げ、地元の顔役となっていた若者。それが、後の「江東の虎」こと孫堅でした。

「この男には、ただならぬ覇気がある」
朱儁は孫堅の才能を見抜き、自身の佐軍司馬(副官クラス)として抜擢しました。当時まだ無名に近かった孫堅を正規軍の幹部に取り立てたのは、朱儁の慧眼以外の何物でもありません。

朱儁と孫堅。この最強のコンビは、交州の反乱をまたたく間に鎮圧しました。朱儁は敵の内部工作を行い、離間の計を用いて組織を崩壊させ、わずか数週間で梁龍を斬り殺しました。
この功績により、彼は光禄大夫に昇進し、都・洛陽への帰還を果たしました。

黄巾の乱:右中郎将としての苦闘

緒戦の敗北と巻き返し

184年、黄巾の乱が勃発。
張角率いる数十万の信徒が蜂起し、帝国は崩壊の危機に瀕しました。
朝廷は三人の将軍を派遣することを決定します。北の盧植、そして豫州を担当する皇甫嵩と朱儁です。

朱儁は右中郎将に任じられ、孫堅を再び呼び寄せて従軍させました。また、この時には劉備ら義勇軍も彼の指揮下に加わっていました。
しかし、敵の勢いは想像以上でした。朱儁は緒戦において、黄巾党の渠帥・波才に敗北を喫してしまいます。
「数だけの農民兵と侮っていたか…」
朱儁は敗北を深く恥じ、盟友である皇甫嵩と共に長社城に籠城しました。

逆転のきっかけは、皇甫嵩の火攻めでした。
強風に乗じて敵陣を焼き払うと、朱儁は孫堅曹操らと共に城門を開いて突撃し、混乱する波才軍を壊滅させました。
ここから、朱儁の怒濤の反撃が始まります。

宛城攻防戦:鉄壁の包囲網

豫州の残党を掃討した後、朱儁は南陽郡の宛城に籠もる黄巾党の将・韓忠らを標的としました(宛城の戦い)。
宛城は堅牢な要塞都市であり、敵の士気も依然として高い状態でした。
朱儁はここで、兵法に則った巧みな指揮を見せます。

彼は土山を築いて城内を見下ろし、太鼓を鳴らして「今にも南西から攻め込むぞ」と見せかけました。敵が慌てて南西に兵を集めると、朱儁は精鋭を率いて手薄になった北東の城壁を突破し、城内に雪崩れ込みました。

追い詰められた韓忠は降伏を申し入れました。
部下たちは「受け入れましょう」と言いましたが、朱儁は首を横に振りました。

現代語訳:「昔、秦や項羽の時代は民に主君がいなかったから、降伏を賞賛して味方に引き入れた。しかし今は違う。天下は統一されており、彼らはただの反逆者だ。降伏を許せば『勝てば官軍、負けても許される』と勘違いし、反乱が得な商売になってしまう。善悪のケジメをつけるためにも、皆殺しにして懲らしめねばならん」
出典:『後漢書』朱儁伝

朱儁の峻烈な判断により、韓忠は処刑され、残党も徹底的に殲滅されました。
彼の厳しさは、乱世の火種を少しでも残すまいとする、帝国への忠誠心ゆえのものでした。

董卓との対立:屈せぬ老将

黄巾の乱鎮圧後、朱儁は右車騎将軍・光禄大夫に昇進し、富春侯に封じられました。名実ともに漢王朝の重鎮となったのです。

しかし、時代は暗転します。189年、董卓洛陽に入り、独裁権力を握りました。
多くの臣下が董卓に媚びへつらう中、朱儁だけは毅然とした態度を崩しませんでした。

董卓は、洛陽を焼き払って長安への遷都を強行しようとしました。
朱儁はこれに真っ向から反対しました。

現代語訳:「洛陽は歴代の都であり、宗廟(先祖の霊)がある場所です。これを捨てて西へ行けば、天下の失望を招き、民は安住できません」
出典:『後漢書』朱儁伝

董卓は「わしは長安で国家を立て直すのだ。民のことなど知らん」と一蹴しましたが、朱儁の気迫に押され、彼を殺すことはできませんでした。
董卓は朱儁の才能を惜しみ、「わしの太僕(副官)にならないか」と誘いましたが、朱儁は「私には荷が重すぎます」と拒絶しました。

董卓長安へ去った後、朱儁は廃墟となった洛陽に留まりました。彼は荊州劉表徐州陶謙と連絡を取り合い、反董卓連合軍の再結成を模索しました。
しかし、群雄たちは自分の領土拡大に夢中で、老将の呼びかけに応じる者はいませんでした。朱儁の孤独な戦いは、徒労に終わろうとしていました。

最後の奉公:李傕・郭汜の乱

192年、董卓呂布に暗殺されると、李傕郭汜が反乱を起こし、長安を占拠しました。
朝廷は混乱を収拾するため、朱儁を太尉(軍事の最高職)として長安に召喚しました。

周囲は「行けば人質にされるだけです」と止めましたが、朱儁は言いました。
「君主が召しているのに、危険だからといって行かないわけにはいかない」

彼は長安に入り、李傕郭汜政権のお目付役となりました。しかし、二人の争いは激化し、ついに李傕献帝を人質に取り、郭汜が公卿たちを人質に取るという最悪の事態(内戦)に発展しました。

朱儁は公卿の一人として郭汜に捕らえられました。
性格の悪い郭汜は、人質にした高官たちを辱め、罵倒しました。
朱儁はあまりの憤りと、帝を守れなかった無力感に打ちひしがれました。
「私は国家の重臣でありながら、逆賊を討つこともできず、このような辱めを受けるとは…」

その日の夜、朱儁は激しい憤悶のあまり血を吐いて倒れました。
そのまま病が悪化し、195年、失意のうちにこの世を去りました。
彼が最期まで守ろうとした漢王朝も、その25年後に幕を閉じることになります。


評価

孫堅を見出した慧眼

朱儁の最大の功績の一つは、無名の役人だった孫堅の才能を見抜き、引き上げたことです。
もし朱儁がいなければ、孫堅はただの地方の豪傑で終わっていたかもしれません。そして孫堅がいなければ、孫策孫権も世に出ることはなく、後のという国も存在しなかったでしょう。
三国志の歴史を作った「影のプロデューサー」、それが朱儁なのです。

後漢最後の「硬骨漢」

盟友の皇甫嵩が「徳」の人であったとすれば、朱儁は「剛」の人でした。
彼は不正を許さず、賊には容赦せず、権力者にも媚びませんでした。その生き様はあまりに不器用でしたが、腐敗した時代においては、ダイヤモンドのように硬く、眩しい輝きを放っていました。

『後漢書』の著者は、彼をこう評しています。
「皇甫嵩と朱儁は、その功績と名声において並び立つ存在である。彼らが漢の命脈を保ったのだ」
物語(演義)では地味な役回りですが、史実における朱儁は、間違いなく一時代を支えた巨星でした。

エピソード・逸話

母への孝行

若い頃の朱儁は、母の死後、墓守として数年間も墓の側に小屋を建てて喪に服しました。さらに、自ら土を運んで墓を立派に盛り土しました。
この並外れた孝行心が評判となり、役人として推挙されるきっかけとなりました。
乱世の猛将としての顔とは裏腹に、彼は儒教的道徳を体現する極めて真面目な人物だったのです。

演義での扱い

三国志演義』では、黄巾の乱張宝の妖術に苦戦し、劉備のアドバイス(「穢れた物を撒く」)で勝利するという、やや頼りない描かれ方をしています。
しかし、これは主人公である劉備を引き立てるための演出に過ぎません。史実の朱儁は、妖術などものともせず、純粋な軍事力と戦略眼で敵を粉砕した、頼れる総司令官でした。

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