| 姓名 | 陸遜(陆逊 / Lù Xùn)
字:伯言(伯言 / Bóyán) |
|---|---|
| 生没年 | 183年 〜 245年(享年63) |
| 所属 | 呉 |
| 役職 | 上大将軍、丞相、荊州牧、右都護 |
| 一族 | 従祖父:陸康、妻:孫策の娘、子:陸抗 |
| 関係 | 主君:孫権、盟友:呂蒙、宿敵:劉備 |
| 参加した主な戦い | 夷陵の戦い、石亭の戦い、荊州攻略戦 |
| 正史と演義の差 | ★★☆☆☆ |
| 実在性 | 実在 |
| 重要度 | ★★★★★ |
「出将入相(出ては将軍として敵を討ち、入っては宰相として国を治める)」を体現した、孫呉の社稷を支える大黒柱。若くして「呉の四姓」の一つである陸家の当主となり、孫権に見出されて頭角を現す。関羽討伐の策謀に加担して荊州奪還の立役者となり、最大の危機である夷陵の戦いでは、劉備率いる蜀漢の大軍を火攻めで壊滅させ、国家の存亡を救った。晩年は苛烈な後継者争い(二宮の変)に巻き込まれ、孫権と対立して憤死するという悲劇的な最期を遂げるが、その功績は千載に輝く。
陸遜伯言:呉を救った深謀の士、その栄光と悲劇の生涯
生涯
名族の没落と若き当主の誕生
「呉の四姓」陸家の系譜
陸遜は、光和6年(183年)、江東の地である呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)に生を受けました。本名を「議」と言い、後に「遜」と改名することになりますが、字の「伯言」は生涯を通じて変わることはありませんでした。 彼が生まれた陸氏は、顧氏・朱氏・張氏と並び「呉の四姓」と称される江東屈指の名門望族であり、漢代を通じて多くの高官を輩出してきた家柄でした。祖父の陸紆は城門校尉を務め、父の陸駿は九江都尉としてその名を知られていました。しかし、陸遜が幼い頃に父・陸駿が世を去ったため、彼は孤児同然の身の上となります。
幼き陸遜が身を寄せたのは、従祖父(祖父の弟)にあたる陸康のものでした。陸康は当時、廬江太守として長江北岸の要衝を治めており、清廉潔白かつ剛毅な人物として知られていました。陸遜はこの陸康のもとで養育され、儒教的教養と名門としての矜持を叩き込まれて育ちます。しかし、時代の荒波は、この平穏な生活を長くは許しませんでした。
袁術との対立と廬江の悲劇
興平元年(194年)、中原の混乱に乗じて勢力を拡大していた袁術が、徐州への野心を抱き、陸康に対して兵糧の供出を要求してきました。漢王室への忠義に厚い陸康は、逆賊たる袁術の要求を断固として拒絶し、城門を閉ざして徹底抗戦の構えを見せます。 これに激怒した袁術は、配下の孫策を派遣して廬江城を包囲させました。孫策は、父・孫堅の代から袁術に属していましたが、江東に独自の勢力を築く足がかりとして、この廬江攻略に全力を注ぎます。
包囲戦は2年にも及びました。籠城戦のさなか、陸康は一族の行く末を案じ、まだ年若い陸遜に一族の未来を託す決断を下します。 「そなたは一族を連れて、故郷の呉郡へ戻りなさい」 陸康は陸遜に対し、一族の婦女子や幼い子供たちを率いて脱出するよう命じました。当時、陸遜はまだ10代前半の少年でしたが、彼はこの重責を背負い、戦火の中を掻い潜って故郷へと帰還することになります。
その後、廬江城は陥落し、陸康は心労と病のために没しました。さらに、長期間の包囲戦と疫病、飢餓により、陸家の一族の半数以上が命を落とすという凄惨な結果となりました。 生き残った一族の中で、陸康の末子である陸績はまだ幼少であったため、年長者である陸遜が、事実上の家長として陸家を取り仕切ることになります。かつての名門・陸家は、この戦いで大きな打撃を受け、衰退の淵に立たされていました。陸遜の青春時代は、没落した家門を再興し、幼い従弟や親族たちを養うという、過酷な重圧との戦いから始まったのです。
この「孫策による廬江攻撃」という過去は、陸遜と孫氏政権との間に横たわる、複雑で微妙な因縁の始まりでもありました。父祖の地を奪い、一族を死に追いやった孫氏に仕えることへの葛藤が、若き陸遜の胸中に無かったとは言えないでしょう。
孫権への出仕と地方官としての試練
孫権陣営への参画
建安5年(200年)、江東を席巻していた小覇王・孫策が急逝し、その弟である孫権が後を継ぎました。孫権は兄の覇業を受け継ぎつつも、独自の体制を固めるべく、広く人材を求めました。 この頃、21歳になっていた陸遜は、その才覚と家柄を見込まれ、孫権に招聘されます。彼はまず「東西曹令史」という職に就きました。これは人事や記録を司る実務官僚であり、派手さはありませんが、組織の根幹に関わる重要なポストです。ここで陸遜は、行政の実務能力を磨き、孫氏政権の内情を深く理解していくことになります。
海昌での善政と飢饉対策
その後、陸遜は海昌(現在の浙江省海寧市)の屯田都尉に任命され、同時に県令の職務も代行することになりました。海昌は沿岸部に位置し、塩の生産や農業の要地でしたが、当時は連年の干ばつに見舞われ、民衆は飢えに苦しんでいました。
着任した陸遜は、直ちに救済策に乗り出します。彼は官倉を開いて備蓄されていた穀物を放出させ、貧しい民衆に分け与えました。同時に、農耕を奨励し、灌漑設備の整備や作付けの指導を行うことで、疲弊した農村の復興を図ります。 また、屯田都尉として兵糧の確保にも尽力し、荒地を開墾して屯田兵による生産体制を整えました。これらの施策により、海昌の民心は安定し、流民となっていた人々も戻り始め、地域は徐々に活気を取り戻していきました。
この地方官としての経験は、陸遜にとって「民政」と「軍事」の両面を学ぶ絶好の機会となりました。彼は単なる机上の空論を語る書生ではなく、現場の苦しみを理解し、具体的な解決策を実行できる実務家としての素地を、この時期に養ったのです。
山越討伐と軍事的才能の開花
当時、揚州の内陸部、特に会稽、丹楊、鄱陽といった山間部には、「山越」と呼ばれる不服従民が多数割拠していました。彼らは険しい地形を利用して朝廷の支配を拒み、しばしば平地を襲撃しては略奪を行っていました。また、戦乱を逃れた漢民族の流民たちも彼らに合流し、その勢力は無視できないものとなっていました。 孫権にとって、背後に潜むこの山越の存在は、北の曹操や西の劉表と対峙する上での大きな不安要素でした。
兵力増強の献策
陸遜は、この山越問題を単なる治安維持の問題としてではなく、呉の国力を増強するための好機と捉えました。彼は孫権に対し、次のような上奏を行います。
「現在、群雄たちが虎視眈々と覇を競い合い、豺狼のような敵が隙を窺っております。彼らに打ち勝ち、乱を平らげるためには、何よりも兵力が必須でございます。今、山寇たちは険阻な地に依拠しておりますが、もし軍を派遣してこれを討伐し、その中から精鋭を選抜して兵士とすれば、強大な軍勢を得ることができましょう」 出典:『三国志』呉書 陸遜伝
つまり、反乱分子を討伐するだけでなく、彼らを自軍の兵力として組み込むことで、一挙両得を狙おうという提案でした。孫権はこの策を大いに喜び、陸遜を「帳下右部督」に任命して、独自の軍勢を率いる権限を与えました。
潘臨・尤突の討伐
陸遜はまず、会稽郡の山賊の首領である潘臨の討伐に向かいました。潘臨は長年、険阻な山岳地帯を根城にして暴れまわり、歴代の地方官も手を焼いていた難敵でした。 陸遜は、地形を熟知した案内人を募り、自ら兵を率いて山深くへと分け入ります。彼は力攻めだけでなく、現地の不満分子を懐柔し、内部から切り崩す工作も行いました。その結果、潘臨を降伏させることに成功し、その配下の者たち2,000人余りを自らの部曲(私兵)として吸収しました。
続いて、建安21年(216年)頃、鄱陽郡の賊帥である尤突が反乱を起こすと、陸遜は再び討伐の任を受けます。尤突の乱は大規模なものであり、曹操からの支援を受けているという噂もありました。陸遜は迅速に軍を動かし、尤突の勢力を各個撃破していきます。この功績により、彼は定威校尉に任命され、軍人としてのキャリアを確固たるものにしました。
丹楊の反乱と費桟の撃破
さらに困難な任務が陸遜を待ち受けていました。精強な兵を産出することで知られる丹楊郡において、賊帥の費桟が、曹操から印綬を受けて山越を扇動し、大規模な反乱を企てたのです。費桟の扇動により、山間部の諸部族が一斉に蜂起し、その数は数万に達したとも言われています。
対する陸遜の手勢は少なく、敵は大軍でした。まともにぶつかれば勝ち目はありません。ここで陸遜は、持ち前の知略を発揮します。 彼は、夜陰に乗じて軍旗や幟(のぼり)を通常の倍以上の数用意させ、山谷の至る所に配置しました。そして、太鼓や角笛を装備した部隊を四方八方に分散させ、夜明けとともに一斉に打ち鳴らすよう命じます。
夜明け前、突如として山々に響き渡る無数の太鼓の音と、朝霧の中に林立する無数の軍旗を目にした費桟の反乱軍は、「官軍の大軍に完全に包囲された」と錯覚し、パニックに陥りました。動揺して隊列が乱れた隙を突き、陸遜は精鋭を率いて一気に敵陣へ突入します。反乱軍は総崩れとなり、費桟は敗走しました。
この勝利の後、陸遜は東三郡(呉郡・会稽・丹楊)を巡回し、降伏した山越や流民を選別しました。強壮な若者は兵士として軍に編入し、それ以外の者は戸籍に登録して国家の課役を負担させることにしました。 その結果、陸遜は数万人の精鋭兵を得るとともに、数千家の新たな納税者を獲得することに成功しました。これにより、呉の抱える慢性的的な兵力不足と財政問題は大きく改善され、対外戦争を遂行するための強力な基盤が築かれることになったのです。
孫策の娘との婚姻と孫権の信頼
陸遜の目覚ましい活躍は、主君・孫権の目にも留まりました。孫権は、陸遜という人物が単なる一武将にとどまらず、国家を支える柱石となり得ると確信し、彼を一族の中に深く取り込むことを決意します。 孫権は、亡き兄・孫策の娘を、陸遜の妻として娶らせました。孫策はかつて陸遜の祖父の仇敵でもありましたが、この婚姻により、陸家と孫家の間のわだかまりは公的に解消され、陸遜は名実ともに孫氏政権の中枢メンバーとして迎え入れられることになりました。
また、陸遜はこの頃、孫権に対して政治的な提言も行っています。彼は当時の呉の法制度が厳しすぎると感じ、次のように上奏しました。
「現在の法律や禁令はあまりに煩雑で厳格すぎます。これでは民の心が離れてしまいます。もう少し緩やかにし、徳によって民を教化すべきです」
孫権は、軍事だけでなく民政にも深い洞察を持つ陸遜の意見を尊重し、政策の修正を行いました。
淳于式との逸話:大度な人格者
陸遜の人格の大きさを示す、有名なエピソードがあります。 陸遜が山越討伐のために民衆を徴発していた頃、会稽太守の淳于式という人物が、孫権に対して上表し、陸遜を激しく非難しました。 「陸遜はみだりに民衆を徴発し、秩序を乱して地域を騒がせています。これは不当な行いです」
淳于式としては、地域の行政官として民の負担を憂えての告発でしたが、前線で戦う陸遜にとっては、背後から撃たれるような行為でした。 しかし後日、陸遜が都に参内して孫権に拝謁した際、孫権が「優れた地方官は誰か」と尋ねると、陸遜は迷わず「淳于式殿は素晴らしい官吏です」と推挙したのです。
孫権は驚いて尋ねました。 「淳于式は君のことを悪く言って告発したのに、君は彼を推挙するのか。一体どういうわけだ?」
陸遜は静かに答えました。 「淳于式殿が私を訴えたのは、民を養いたい、民の負担を減らしたいという一心からの行動です。私怨で私を陥れようとしたわけではありません。もし私が、彼に告発されたからといって逆に彼を誹謗し返せば、それは単なる私怨のぶつけ合いとなり、君主の耳を惑わすことになります。そのような態度は、臣下としてあるべき姿ではありません。彼の志は尊重されるべきです」
この言葉を聞いた孫権は、「それは長者の行いだ。普通の人には真似できない」と感嘆し、陸遜の公平無私な態度を深く称賛しました。この逸話は、陸遜が個人の感情よりも公の利益を優先し、物事を大局的に捉えることができる人物であることを、如実に物語っています。
関羽討伐と荊州奪還の深謀
へりくだった手紙による油断の誘発
建安24年(219年)、呂蒙の後任として陸口に赴任した陸遜は、直ちに関羽へ書簡を送りました。その文面は、自らの無能と若輩ぶりを強調し、関羽の功績を過度に称賛するという、極めて計算高いものでした。
「前日、隙を観て動き、軍を規律正しく進め、小挙して大いに勝ち、なんと巍々たることか!敵国が敗れたことは同盟国の利益であり、私は手を打って慶賀した。(中略)于禁らを捕らえたことは遠近の人々を嘆息させた。将軍の勲功は世に長く伝わるに足りる。昔の晋の文公の城濮の戦いや、韓信の趙攻略の策も、これを超えることはできない。(中略)私は書生の身で疎く遅く、任に堪えない身であるが、威徳に隣接できることを喜び、自ら傾倒し尽くすことを願っている。策には合わないかもしれないが、なお心を寄せている」 原文:前承觀釁而動,以律行師,小舉大克,一何巍巍!(中略)于禁等見獲,遐邇欣歎,以為將軍之勳足以長世,雖昔晉文城濮之師,淮陰拔趙之略,蔑以尚茲。(中略)僕書生疏遲,忝所不堪,喜鄰威德,樂自傾盡。雖未合策,猶可懷也。 出典:『三国志』呉書 陸遜伝
関羽はもともと勇猛で自負心が強い性格でしたが、呂蒙という古強者が病気で去り、代わりに無名の若造がやってきたことで、呉への警戒心を完全に解いてしまいました。陸遜の手紙を読んだ関羽は、陸遜が自分にへりくだって頼ろうとしていると思い込み、大いに安心しました。そして、これまで呉への備えとして後方に残していた守備兵を次々と北上させ、樊城攻略の増援に向けてしまったのです。
陸遜は、関羽が守備兵を移動させたという情報を掴むと、直ちにその詳細を孫権に報告し、今こそ関羽を捕らえる好機であると進言しました。
電撃的な侵攻と宜都の攻略
報告を受けた孫権は、密かに軍を動かし、呂蒙を先鋒として南郡(江陵・公安)へ進撃させました。呂蒙が商人の船に兵を潜ませて烽火台を制圧し、無血で南郡を占拠する一方で、陸遜は別働隊を率いて長江を遡上し、さらに西の要衝である宜都郡(現在の湖北省宜昌市付近)を急襲しました。
陸遜の進撃は神速を極めました。宜都太守の樊友は城を捨てて逃走し、諸城の長吏や異民族の君長たちはこぞって陸遜に降伏しました。陸遜は朝廷に請い、金銀銅の印章を作らせて彼らに仮授し、人心を収攬しました。 この作戦により、陸遜は蜀軍の退路と補給線を完全に断ち切ることに成功します。これは、北で戦う関羽にとって致命的な一撃となりました。
残敵掃討と地位の確立
宜都を制圧した後も、陸遜の手は緩みませんでした。彼は配下の李異・謝旌らに命じ、蜀の将軍である詹晏・陳鳳らを攻撃させました。李異には水軍を、謝旌には歩兵を率いさせ、険しい要害を断ち切って敵軍を撃破し、陳鳳を生け捕りにしました。 さらに、房陵太守の鄧輔や南郷太守の郭睦らも撃ち破り、秭帰の大族である文布・鄧凱らが数千人の異民族を率いて抵抗すると、これも謝旌に討伐させました。文布と鄧凱は敗走して蜀に逃れましたが、陸遜は彼らを誘い出し、文布を率いて降伏させることに成功しました。
この一連の作戦において、陸遜が斬獲したり招き入れて味方につけたりした数は数万人に及びました。孫権は陸遜の目覚ましい功績を認め、彼を右護軍・鎮西将軍に任命し、婁侯に封じました。当時、陸遜は37歳前後であったと思われますが、名実ともに呉の軍事的中枢を担う存在へと飛躍したのです。
また、荊州の士人たちが新たに呉に帰属した際、彼らの中にはまだ適切な官職を得ていない者が多くいました。陸遜は孫権に対し、漢の高祖や光武帝の例を引いて、広く人材を登用し、彼らに活躍の場を与えるよう上奏しました。孫権はこの提案を敬って受け入れ、多くの人材が抜擢されることになりました。これは、新領土である荊州の安定化に大きく寄与しました。
夷陵の戦い:劉備との決戦
劉備の東征と陸遜の大都督就任
黄武元年(222年)、蜀の皇帝となった劉備が、関羽の仇討ちと奪われた荊州の回復を掲げ、大軍を率いて東進を開始しました。劉備軍は巫峡・建平から夷陵(現在の湖北省宜昌市)にかけて進出し、数十の陣営を連ねました。さらに、黄金や錦を賞与として異民族を誘い出し、多方面から呉を圧迫しました。
この国家存亡の危機に際し、孫権は陸遜を大都督に任命し、皇帝の権限を代行する「仮節」を与えました。陸遜は、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら5万の軍勢を統率し、劉備軍の迎撃に向かいました。
持久戦の選択と諸将の反発
劉備は前部督の張南、督の馮習、別督の輔匡・趙融・廖淳・傅肜らを率い、さらに呉班に数千人を率いさせて平地に陣営を築かせ、呉軍に挑戦してきました。 呉の諸将は、敵が少ないと見て攻撃を主張しましたが、陸遜はこれを制止しました。 「これは必ず何か企みがある。今は様子を見るべきだ」 陸遜の読み通り、劉備は谷間に8千の伏兵を潜ませていました。陸遜が呉班への攻撃を許可しなかったため、劉備の待ち伏せ策は失敗に終わりました。
その後、陸遜は孫権に上奏し、夷陵が国家の要害であり、ここを失えば荊州全体が危うくなることを説き、必勝を期して慎重に戦う決意を表明しました。 「劉備は天道に背き、自ら死地に飛び込んできました。臣は不才ながら威霊を奉じており、敵を撃破するのは時間の問題です。劉備のこれまでの用兵を見るに、多敗少成(負けが多く勝ちは少ない)であり、恐れるに足りません」
しかし、古参の将軍たちは陸遜の方針に不満を抱いていました。「攻撃するなら敵が侵入した当初にすべきだった。今や敵は五、六百里も入り込み、七、八ヶ月も対峙して要害を固めている。今さら攻撃しても勝機はない」と口々に不満を漏らしました。 陸遜はこれに対し、「劉備は狡猾で経験豊富であり、軍が集結した当初は思慮も鋭く、手出しができなかった。しかし今、長く留まって成果がなく、兵は疲れ意気阻喪しており、計略も尽きている。敵を攻めるなら今である」と反論し、頑として持久戦を貫きました。
孫桓の窮地と冷徹な判断
この対陣中、別働隊を率いていた孫桓が夷道で劉備の前鋒に包囲され、陸遜に救援を求めてきました。諸将は「孫桓は公族(孫権の親族)であり、包囲されて窮地にあるのに、なぜ救わないのか」と陸遜に詰め寄りましたが、陸遜は「まだその時ではない」としてこれを拒否しました。 「孫桓は兵士の心を掴んでおり、城は堅固で兵糧も十分にある。心配することはない。私の計略が発動すれば、孫桓の囲みは自ずと解ける」 陸遜は、目前の小利や感情に流されることなく、大局的な勝機を見極める冷徹さを持っていました。
火攻めによる決戦と蜀軍の壊滅
半年以上に及ぶ対陣の末、季節は夏となり、酷暑が両軍を襲いました。劉備は暑さを避けるため、水軍を陸に上げて林の中に陣営を移し、長大な陣地を構築していました。陸遜は、敵が疲労し、陣営が木々に覆われていることを見て、ついに「火攻め」の計略を実行に移します。
陸遜はまず一つの陣営を攻撃しましたが、不利な結果に終わりました。諸将は「無駄に兵を死なせただけだ」と不満を漏らしました。しかし陸遜は「私はすでに敵を破る術を悟った」と宣言します。 彼は各部隊に茅(かや)の束を持たせ、火を放ちながら敵陣に突撃させました。乾燥した木柵や陣幕は瞬く間に炎上し、強風に煽られて火は次々と隣の陣営へ燃え移っていきました。
勢いに乗った陸遜は全軍に総攻撃を命じました。張南・馮習や、蜀に味方していた胡王の沙摩柯らが斬られ、40以上の陣営が陥落しました。劉備の部将である杜路・劉寧らは窮して降伏しました。 劉備は馬鞍山に登って陣を布き、周囲に兵を配置して抵抗しましたが、陸遜は四方からこれを包囲して攻め立て、蜀軍を土崩瓦解させました。死者は数万に及びました。
劉備は夜陰に乗じて逃走し、駅伝用の人夫に自分を担がせ、軍装や物資を焼き払って道を塞ぎながら、辛うじて白帝城へと逃げ込みました。その舟船・器械・軍需物資はことごとく失われ、長江は蜀兵の死体で埋め尽くされて流れが滞るほどだったといいます。 劉備は「私が陸遜ごときに屈辱を受けるとは、これぞ天命か!」と嘆き、悔しさのあまり病を発することになります。
勝利後の慎重さと魏への備え
戦後、かつて陸遜の命令に従わなかった将軍たちは、その智謀に心服しました。孫権は「なぜ当初、諸将が命令に従わないことを私に報告しなかったのか」と問いましたが、陸遜は答えました。 「私は恩を受けて重責を担っていますが、才能は任に過ぎております。また、諸将は旧知の将軍や公室の親族であり、皆、国家にとって共に大事を成し遂げるべき人々です。私は古人の『相如・寇恂がへりくだって国事を優先した義』を慕い、彼らと協調して国事を済ますことを優先しました」 孫権は大笑いし、その態度を称賛しました。この功績により、陸遜は輔国将軍・荊州牧に任命され、江陵侯に改封されました。
また、徐盛・潘璋・宋謙らは、敗走した劉備を追撃して白帝城を攻めれば必ず捕らえられると主張し、許可を求めました。孫権がこれを陸遜に諮問すると、陸遜は朱然・駱統らと共に反対しました。 「曹丕は大軍を集めており、表向きは我が軍を助けて劉備を討つと言っていますが、内心には姦計があります。すぐに軍を引くべきです。さもなければ、魏軍が出撃し、我々は三方から敵を受けることになります」 陸遜の予見通り、間もなく魏軍が侵攻してきました(三方面侵攻)。しかし、陸遜らが既に備えを固めていたため、魏は大きな戦果を挙げられずに撤退しました。
石亭の戦い:周魴の偽装と曹休の敗北
黄武7年(228年)、孫権は鄱陽太守の周魴に命じて、魏の大司馬・揚州牧である曹休を誘い出す計略を実行させました。周魴は髪を切って偽りの降伏を申し入れ、曹休を信用させました。曹休はこれに乗じて歩騎10万の大軍を率い、皖城へ進軍してきました。
孫権は陸遜を召し出し、「黄鉞(皇帝の権威を象徴する黄金のまさかり)」を授けて大都督に任命し、曹休の迎撃を命じました。この時、孫権は自ら陸遜のために鞭を持って馬を御し、百官は彼に膝を屈したといいます。
陸遜は自ら中軍を率い、朱桓と全琮を左右の翼として三方から進撃しました。曹休は騙されたことに気づきましたが、兵力の多さを頼みに決戦を挑んできました。 陸遜は伏兵を用いて曹休を急襲し、これを大破しました。魏軍は敗走し、石亭まで追撃を受けて壊滅的な打撃を受けました。斬獲は万余に及び、軍資や器械のほとんどを呉軍が奪取しました。曹休は辛うじて逃げ帰ったものの、恥辱と背中の悪性腫瘍のために間もなく病死しました。
この勝利の後、軍は武昌に凱旋しました。孫権は左右に命じて、自らの御蓋(皇帝用の日傘)で陸遜を覆わせ、殿門を出入りさせました。また、陸遜に下賜された品々は、当時の常識を遥かに超える最高級の珍品ばかりでした。その後、陸遜は西陵に戻り、引き続き西の守りを固めました。
宰相としての重責と国政への諫言
上大将軍への昇進と太子の補佐
黄龍元年(229年)、孫権が皇帝に即位すると、陸遜は上大将軍・右都護に任命されました。この年、孫権は都を武昌から建業へ遷都しましたが、皇太子である孫登と尚書などの行政機関の一部は武昌に残されました。陸遜は孫登を補佐し、荊州および豫章三郡の軍事・行政を総監する重責を担いました。
この時期、呉の国内では若い貴族や官僚たちの間で、形式的な議論や遊興が流行していました。陸遜は、次代を担う孫登がこれらの悪影響を受けることを深く憂慮しました。 例えば、孫登の側近である謝景という人物が、「刑罰を先にし、礼儀を後にすべきだ」という曹魏の劉廙の説を称賛した際、陸遜は厳しく彼を叱責しました。
「礼儀が刑罰より優れているのは古来からの真理である。劉廙は詭弁を弄して聖人の教えを歪めているに過ぎない。君は今、東宮(皇太子)に仕えているのだから、仁義を遵奉して徳音を広めるべきであり、あのような邪説を口にするべきではない」
また、孫権の次男である建昌侯・孫慮が、堂の前に闘鴨(アヒルを戦わせる遊戯)のための欄を作って遊んでいたのを見ると、陸遜は正色して諌めました。 「君侯は経典を読んで自らを高めるべきです。こんなことをして何になるのですか」 孫慮は即座に欄を撤去しました。このように、陸遜は皇太子や皇族に対しても、厳格な師父として接し、その道徳的育成に努めました。
遠征への反対と民力の温存
陸遜は軍事の天才でありながら、無益な戦争を極端に嫌う政治家でもありました。孫権が功名心から遠方への遠征や大規模な事業を計画するたびに、陸遜は「民力の温存」を第一に掲げて反対しました。
嘉禾年間、孫権が夷州(現在の台湾)や朱崖(現在の海南島)への遠征を計画し、陸遜に諮問しました。陸遜はこれに対し、痛切な上疏を行いました。
「万里の遠征は風波の予測が難しく、民は水土に慣れず疫病にかかるでしょう。(中略)今の江東の衆だけで大業を成すには十分です。ただ力を蓄えて好機を待つべきです。(中略)治乱討逆には兵威が必要ですが、農桑と衣食は民の本業であり、干戈が収まらなければ民は飢え凍えます。民を養い、租税を寛くすれば、河渭(中原)も平らげられ、九有(天下)も統一できるでしょう」 出典:『三国志』呉書 陸遜伝
孫権はこの諫言を振り切って遠征を強行しましたが、結果は陸遜の予見通り、得られた利益よりも失った兵員の方が多いという惨憺たるものでした。
また、遼東の公孫淵が呉との同盟を裏切った際、激怒した孫権は自ら親征して討伐しようとしました。これに対しても陸遜は、「陛下が万乗の重きを軽んじ、雷霆の怒りを発して海を渡ろうとされるのは、臣の惑うところです」と諫め、中原の強敵(魏)が控えている現状で遠方の小敵に拘泥すべきではないと説きました。孫権はこの理路整然とした諫言を受け入れ、親征を断念しました。
呂壹事件と法の緩和
当時、孫権の寵臣である校事(監査官)の呂壹が権勢を振るい、些細な過失を重箱の隅をつつくように弾劾して大臣たちを陥れていました。丞相の顧雍でさえ無実の罪で投獄されそうになるほど、その専横は極まっていました。 陸遜は太常の潘濬と共にこの事態を深く憂慮し、涙を流して嘆きました。彼らは機会があるたびに孫権に呂壹の奸悪さを訴えました。最終的に呂壹の悪事が露見して処刑されると、孫権は自らの不明を恥じ、大臣たちに謝罪しました。
この事件に関連して、陸遜は法律の運用についても孫権に提言しています。 「近年、将軍や官吏が罪に問われることが多いですが、天下は未だ統一されておらず、進取を図るべき時です。小さな過ちは許し、彼らの能力を発揮させるべきです。峻厳な法と刑罰は、帝王の隆業ではありません」 孫権はこの言葉に従い、法を緩めて人材の登用を広げました。
丞相就任と二宮の変:忠臣の苦悩
赤烏7年(244年)、名宰相として呉を支えた顧雍が死去すると、孫権は陸遜を新たな丞相に任命しました。詔勅には「伊尹が湯王を助け、呂尚が周を翼賛したように、君も内政と外征の任を兼ね、その明徳を茂くせよ」と記され、陸遜への絶大な信頼が示されていました。 しかし、この栄誉ある地位は、陸遜にとって苦難の始まりでもありました。当時、呉の宮廷は「二宮の変」と呼ばれる深刻な後継者争いの渦中にあったのです。
二宮の変の勃発
皇太子である孫和と、孫権に溺愛される魯王・孫覇。この二人の皇子の間で、次期皇帝の座を巡る暗闘が繰り広げられていました。朝臣たちは太子派と魯王派に分裂し、国論は二分されていました。 太子派には陸遜をはじめ、諸葛恪、顧譚、朱拠らが付き、魯王派には歩騭、呂岱、全琮、孫弘らが付きました。
争いの発端は、孫権が庶子である孫覇を太子と同等の待遇で厚遇したことにありました。 陸遜は、全琮から「息子が魯王に仕えているので心配だ」と相談を受けた際、こう警告しました。 「君は金日磾(漢の武帝の忠臣)に学ばず、阿寄(全琮の子、魯王派の中心人物)をのさばらせているが、これは必ずや家門に禍をもたらすことになるだろう」 全琮はこの忠告を聞き入れず、かえって陸遜との間に隙を生じさせました。
適庶の別を説く上奏
陸遜は、国家の安定のためには「適庶の別(正嫡と庶子の区別)」を明確にすべきであるという信念を持っていました。彼は何度も孫権に上疏し、太子の地位を盤石にし、魯王の待遇を下げるべきだと主張しました。
「太子は正統であり、盤石の固めを持つべきです。魯王は藩臣であり、寵愛には差をつけるべきです。双方がその所を得れば、上下ともに安泰となります。謹んで叩頭し流血して、申し上げます」 原文:太子正統,宜有盤石之固,魯王藩臣,當使寵秩有差,彼此得所,上下獲安。謹叩頭流血以聞。 出典:『三国志』呉書 陸遜伝
陸遜はさらに、都の建業に出向いて、直接口頭で孫権を説得したいと願い出ましたが、孫権はこれを許可しませんでした。孫権は年老いて猜疑心が強くなっており、重臣たちが結託して自分に圧力をかけているように感じていたのです。
弾圧と孤立
魯王派の楊竺や全琮らは、陸遜が太子と結託していると孫権に讒言しました。 孫権の怒りは、まず陸遜の周辺の人物に向けられました。陸遜の姉妹の子である顧譚・顧承兄弟や、太子太傅の吾粲らが、次々と無実の罪で投獄され、流罪や処刑に追い込まれました。特に吾粲は、陸遜と数多く手紙をやり取りしていたことを理由に、獄死させられました。
孫権は陸遜に対しても、何度も使者を送り、強い言葉で譴責しました。陸遜は忠義を尽くしているにもかかわらず、主君に疑われ、親族や友人が次々と殺されていく現実に直面し、深い憤りと憂慮に苛まれました。
憤死、そして死後の名誉回復
赤烏8年(245年)、度重なる心労と憤激により、陸遜は病を発し、ついにこの世を去りました。享年63。 彼の死に際して、家に余財は全く残されていませんでした。清廉潔白な生涯でした。
陸遜の死後、子の陸抗が後を継ぎました。陸抗が都に参内して恩謝した際、孫権は楊竺らが作成した「陸遜の罪状20条」を突きつけ、一つ一つ問い質しました。陸抗は父の無実を証明するため、すべての項目について理路整然と弁明しました。
数年後、孫権は二宮の変の過ちに気づき、孫和を廃嫡し、孫覇に死を賜り、末子の孫亮を太子に立てました(二宮の変の終結)。 太元元年(251年)、陸抗が病気のため建業に戻った際、死期を悟った孫権は涙を流して陸抗に謝罪しました。
「私は以前、讒言を信じてしまい、あなたの父に対して大義を欠いてしまった。これは私の負い目である」
孫権は、陸遜に関する告発文書をすべて焼き捨てさせ、その名誉を回復させました。 後の皇帝・孫休の時代には、陸遜に「昭侯」の諡号が贈られました。
陸遜の死は、呉にとって取り返しのつかない損失でした。しかし、彼が遺した基盤と、その精神を受け継いだ息子の陸抗によって、呉の命脈はさらに30年余り保たれることになります。陸遜の生涯は、まさに「社稷の臣」と呼ぶにふさわしい、忠誠と知略に彩られたものでした。
三国志演義との差異
石兵八陣(八陣図)の幻術
物語(演義)において、陸遜の活躍を最も劇的かつ神秘的に描いているのが「石兵八陣」のエピソードです。
夷陵で劉備を破った陸遜は、敗走する蜀軍を猛追しますが、魚腹浦という場所で殺気立った雲が立ち込める怪しげな石積みの陣に遭遇します。これは諸葛亮が予め配置していた「八陣図」でした。
陸遜が部下と共に中に踏み込むと、突如として強風が吹き荒れ、砂塵が舞い、怪石が剣のように突き出し、土山が積み重なって波濤の音が轟くという超自然的な現象に見舞われます。陸遜は「私は孔明の計略に嵌った!」と叫び、脱出不能となって死を覚悟しますが、そこへ諸葛亮の義父である黄承彦が現れ、彼を陣の外へと導き出します。
黄承彦は「娘婿(孔明)からは『東呉の大将が迷い込んでも決して案内してはならない』と言われていたが、将軍の命を惜しんで助けた」と語り、陸遜は孔明の神機妙算に畏怖して、追撃を諦めて撤退します。
しかし、史実(正史)にはこのような記述は一切存在しません。陸遜が追撃を中止したのは、魏軍の侵攻を警戒したためであり、諸葛亮の幻術に敗れたからではありません。このエピソードは、陸遜の知勇を描きつつも、最終的には諸葛亮の知略がそれを上回っていることを示すための、演義特有の創作です。
孫桓の救出劇
演義では、夷陵の戦いの序盤、孫桓が蜀軍に包囲されて窮地に陥るシーンが描かれます。孫桓は孫権に救援を求め、諸将も直ちに出撃することを主張しますが、陸遜は「今は動くべきではない」と冷たく拒絶します。諸将は「孫桓様は主君の甥(正史では族子)であるのに見殺しにするのか」と陸遜を激しく非難し、陸遜と諸将の対立がドラマチックに強調されます。
最終的に陸遜が火攻めを成功させた後、孫桓は自力で囲みを破って脱出し、陸遜に「都督の神算、測り知ることができません」と謝罪する流れになっています。
[cite_start]これは史実の記述([cite: 1141])に基づいた展開ですが、演義では陸遜の冷徹さと、結果による大逆転のカタルシスを強めるための演出が加えられています。
最期の描写
正史における陸遜の最期は、二宮の変による孫権との対立、度重なる譴責による憤死という、悲劇的かつ政治的なものでした。
一方、演義では第108回で語られますが、その死因についての詳細な描写は省略され、ナレーションや事後報告で「憤死した」と語られるに留まっています。演義は蜀漢を主軸に置いているため、劉備死後の呉の内紛については比較的簡略に扱われる傾向にあります。
一族
陸遜の出身である陸氏は、「呉の四姓(顧・陸・朱・張)」に数えられる江東屈指の名門です。
* **祖父:** 陸紆(城門校尉)
* **父:** 陸駿(九江都尉。篤実な人柄で知られた)
* **従祖父:** 陸康
* 廬江太守。袁術(孫策)の攻撃を2年にわたって防いだが、落城後に病死。陸遜はこの陸康の元で養育されました。
* **妻:** 孫策の娘
* 孫権の姪にあたります。かつて陸康を攻め滅ぼした孫策の娘と婚姻することで、陸家と孫家の和解と結束が図られました。
* **子:**
* **長男:** 陸延(早世)
* **次男:** 陸抗
* [cite_start]父の死後、家督と兵権を継承。孫権の誤解を解き、呉の末期を支える大黒柱となりました。父・陸遜と共に「陸氏二代の名将」として称えられ、晋の羊祜との「羊陸之交」の逸話でも知られます。[cite: 1172]
* **親族:**
* 陸績(従叔父)
* [cite_start]陸康の末子。「懐橘(親のためにミカンを懐に入れて持ち帰る)」の故事で知られる孝子であり、博学多識な学者。陸遜より年下でしたが、序列としては叔父にあたります。[cite: 1100]
* 顧譚(姉妹の子、外甥)
* [cite_start]顧雍の孫。太子・孫和の四友の一人として活躍しましたが、二宮の変で魯王派に陥れられ、交州へ流罪となりました。[cite: 724]
評価
同時代・後世の評価
「劉備は天下に英雄と称され、一世に恐れられていた。陸遜は春秋正に壮(さかん)にして、威名は未だ著しくなかったが、これを摧(くだ)いて克(か)ち、その志の如くならざるは無かった。予(陳寿)は既に遜の謀略を奇とし、また孫権の才能を識るを歎じ、以て大事を済(な)す所以なり。(中略)遜の忠誠懇至、国を憂いて身を亡ぼすは、社稷の臣と庶幾(ちか)きかな」
出典:『三国志』呉書 陸遜伝 評
『三国志』の著者である陳寿は、陸遜を周瑜・魯粛・呂蒙と並ぶ呉の四英傑の一人として高く評価しています。特に、若い身空で天下の英雄である劉備を破った手腕と、孫権が彼を抜擢した眼力を称賛しています。また、晩年に国を憂いて死んだその忠誠心を「社稷の臣(国家の重鎮)」に近いと評しました。
孫権自身も、陸遜を次のように評しています。
「公瑾(周瑜)は雄烈で、胆略は人を兼ね備えていた。(中略)今、君(陸遜)がこれを継いでいる。(中略)子明(呂蒙)は(中略)籌略は奇に至り、公瑾に次ぐことができるが、言論の英発さは彼に及ばない。関羽を取る図は子敬(魯粛)に勝っていた。(中略)この三人の長所を、君は兼ね備えている」
[cite_start]孫権は、陸遜を周瑜・魯粛・呂蒙の後継者として、彼らの長所を併せ持つ人物であると最大級の賛辞を送っています。[cite: 936]
エピソード・逸話
* **美玉のような容貌:**
* 史料には具体的な容貌の記述は少ないですが、身長は八尺(約184cm)あり、声は鐘のように響き渡ったとされ、その態度は厳格であったと伝えられます。
* **孫権との信頼関係:**
* [cite_start]孫権は陸遜を深く信頼し、自分の印章を陸遜に預けていました。孫権が蜀の諸葛亮などに手紙を送る際、その内容に問題がないか、陸遜にチェックさせ、修正が必要なら陸遜が修正した後に封をして送るようにしていました。[cite: 1144]
* [cite_start]陸遜が都に報告に来た際、孫権は自分の使う日傘(御蓋)で陸遜を覆って殿門を出入りさせたり、自分の食べた料理の残りを賜ったりするなど、破格の待遇で遇しました。[cite: 1146]
* **倹約と清廉:**
* [cite_start]一国の宰相であり、上大将軍という最高位にありながら、陸遜は家産を治めることをせず、亡くなった時には家に余財が全くなかったといいます。[cite: 1163]
* **懐の深さ:**
* [cite_start]以前自分を批判した淳于式を「良吏」として推挙した逸話や、蜀軍を破った後に捕虜や降伏者を優遇し、逃げた妻子のいる者は呼び戻してやり、衣服や食糧を与えて帰したことなど、敵味方を問わず仁愛を持って接したエピソードが多く残っています。[cite: 1152]